ノイズとは

(***この文章は私塾の課題「ノイズは美しいのか」というテーマの議論の返答として書いたものですが公開いたします)

騒音、噪音が主観で変わるという話で思い出すのが、数年前にコンサートでルイージ・ルッソロのイントナルモーリの音を聴いた時のことです。舞台上では打楽器や電子楽器が数多く並んでいたのですが、その中でイントナルモーリは騒音楽器の名にふさわしいと思われる爆音ではなく、とても細々とした音でした。騒音芸術宣言から100年以上経った、現在のデジタルネイチャー時代と当時の耳の違いをまざまざと実感できた瞬間でした。

騒音、噪音、これらが個人各々の割合で混じり合っているのがnoise/ノイズ。そしてその割合は常に変わる。ノイズ=未知な音であり、不慣れで不快で予期せぬ音でもある。これが私の思うノイズの定義です。

ポール・へガティ著『ノイズ/ミュージック ~ルッソロからゼロ年代まで』(みすず書房)に、”ノイズと判定されたものが、あるところでは音楽となり、また別のところではある意味になるように、ノイズそれ自身は常に放散されている。この破壊的な要素とともに、ノイズは常に挫折に終わるべきものとして捉えられるべきである。慣れ親しんだものや受容できるものに変わることによって、ノイズはノイズに留まることに挫折する”という言葉がありますが、ノイズの性質を端的にまとめてあると思います。

とはいえ、ノイズの主な成分である環境音や、噪音は今もこれからも大きな位置を占めるだろうし、自分にとっては魅力的な音ですが、そう思う理由の一つには、それらが楽音と比べると身近な音であり、誰にでも認識できる平等な音、ヒエラルキーがない音だからだと思います(テクノロジーの普及で楽音も身近になっていますが)。この感覚はジョン・ケージの影響が大きいです。現存する規定や枠組みを超えたいし、そういうものが聴きたいので、新しい価値観を生み出すもの、何かはみ出ているように思えるものが自分の惹かれるノイズだと思います。

規定の枠組みから外れたものを獲得する方法として”エラー”を引き起こすやり方は、エレクトロニカのジャンルではovalがCDにサインペンで落書きをしてわざと音飛びさせ、そこで得た音を音楽素材にする例や、三輪眞弘の作品には人間に高速で演算処理をさせながら演奏をさせた結果、その限界を超えたときに現れるもの、その人間らしさ=個性を”エラー”と捉え、それを引き出すのが目的の一つというものがあります。また、実験音楽では、新しい音を探す行為は”エラー”を導く行為とほぼ同義なのかもしれません。

ノイズは未知の音、噪音について、全方位に関わる概念なので、それぞれで論じる必要が出て来ると思いますが、自分が音楽の素材として扱うノイズに関して書くと、”不慣れ”な故に”不快”さも少しだけ入っている、けれど、それよりも”好奇心が勝る、面白いと思える噪音”です。(“新しさを感じる”だけと慣れ親しんでいる要素がもっと多くなるので、ノイズには当てはまらない。)創作する時は、”ノイズを使うぞ”と意識して書いているわけではなく、面白いと思う音を書いているだけなので、結果的にノイジーなサウンドになるのですが、そのような作品では、ホワイトノイズやサイン波などの電子音を加工するか、また、楽器の音や環境音を録音して加工して使うことが多いです。再生スピードを変える、逆再生、フィルターをかける、ディストーション、グラニュラーシンセシスなどの加工をしますと、普段は楽音の一部となっている噪音が浮かび上がり、ノイジーなサウンドになります。また、弦楽器であればピチカート、スルポンティチェッロ、コルレーニョなどは頻繁に使いますし、管楽器であればマルチフォニック、スラップタンギングや入破音、声による摩擦音や無声音も使います。以前、湿度を感じる音について、自己紹介で書きましたが、自然との関わりも大きく関係していると思います。自分は温暖な日本の太平洋側で育ったので、自然の音は心地よいものでもあります。ホワイトノイズを使うのは、風の音に近いということと無関係ではないように思います。(例えば、寒い地域に住む人々は自然を敵とみなしているところがあるので、音楽に自然の音そのものを取り込むことは少ないということはありそうです)

今年のサントリーのサマーフェスティバルで聴いたラファエル・センドの作品、ピアノ、チェロの生音とアンプリファイされた音のバランスが絶妙で、高度に洗練されていたのですが、楽器の噪音が所謂”不慣れな”音ではなかったからか、”ノイジー”な印象はしませんでした。ピアノの内部奏法やチェロのハイプレッシャーの音が、耳慣れた音だったからなのかもしれません。でもそのバランスは体験したことのない新しい世界でした。それは”美しい”といえるものだったと思います。

“ノイズが美しい”とするのならば、それはノイズが自分の中で音楽として消化する過程にある、賞味期限付きの感覚なのだと思います。噪音が耳慣れた音になりつつある現段階において、何がこれから音楽の素材となる新たなノイズになりうるのか、興味があるところです。



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