うえのあきこ

台湾とつなぐ、つながる人やモノコトを増やしていきたいと活動中。 hanamikoji …

うえのあきこ

台湾とつなぐ、つながる人やモノコトを増やしていきたいと活動中。 hanamikoji shoes 日本スタッフ / 合同会社Akushu代表 2児の母もなんとかつとめてます。 Akushu 台湾とつなぐ・つながるWEBマガジン https://akushu-taiwan.com/

記事一覧

なぜ台湾雑貨屋になったかというと⑥

台湾留学から戻り、就活を始めた私に舞い込んできた台湾での就職話。 聞けば、沖縄の観光機関の台北事務所での勤務で、所長代理とのことでした。 沖縄と台湾をつなぐ仕事…

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なぜ台湾雑貨屋になったかというと⑤

両親に頭を下げて援助をしてもらい延長した台湾生活。 良き友人たちにも恵まれて、語学方面もそこそこ伸びて行き、という穏やかな良き日々を過ごしていました。 今でも通…

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なぜ台湾雑貨屋になったかというと④

中国語が全然しゃべれないのに台湾留学を決めた私。 同じゼミの院生に中国語学校をしているゼミ生(社会人・友人)がいて、その友人に助けてもらい書類をそろえて提出しま…

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なぜ台湾雑貨屋になったかというと③

もうひとりいる歴史の教官がちょっと苦手、という理由でA先生の研究室を選んだ私。 ゼミの時間は、4年生は卒論の進行状況発表、3年生は卒論の題材を探したりする下準備期…

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台湾ネコ、日本ネコになる。

うちには猫がいます。 御年11歳の立派な老ネコ。 名前はかりん。一応オスです。 台湾の保護ネコ施設からもらった猫。 当たり前の話なんですが、仕事って楽しいことばかり…

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中国語が大っ嫌いだった私が中国語をしゃべれるようになった。台湾からもらったのは勇気。語学は勇気があればいい。

私の現在の主な仕事は、輸入と小売り。それなりに中国語を使います。 台湾で沖縄の観光関係の仕事についていたころは、もっともっと、中国語を使っていました。 恥ずかし…

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なぜ台湾雑貨屋になったかというと②

「台湾」のことを思い出したのは、大学1年後期の講義でのこと。 講義の内容は「台湾文学」でした。超マイナー分野。笑 日本統治下の話が主で、重い内容でしたが、先生の…

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2020.05 台湾屋さんをめざすAkushuの現状

包み隠さずに言うと(包まなくても私の周りの自営業界隈のみなさま大体一緒だと思いますが)Akushuの状況は「良い」とはいえません。 「最悪」ではないけど、Akushu的には…

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なぜ台湾雑貨屋になったかというと①

台湾雑貨屋で一応会社をしていて、hanamikojiという台湾のシューズブランドの日本総代理であるわたし。「台湾」で食っていきたいと思っていますし、それを超えて日本と台湾…

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台湾雑貨屋、コロナをきっかけにnoteを始める

みんなが書いていて、何やらよさげらしいnoteを始めようと思ったのは、実は自分の意志ではなく夫のススメ。 新型コロナウイルスの影響で娘ふたりの保育園への登園を自粛。…

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なぜ台湾雑貨屋になったかというと⑥

台湾留学から戻り、就活を始めた私に舞い込んできた台湾での就職話。 聞けば、沖縄の観光機関の台北事務所での勤務で、所長代理とのことでした。 沖縄と台湾をつなぐ仕事!しかも駐在扱い。ってことは条件も悪くない!(実際に院卒の小娘の初任給としてはなかなかない金額と待遇) ふたつ返事で飛びついたのは、皆さん想像に難くないでしょう。 今思えばミラクル。台湾以外の韓国や県外の事務所長代理は、みんな酸いも甘いもかみ分けたおじさまたちばかり。 新卒で、バイトくらいしかしたことない私にお

なぜ台湾雑貨屋になったかというと⑤

両親に頭を下げて援助をしてもらい延長した台湾生活。 良き友人たちにも恵まれて、語学方面もそこそこ伸びて行き、という穏やかな良き日々を過ごしていました。 今でも通っていた政治大学の景色だったり、まずいコーヒーチェーン店で長話をしたり、貧乏学生で100元以上のご飯には抵抗があったこと、臭豆腐がおいしく感じるようになったあの日などを、時折ふわっと思い出して懐かしくなります。 …そして見えてきた最終学期。 私はあるチャレンジをしました。 それは奨学金をもらってもう一年台湾に残

なぜ台湾雑貨屋になったかというと④

中国語が全然しゃべれないのに台湾留学を決めた私。 同じゼミの院生に中国語学校をしているゼミ生(社会人・友人)がいて、その友人に助けてもらい書類をそろえて提出しました。 自分の力だけでは書類を完成させるのも厳しかったかもしれません。 普通そういう人は、代行業者にお願いして申請します。もちろん費用が発生します。 困っていると助けてくれる人がいる。そういう意味では私は本当に人に恵まれています。 ちなみに現地で部屋を探すときは、指導教官のA先生のゼミに留学していた台中在住の友人が

なぜ台湾雑貨屋になったかというと③

もうひとりいる歴史の教官がちょっと苦手、という理由でA先生の研究室を選んだ私。 ゼミの時間は、4年生は卒論の進行状況発表、3年生は卒論の題材を探したりする下準備期間でした。 当時3年生だった私は、いくつか興味があるテーマを発表し、(多分。すでに失念。)その中でたどり着いたのが「日本統治後の台湾と沖縄のかかわり方。」 台湾のたどった歴史と、沖縄の歴史に共通点を感じていたこと、祖父母が台湾にいたことが、テーマを選ぶ上で大きく影響していたと思います。 沖縄県人の台湾からの引き

台湾ネコ、日本ネコになる。

うちには猫がいます。 御年11歳の立派な老ネコ。 名前はかりん。一応オスです。 台湾の保護ネコ施設からもらった猫。 当たり前の話なんですが、仕事って楽しいことばかりではなくつらいことも多いわけです。 生活に癒しと潤いと張りが欲しいなと思ったとき、猫を飼いたいと思いました。 せっかくなら保護ネコをと思い、いろいろな譲渡会を見て回ったり、施設に行ったり。 そんな中で出会ったのが我が家のねこでした。 彼は一度譲渡されたにもかかわらず、もらい手を噛んでしまい、出戻りになった不憫

中国語が大っ嫌いだった私が中国語をしゃべれるようになった。台湾からもらったのは勇気。語学は勇気があればいい。

私の現在の主な仕事は、輸入と小売り。それなりに中国語を使います。 台湾で沖縄の観光関係の仕事についていたころは、もっともっと、中国語を使っていました。 恥ずかしい話ですがわたしはチキンで自分にあまり自信がない人間です。 ただそれでも、「中国語をしゃべれるか?」と聞かれたら、「しゃべれる」と答えるでしょう。 「わたしは中国語をはなせます。」 2003年当時の私が聞いたら驚くよね。きっと。 そう、私は中国語がものすごーく嫌いでした。 第2外国語はもちろん中国語にしていたけれ

なぜ台湾雑貨屋になったかというと②

「台湾」のことを思い出したのは、大学1年後期の講義でのこと。 講義の内容は「台湾文学」でした。超マイナー分野。笑 日本統治下の話が主で、重い内容でしたが、先生の解説はそれはそれは興味深いものでした。 講義を聴いているうちに、ぶわっと思い出したのは日本統治下の台湾に沖縄から移りすんで暮らしていた祖父母のこと。 楽しそうに台湾時代を語る祖母。台湾にいたおかげで、戦争で死なずにすんだのかも、とつぶやく祖父。 わたしが運よく?生まれたのは、祖父が台湾にいたおかげかもしれなくて

2020.05 台湾屋さんをめざすAkushuの現状

包み隠さずに言うと(包まなくても私の周りの自営業界隈のみなさま大体一緒だと思いますが)Akushuの状況は「良い」とはいえません。 「最悪」ではないけど、Akushu的にはまあ残念な状況です。 まず、4月、5月、6月、とんで8月まで入っていたイベントが軒並み吹っ飛びました。ただいまお誘い受けているイベントもありますが、おそらく仕入れの関係で断念せざるをえない感じ。 そもそもAkushuはかぜが吹けば飛ぶような弱小ですが、おそらくこれまでコツコツ活動していたこと、そして周

なぜ台湾雑貨屋になったかというと①

台湾雑貨屋で一応会社をしていて、hanamikojiという台湾のシューズブランドの日本総代理であるわたし。「台湾」で食っていきたいと思っていますし、それを超えて日本と台湾の交流に貢献したいと本気で思っています。 なんでこんなに台湾に固執してしまうのか、自分でもよくわかりません。 台湾のことを熱烈に好きかっていわれるとちょっと違う気がする。 でも、やっぱり台湾は自分を構成する大きな要素だ、と感じるところがあって、それは私のルーツに台湾がちょっとだけ関わっていることが大きいのか

台湾雑貨屋、コロナをきっかけにnoteを始める

みんなが書いていて、何やらよさげらしいnoteを始めようと思ったのは、実は自分の意志ではなく夫のススメ。 新型コロナウイルスの影響で娘ふたりの保育園への登園を自粛。結果仕事をしたくてもなかなか思うようにいかない日々。 上の娘が生まれてからAkushu(台湾雑貨のオンラインショップ)を始めるまでの、あのどうしようもなく何もかもが自分の思い通りにいかない日々がよみがえりました。 上手くいかない日々をなんとか変えたくて、無理やりはじめたのがAkushu。最初はもちろんそんなに上