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作家・田口ランディさんによる映画『カナルタ 螺旋状の夢』評 「存在をかけて信じる力」

作家・田口ランディさんから、『カナルタ 螺旋状の夢』に向けたエッセイをご寄稿いただきました。この場を借りて発表させていただきます。田口ランディさん、心よりありがとうございます。

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『カナルタ 螺旋状の夢』
存在をかけて信じる力

田口ランディ

 幻覚植物によるトリップという題材は、古今東西の多くの映画や文学に取り上げられてきたよね。だけど、描かれ方は一方通行。「幻覚を見て覚醒しました」的な人間主体に持っていかれがちだ。主人公の脳内の「覚醒」を促した幻覚植物は常に脇役。
 でも、実際は違う。アヤワスカやマジックマッシュルームのセレモニーにおいて、主役はあくまで植物だ。太田監督はそのことをよく認識している。植物の精霊への畏怖と敬意、それがあって初めて体験が現実と結びついていく。自然界への畏怖が幻覚体験におけるエゴの肥大から人間をすくい上げ生命の平等性へと啓かれたとき、自らの霊的な課題(ヴィジョン)が現れるのだ。
 映画の中で繰り返し描かれる「嘔吐」や、イモを口の中で唾液と混ぜて発酵させる「噛み酒」作りはこの映画のキモだ。吐き出す……という行為を実にていねいに、いや、執拗なまでに描いていることに感銘を受けた。
 現代では「ゲロを吐く」は汚いと行為とされているけれど、霊的なセレモニーの前に「吐く」ことは穢れを体の外側に排出することであり、今ふうに言えば座禅の前の断食のようなものだ。口は肛門とは違い言葉を発する聖なる器官である。その口を通して浄化が行われる。
 「噛み酒」も、唾液と混ぜたイモを口から勢い良く吐き出すことで、身体と植物の結合による「いのち」が吹き込まれていく。その酒は飲む者に精気を授ける。正直、「あの酒を自分は飲めるだろうか?」と自問した。しかし、他人のツバが汚いならディープキスができるだろうか?
 きれいと汚いの境界は「自分に属しているか否か」に左右される。排泄物も私に属している時は汚いとは思わず腸におさまっているが、体外に出た瞬間から「汚い」と感じる。他人の唾液で作った酒を飲めるかどうかは、自分と他者がどれくらい分離しているかで決まる。
 そういえば、私が子供の頃は切り傷を治すときに「ツバ」をつけたものだが、「唾液には雑菌が多くてかえって汚い」と言われるようになり、傷にツバをつける風習は消えた。だが、傷口を舐めて直したり、膿を吸い出したりすることは、かつては民間療法として普通に行われていた。赤ちゃんの鼻がつまった時には母親が鼻汁を吸い出してきた。
 これらの行為は、衛生的ではないのかもしれないが、行為自体が生物としての人間の根源的な生命力を予感させる。人間と動物と植物の境界を超えるような、古代の身体感覚、その残滓がこの映画には描かれており、見終わったあとに、なつかしいような、せつないような心地になるのだ。
 幻覚植物によるセレモニーは神聖なものだ。同時に危険でもある。アヤワスカを飲んで吐いてのたうちまわる様子を見ればいかに毒性も強いかがわかる。また、その幻覚作用は情け容赦なく意識の下に隠れていた恐れや怒りを拡大する。植物は感覚器官の機能を増幅するアンプとなり、世界が皮膚感覚を通して侵入してくる。その情報量は膨大で、精神は決壊したダムのようになる。溺れずに、感覚情報の渦の中から飛翔するためには「信仰」が必要だ。熟練した導き手は幻覚を泳ぎきるための灯台の役目となる。ガジェットの中からビジョンを掴み出すために何に集中すればいいのかを教えてくれる。
 映画は、主人公が自らの怪我を植物によって治療する決意を描いている。揺るぎなき自然界への信頼は信仰と呼んでいいだろう。存在をかけて信じる力が失せつつある現代人にはまぶしいような強い力だ。
 映画に描かれているような「大切なことは自然が教えてくれる」という思想は、日本人ならわりと容易に理解できる。日本人は世界でも希な自然好きの国民だからだ。自然災害の多い国土に暮らしながら日本人は自然に共鳴し自然を愛している。こういう恋愛感情に近いような自然観は西欧諸国にはない、と仏教学者の中村元氏が言っていた。自分にとってあたりまえの自然観だったので、そうなのか?と意外だった。それゆえ私たちは自然と切り離されるととても脆い。心が決壊してしまう。なのでシステム社会のガス抜きとして会社をあげて盛大な花見宴会などが行われるわけだ。あげくに酔っぱらって吐きまくり浄化する、あれも一種のセレモニーと言えなくもない。
 この映画は今、若い人たちに支持され全国で上映されていると聞いた。古代の身体感覚と繋がりあった世界に多くの人が共感している現実に希望を感じる。小さな植物を通して地球というクラウドと繋がっている少数民族の思想に触れるすばらしい機会を与えてくれた太田光海監督に感謝。そうなのだ。私たちには、もっとガス抜きが必要だ。 

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