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【憑依編】コントロールコントローラー

この記事は Goodpatch Design Advent Calendar 2021 19日目の記事になります。

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“アニミズム”と“降霊”

———古代メキシコのシャーマンたちは、彼らに働きかけてくる不可思議な力を「盟友」と名付けた。なぜ「盟友」と呼んだのかというと、彼らはそうした力を心ゆくまで扱えるものと考えたからだ。こうした観念が、シャーマンたちにとってはほとんど致命傷となった。なぜなら、彼らが「盟友」と呼んだものは、宇宙に実在はするが形を持たない存在だったからだ。現代のシャーマンたちはそいつを「無機質の存在」と呼んでいる。

カルロス・カスタネダ「時の輪」

“アニミズム”とは

アニミズムとは、生物や無機物を問わず、すべての「もの」に霊魂が宿っているという考え方のことである。目に見えない「霊的存在」を肯定した上で、それらがあらゆる物質に宿っていると考えるものだ。
アニミズムは宗教の成立/進化プロセスにおいても重要な考え方で、多くの宗教がアニミズム→多神教→一神教といった発達モデルを辿るとも言われている。

降霊を手筈するシャーマン

降霊術とシャーマン

アニミズムの集合的実践制度として、シャーマニズムがある。神や霊魂の存在を認めた集団の中で霊的存在と交流する宗教的職能者を、シャーマンと呼ぶ。

———シャーマンが神や霊魂と接触・交流する形態は、「憑依(ひょうい)」(possession)と「脱魂(だつこん)」(ecstasy)の2種類ある。前者は、神や霊魂がシャーマンの身体に入り込み、シャーマンの口を借りてメッセージを伝えるもの。後者は、シャーマンの霊魂が肉体から脱け出て、霊界や天界で神や霊魂と接触・交流するというもの。

(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」

本稿においてのシャーマン/シャーマニズムは上記の通り、”霊的存在との接触/交流を媒介する行為及び現象”を広く扱うものとする。
シャーマンのありようは、”霊的存在と人間の間に立ってそれを結節する”という意味で、とてもインターフェイス的である。また、霊魂を地上に降り立たせるにあたって自身の身体を媒介にするという意味で、オブジェクト的でもある。シャーマニズムの成り立ちの背景に職能の特権化があったにせよ、文明社会が複雑化する中で、ある意味「この世界とは違うもの・目に見えないもの」の存在ないしはメッセージを、自身が媒介となって民衆に伝える役目を負っていたことには違いはない。

まだそこに存在していない霊魂に“介して”触れること

反対に民衆の目線に立って考えよう。シャーマン———それは地域によっては巫女やイタコと呼ばれたりもする———の登場によって、非・宗教的職能者は霊的存在との直接の交流が叶わなくなったとも言える。シャーマンというインターフェイスを介さねば、そうした世界と接触できなくなったということだ。
宗教的職能者たちは儀式を通じて高次の存在を憑依させ、神のお告げを預かったり、霊の力を借りて病気の治療を行うこととなる。シャーマンは為政者であり、精神的・身体的医療者でもあったわけである。つまり一種のサービス提供者であり、民衆から使われる存在でもあった。しかもそれを、高次の存在からの力を借りる———媒介となることによって達成していたわけだ。

シャーマンが実際に霊的次元から何かを取り出していたか否かはここでは重要ではない。ここで重要なのは、シャーマンは高次元の存在(=知覚出来ない存在)からを自身の身体というかたちに憑依させ、現世の観客・観衆に対してそれらを取り出すという意味でインターフェイス的であったということだ。
そしてもう一つ重要なのが、それらを取り出すには必ずかたちが必要であったということだ。シャーマンはそのかたちとしての役割とかたちとしての構図の役割を担っていたということだ。
そしてその役割において取り出された何かは、具現化された意味性を伴い、わたしたちに伝達された。これは向井周太郎が「かたちの詩学」の中で整理していたこととも重なる。

インフォルム(inform)の原義には「生気を吹き込む、生気を満たす」という意味があり、インフォメーション(infomation)は「生気を吹き込む行為」(action of informing)だといえる。私たちの中に「いのち」がインフォルムされて、それがはじめて「情報」となるのだ

向井周太郎「かたちの詩学」

シャーマンの力を以て「生命を吹き込まれる」ことにより、霊的存在は触れることが可能な肉体を得た。シャーマニズムに頼る人々は、コミュニティや個人の中に、そこから得た「情報」を内在化していったとも言えるのではないか。

今日のデザイン論に置き換えれば、高次元の存在を”ソフトウェア”や”サービス”、シャーマン(+媒介となった肉体)が”インターフェイス”と言った言葉で置き換えることも可能だろう。

そしてソフトウェアやインターフェイスはあらゆる場所で民衆———ユーザー———に利用されるようになった。どういう仕組みで機能しているかわからず、知覚すらできない高次元の存在は、生活の中に融けていった。

【脱】心気を失うことを示す字で、
【兌】を字の要素としている
【兄】は【祝(ほふり)】であり、
その上に八の字に垂れているのは、神気の下る形である。
人はその惝怳(しょうきょう)して自己を喪失した状態にあるとき、神霊を宿すことができる。

白川静

意思の予期と結果。それをもたらす構図

———道具の発展に伴い大きな力が得られるようになった一方で、人と対象の愛大に機械や情報処理が入り込み、人間の操作は対象に対して徐々に関節的になってきている。<中略>
これは反省し、人間にとってのインターフェイスの重要性が意識されるようになった。そうしてヒューマンインターフェイスの研究では、石器時代のような道具のあり方、すなわち原因と結果が直接的な関係になることをひとつの目標とするようになった。たとえばハンマーのように、手荷物とそれ自体を意識せずに、釘を打つこと(対象)に集中できるようなあり方を理想であると考えるようになった。これを「道具の透明性」という。

渡邉恵太「融けるデザイン」

iPadのポインティングデバイスはコックリさんに似ている。

iPadのポインターは、私の意志によって動く。あるいは私の意志によって動いていくように見える。ポインターは私の絶え間ない選択を連続的に表象する。しかし、ポインターがオブジェクトにある一定の距離近づくと、それは自発的にオブジェクトへと吸着する。
私はオブジェクトを選択する。

それは、私たちの動きの先、選択の先を常に読んでいるとも言えるし、私たちの選択を作っていると言えなくもない。私は自らの意志としてそれを選んでいると感じているが、果たしてそれは本当だろうか。

コックリさん(Table turning)は、文字が書かれている紙にコインを置き、複数人がその上に指を置くと、文字の上をコインが勝手に動いて、霊的存在からのメッセージを伝えてくれるというものだ。コインは文字に吸着する。そうすることで、それが”霊的存在からのメッセージ”として我々が解釈可能なものになるというわけだ。
コインが動く理由については、既に次のような科学的な説明が為されている。

———参加者の潜在意識(予期意向)が反映され、無自覚に指が硬貨を動かすという説。<中略>
潜在意識説と合わせて、不覚筋動にもよるとされる。硬貨に指を添える体勢を取り続ける際にどうしても僅かに腕が動いてしまう。同じ姿勢を取り続けると、あっという間に筋肉が疲労するため、不覚筋動(Ideomotor phenomenon)が起こる。それらの力が集中しコインが動くと、今度は動いた方向へ力を入れて動かそうとする意識が完全に働くというものである。

Wikipedia「コックリさん」

ここでも、この儀式が科学的に説明可能な事象なのか、はたまた本当に霊的存在からメッセージを受け取っているのかについては重要ではない。
コックリさんの面白いところは、その儀式において「文字というオブジェクトが書かれた紙」が用意され、その上で「複数人で同じコインの上に指を置く」というルール付けが為されている点にある。オブジェクトが用意されることで、コインというポインターは文字に吸着する(あるいは吸着するように錯覚する)。そして複数人が同じコインの上に指を置くことで、意志の存在が曖昧になる。

本節の冒頭で引用した「道具の透明性」を考えるにあたっては、当然人間の”意志”なる概念についても考える必要がある。渡邉は「融けるデザイン」の中で、”自己帰属感”をキーワードに据え、”自己帰属の先のインタラクションの中に、新しい「私」を知覚する。つまり体験することとは「私」の存在を発生させるわけだ”と述べた上でこれからの未来にあるべきインターフェイスデザインについて論じている。
しかし、「私」の存在が物事の前で発生していようが、事後的な自己帰属の先で発生していようが、ここではそもそも「自己」というものが如何なるものなのかを、渡邉とは別のアプローチで考えてみたい。

自己帰属感と錯覚

ソフトウェアデザイン/インターフェイスデザインの世界では、「最小限のパワーで最大限の結果をもたらす」ことが「善い設計」とされることが多い。それはともすれば自己帰属感の最大化を目指すこととも言える。
当然であるが、道具が透明であることは危険を孕んでいる。それは人間が人間としての力では達成できないような結果を導くことができる。ナイフを使って人を刺したとき、まずその主体性はナイフではなくナイフを持つ人間に属すると考えるのが、現代の責任論のありようだ。この責任論のありようは、主体性を(透明な)道具を使う人に求める点で、道具論とも重なると言える。

iPadのポインティングデバイスは、オブジェクトとポインターの距離からユーザーの選択を”予期”するという動作を起こすことで、ユーザーの選択を有意識の速度より速くオブジェクトを選択させ得る。
果たして私は、私の意志によってオブジェクトを選択したのだろうか。

———自由意志の存在は、われわれには未来は知り得ないことを意味する。そして、われわれはその直接的経験があるからということで、自由意志は存在するだろうと確信している。意志作用は意識の本質的要素なのだと。
いや、そうなのだろうか?もし、未来を知るという経験がひとを変えるのだとしたら?それは切迫感を、自分はこうなると知ったとおりの行動をすべきだという義務感を呼び覚ますのだとしたら?

テッド・チャン「あなたの人生の物語」

ユーザーはソフトウェアからある種の”マジック”にかけられる。シャーマンが民衆に対して神からの力を施すように、デザイナーはそれをユーザーが道具として使える形にするためにソフトウェア〜ユーザーインターフェイス設計までを司る。
我々はそのようにして作られたソフトウェアやサービスに取り囲まれて暮らしている。自然物のようにただそこに在るものとしてではなく、人間が人間のために作った構造や仕組みの中に。しかもそれらは、アニミズム/シャーマンの時代と違って、そこから自由に何かを取り出せるような状態としてそこに置かれている。
高次元の存在から自由に何かを取り出せる状態に誰もがあるというのは、ある種の変性意識状態———​​意識を失っているわけではないが、日常で目覚めている状態とは異なる意識の状態———と言えるのではないか。あるいは、変性状態と覚醒状態の区別が曖昧になっているとも言えるかもしれない。

変性意識状態が“常に在る”ということ

———十分に高度な技術は魔法と区別がつかない

アーサー・C・クラーク

NETFLIXのドキュメンタリー「監視主義社会ーデジタル社会がもたらす光と影ー」では、TwitterをはじめとするSNSを構築したプロダクトデザイナーたちが、あれらの機能———​​無限スクロールやいいねなど———​​は作られるべきではなかったと頭を抱えながら後悔するシーンが繰り返し流される。
SNSの問題は、ここまでに論じた問題を考えるにあたっての格好の材料である。前述のドキュメンタリー作品では、ユーザーの行動データの集積があらゆる収益に繋がることから、ユーザーを”油田”と喩える。コミュニケーションのための道具だったSNSアカウントはいつの間にか透明になり、最終的には自分が誰かにとっての道具と化す。そこにあるのは矩形の写真や140文字のテキストのようなパーシャルなオブジェクトであるのに、それがユーザーの全体であるかのような錯覚を自他共に感じてしまう。ある種過剰な透明化の先に、道具が主体であるはずのユーザーを取り込んだとも言える状況だ。

シャーマンたちはある意味自覚的だったとも言える。神や霊的存在を常に自己と同化せずに、超越的な存在をあくまで超越的な存在として取り扱っていたのだから。シャーマンが強い権力を持っていたとしても、霊的存在との対比として彼らは生活者としての自分たちを忘れないための仕組みとして、降霊や憑依———あくまで例は別次元の存在であるとして、自己同一化しない———という形を選んだのではないだろうか。
では、ソフトウェアオブジェクトに囲まれ、ソフトウェアオブジェクトが自分と同化している中で、更にあらゆる意味で最大限自己帰属感を生み出すために透明化されていくインターフェイスを求める現代は、これから一体どこに向かっていくのだろうか。

操り、操られている状態を知覚する

———ウェンデル・ベリーは、精神的な価値さえあれば幸せになるにはテクノロジーなどいらないと言っているように見える。つまり彼は、テクノロジーは人間が良くなるために本当に必要なのかと言うのだ。
私はテクニウムと文明の起源は宇宙の根源的な流れにあると考えているので、私なりにこの質問を問い直すとこうなる———文明は人間を良くするために必要か。

ケヴィン・ケリー「テクニウム」

筆者はデザイナーとして、道具を知覚するありようを模索したい。これは道具の透明化/自己帰属感の研磨を食い止めるということではなく、いかにそれらと同居するかということだ。
道具を道具として扱っている自分をユーザーが知覚すること。自分自身がソフトウェアやサービスによって道具化されていることを生活者が知覚すること。それと同時にこれまでと同じく道具が透明な道具として自己を拡張すること。インターフェイスはやはり界面であり、それが透明になるというのは、そこに何事も存在しなくなるということではない。そしてデザイナーは「透明な状態を作る」ために存在するのではなく、ソフトウェアとユーザーのより善い関係性を考え、構築するために存在している。
ここまで見てきた通り、ものを“創造”するということは、ものに“創造”されるという同時性持っている。道具を使うということは、この逆行する二つの概念を同時に孕んでいる。今後メタバース等の登場によってより現実とソフトウェアの境目が曖昧になるであろう中で、それらをどう道具として扱い、共存するのか考えたい。
私たちはソフトウェアの世界に身体を文字通り没入させ、同一化する。その中で、自己とは何か、その世界で行われる結果はなぜ行われるのか、それは私の力なのか否か、それらを知覚し、道具として存在しうる状態を保ちながら操作し、操作される、コントロールコントローラーでなければいけない。

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我々の徴候は抽象であり、これは一方では、成り立つ全体から部分を分離するものとして作用し、部分それ自体の不合理を証明するか、あるいは部分を最大限に生かすことへと高めていく。
他方では普遍化と統合化へと作用を及ぼし、
大きな輪郭のうちに新しい全体を形づくっていく。
さらに、我々の徴候は機械化であり、
これは、生活芸術の全領域に及ぶとどまることのない過程である。
機械化可能なすべてのものは機械化される。
その結果は機械化不可能なものの認識である

オスカー・シュレンマー「人間と人工人物」

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原案・執筆 / mine
校閲・編集 / 田口和磨


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