見出し画像

vol.1 日本の「草の根文化系レズビアン・アクティヴィスト」がUSAでクィア理論を学び始め、混乱する

 今年、2018年は私が研究を始めて20周年になります。『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』(太田出版、2015)、『BL進化論〔対話篇〕 ボーイズラブが生まれる場所』(宙出版、2017)の、溝口彰子です。突然ですが、20年前を振り返ろうと、当時書いたロング・エッセイを引っ張り出してきました。
 連載当時のタイトルは「日本の『草の根文科系レズビアン・アクティヴィスト』がUSAでクィア理論を学ぶと……」。『イメージフォーラム』という映像文化を中心に扱う雑誌で1999年春から2000年初頭まで、4回にわたって連載したものです。1980年から1995年まで刊行されていた『月刊イメージフォーラム』とはまた別の、この時の新装刊『イメージフォーラム』はA4変形版の大判雑誌でした。執筆陣はプロの評論家や研究者ばかりで、著名な映画監督のインタビューも載っている……そんな雑誌に自分の留学日記が、自分が撮影した写真とともにカッコよくレイアウトされた記事として掲載されて、とても嬉しかったことをよく覚えています。留学先のみなにも誌面を見せたかったので、 “Japanese Grassroots Lesbian Cultural Activist Encounters and Be Confused by Queer Theory in US Graduate Program”という英語タイトルも載せてもらっていました。「クィア理論を学ぶと……」という含みのある語尾で終わらせるのが英語では変なので、「クィア理論に出会い、混乱させられる」となっていますが、まさにその通りの内容です。当時、他の執筆陣の方たちから、「こんなに率直に自分の無知をさらけ出せるというのはすごい。ふつうはもうちょっと知ったかぶりをするものなのに」といった反響をもらっていたそうです(笑)。
 そんな雑誌連載の4回分を、web上で読みやすい単位で1回ごととし、10数回にわたってアップしていく予定です。20年前、大学院1〜2年生の溝口の七転八倒ぶりを、よろしければお読みください。

※以下、基本的に1999年に連載していた当時のままのテキストを分割して掲載します。

昨年9月から、ニューヨーク州北部、ロチェスター市にあるロチェスター大学の「ビジュアル・アンド・カルチュラル・スタディーズ」というプログラムの博士課程1年生になった。

 このプログラムはスタートしてまだ1年足らず。美術(制作)、美術史、映画、理論(精神分析、記号論、マルクス、構成主義、脱構築、ポストコロニアリズム、フェミニズム、クィア...)にわたる学際的なプログラムで、レズビアン・セクシュアリティとアート、アクティヴィズムとアートとの交差するところを見つめるために理論を学びたい、というわたしの希望がかないそうな、全米でも数少ないプログラムのうちのひとつだ。

 また、ダグラス・クリンプが年の半分教えているというのもおおきな魅力だった。というのも、日本と違ってレズビアンやゲイの学者はたくさんいるアメリカでも、ダグラスのようにゲイで学者でアクティヴィストで美術評論家、という人は珍しいし、1994年の横浜でのエイズ会議に来日した彼の話しぶりに感銘を受けていたから。

 実際にここに来てみて、プログラムは思った以上にこぢんまりして「家庭的」で居心地はいいし、ダグラス以外にも面白い教授が何人もいるしで、ロチェスターが「サバービア」していて退屈なのを「勉強の邪魔が少なくてけっこう」と解釈すれば、わたしにとって最高の環境だといえると思う。

 にもかかわらず?混乱して、とまどうことの連続だ。最初のころは混乱しすぎて何がなんだかわからなかったのだが、2ヶ月半たった今では、この混乱のほとんどはカルチャー・ショックによるものなんだということがわかってきた。

 カルチャー・ショックといっても生活習慣の違いによるショックではなくて(笑)、「東京の「草の根文化系レズビアン・アクティヴィスト』」が、
(1)「アカデミック業界」に参入してのショック
(2)1998年のアメリカの「クィア」に遭遇したショック
のおおまかにいって2つだ。

 ここに来る前のわたしは、東京で「草の根文化系レズビアン・アクティヴィスト」という変テコな肩書きで、レズビアンやバイセクシュアル女性のためのスペースLOUDの運営にたずさわったり、レズビアンの立場からアートや映画の批評を書いたり、といったことをしていた。レズビアン向けのミニコミにペンネームでかかわり初めてからでもたかだか5年、本名で活動するようになり、同時にいわゆる「商業誌」にも寄稿するようになったのが1996年からと、決して長くはないのだが、「草の根文化系レズビアン・アクティヴィスト」としての自覚が確固たるものになるには十分な期間だった。

 1996年の初頭に思いつきで一度使った変テコで長ったらしい肩書きを2年近く使いつづけたのは、「レズビアンだ、ということを言いたい(言わないと、存在しないものとして扱われるから)」「草の根の地道な活動をしていることを誇りに思っている」「直接的政治行動はしていないけれど、執筆活動のすべてをアクティヴィズムとして行っていることを表明したい」という思いを表現する肩書きが他に見つからなかったから。留学のために活動の現場から離れてしまったから、アクティヴィストだと名乗るのは気がひけるけれど、今でも精神的には変わってはいない。理論を勉強したいと思った理由も、いってみればよりよい「草の根文化系レズビアン・アクティヴィスト」になるために必要だと思ったからなのだ。

 具体的には、たとえばアートに関していえば、直感的に接しているだけでは「好きな作品」の紹介はできても「嫌いな作品」の分析となるとお手上げだということにある時気づいたのだが、「嫌い」のなかにこそ重要なことが隠されているような気がして、どうしてもつかまえたくなった。そして、そのためには、同じような問題について、過去・現在の他の人たちが意味を見つけようと考えたこと(=理論)をひもとくのが近道なんじゃないか、と思ったのだ。同じように、セクシュアリティについて、ジェンダーについて、欲望について、鑑賞者のまなざしについて...など、日常生活のなかで一人で考えても答えが見つかりそうもない疑問が増えてきていた。

 そのためになぜアメリカに来たかといえば、わたしは独学ができるタイプの人間じゃないー要するに怠け者なんですーから学校に入りたいと思ったこと、レズビアンやゲイの学者すらほとんどいない日本国内の学校で勉強するのは不可能だと思ったから。

 あ、それともうひとつ。これは、ひどく生意気にきこえるかもしれないが、欧米のレズビアン/ゲイ・コミュニティの「すすんだ状況」を断片的に遠くから見聞して「勇気づけられる」、という構図から抜け出し、「欧米」の状況のなかに身をおいてみたかった、ということもあった(欧米と言いつつ、私の頭のなかにあるのは、実際に行ったことのあるアメリカ合衆国のいくつかの都市、モントリオール、コペンハーゲン、シドニー、パリだ。シドニーは欧米だろうか?)

ロチェスター

さて、ここで前述のカルチャー・ショックに話を戻すと、まず(1)。
これは大学院に入る事で参加した「アカデミック業界」という文化圏の「共通言語」を知らないことからくるカルチャー・ショックだった。

 たとえば、「ビジュアル・アンド・カルチュラル・スタディーズ・コロキウム」は1年生の必修で、今世紀の思想史の流れを概観するという内容。ベンヤミンとアドルノを読んだ次の週にはアルチュセールとロラン・バルト、次はカルチュラル・スタディーズ、次はラカン、次はデリダ.........という具合。どれもこれも初めて読む論文ばかりだったわたしの頭のなかは大混乱をきたした。読んでも読んでも、よくわからない、の連続だったのだ。ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」とアドルノの「音楽におけるフェティッシュな(物神的)性質と聴衆の退化」が課題の週はとくに悲惨だった。大衆と芸術の受容、という切り口を手がかりに何とか読み進めてはいくのだがー段落ごとに余白にぎっしり日本語でメモを書いて、字幕をつけているような気分になりつつー結局、何がいいたいのか、がよくわからない。だから、授業中に交わされる「ベンヤミンとアドルノの比較論」に参加できるわけもなく、ましてや「今、言われた『権力』というのはフーコーのそれとどう違うのですか?」なんて質問をするクラスメイトをぼう然と見つめる、といった具合。

 さすがにこのままではまずい!と日本の友人にメールで相談し、10月はじめに遊びに来たパートナーに『岩波 哲学・思想事典』を買ってきてもらったのだが(重い!と怒られた)、その結果判明したことは、前提となっている思想の概念を日本語でも知らないのだから、わからなくて当然だった、ということ。英文読解力の問題ではなかったのだ。マルクスにおける「フェティッシュ」の意味をかなり正確に理解していないと、ベンヤミンの議論は擦り抜けていくのだろうし、哲学用語としての「総合=シンセシス」を知らずに「シンセサイザーみたいにまとめて加工するってことかしら」と思いながらアドルノを読んでも、字面は追えるけれども内容はこぼれていく、といったように。

 具体例をあげればキリがないのでひとつにしておくが(笑)、ともかく、「アカデミック業界」というのは、わたしにとって言葉の通じない外国のようなものなのだから、カルチャー・ショックを受けて当然だったわけだ。まあ、そうとわかれば、新しく外国語を習うのと同じだと思って、日々、少しずつトレーニングしていくしかないわけで、おかげでショック状態は抜け(?)黙々とワークアウトにはげんでいる(それにしても、「ラカンを理解するには2年かかると思って、わからなくても心理的に抵抗せずにとにかく読み続けること」なんて励まされると、生きている間にどれだけ「しゃべれる」ようになるのやら、不安にはなる。筋トレだったら3ヶ月で効果が出るのにね)。


そして、(2)の1998年の「クィア」との遭遇のカルチャー・ショック。まずは、「クィア」という言葉がどうしたってわたしには外国語だ、ということ。

 日本で使われるときは、「もともとは『奇妙な』といった意味から『変態』や『オカマ」といった蔑称となったのを、近年、同性愛者たちがあえて誇りをもって使うようになった言葉」といった解説つきなのが通例で、それはその通りなのだが、実際のところ、「変態」と置き換えても意味はズレるし、ましてや「オカマ」と訳したら女にはまったく関係がなくなってしまう。OED(Oxford English Dictionary)をひいてみたところ、"queer"が「(通常男性の)同性愛」を示す言葉として使われている例として1922年のものから紹介されているが、「同性愛」と直接的に表現するのを避けて使われたともとれる例文だ(とすると、現代日本語に訳してみると「あっちの趣味」といったところかしら)。

 さらに“to be queer for"には「だれだれが好き、愛してる」という意味もあって、1956年の使用例として、ボールドウィンの『ジョヴァンニの部屋』(!)からの「実は、僕も女の子も好きだったりするんだよね」(“Actually, I'm sort of queer for girls myself."私訳です)という一節が載っていたりもする。ともかく、「変態」とも「オカマ」ともかなりズレることは確かだ。

 意味のズレというのは、外国語を翻訳する際には避けて通れない、しかたのないことではある。ただ、「クィア」の場合、蔑称としての「ホモ/変態野郎」なりあるいは「好き」なり、とにかく心が痛んだり喜んだりする感情的な概念なだけに、それが実感できないというのはちょっと「痛い」。

レズビアン・ハーストーリー・アーカイヴ(ニューヨーク)


連載当時の『イメージフォーラム』新創刊準備号0号の誌面

連載第1回「日本の『草の根文科系レズビアン・アクティヴィスト』がUSAでクィア理論を学ぶと……」を3分割し、タイトルを修正した前編です。初出『イメージフォーラム』(服部滋編集長、ダゲレオ出版)新創刊準備号0号(1999春)(特集タイトル「映像とジェンダー/セクシュアリティ」p.74-79を分割
(カラーで再提示している写真は基本的に溝口自身の撮影による)

*冒頭写真:1998年当時のわたし
 
* デジタル化にあたっては、長年の友人であるモチドメデザイン事務所の持留和也さんにお世話になりました。

太田出版

宙出版

Rakuten ブックス

Honya Club

Amazon



研究20周年の節目に、アメリカの大学院に留学し、理論トレーニングをうけはじめたころのエッセイをこちらで公開することにしました。『BL進化論』のメイキングでもあり、視覚文化研究者としての私の出発点でもある熱き日々の記録を、ひろくお読みいただければ嬉しいです。コメントもお気軽に!