マウンティングと宇多田ヒカルの『Prisoner of Love』

「希少性を高めるとかいう考え方自体、もう古くない?」

こう言ってうんうんと頷く人とさっぱりわからない人はここ最近ぱっきり分かれていて、ほほう、これが世にいう二極化ってやつね、と私はひとりごちる。

あっちになくてこっちにある。それは単なる事実で対等で、どうしてそれに「偉い」「偉くない」がついてくるのか。私は幼い頃からそれがわからなかったし、わかりたくて「偉い」と「偉くない」で成り立つマスメディア業界に身を置いて、それでやっぱりわからなくていいや、と思い、今、加計呂麻島で暮らしているのかもしれない、と思う。

先日、加計呂麻島を訪れてくれた人とカテゴライズについての話になった。

「カテゴライズ好きな人には、島で暮らし始めて『あー、三谷さん、エコでロハスでスピリチュアルでナチュラルに転んじゃったんだー、アラ40あるあるー』と思われてるんだろうなーってのはありますねえ」

そう言うと、話し相手は「ぶは」と笑って、私は、「ね、あるあるでしょ」と答えた。

「そうなんだー、キラキラ女子で美魔女で恋を諦めなくて大人女子でインスタグラマーでブロガー? みたいな? ごめんね、島暮らしでそういうのうとくなってるから例えが古くて」

その言葉に、こう返せば立派にライフスタイル・マウンティングが完了だ。しかし、そもそもライフスタイルという言葉を、メディアの中のカテゴリーとして便宜上使う以外で、本気で言っている人などいない、と思う。

と、このように、ちょっとマウンティング例を出すだけで、今度は、「ライフスタイルなんて言葉をマジで使ってるやつはダサい」マウンティングに自分も嵌まりだしそうで、本当に、マウンティングのループはびっくりするぐらいの引力だ。今、マウンティング例と書こうとしたらマウンティング霊と変換され、むしろこの方がしっくりくるのでは、と思うぐらいである。

さて、このマウンティング、要は「偉い」「偉くない」という力点の魅力とは、一体なんだろう?

そこまで書いて筆が止まったのでTwitterのタイムラインで話題になっていた宇多田ヒカルのNHK特番『SONGS』をオンデマンド放送で見た。

最近、天才はどこかからっぽでぽかんとしているな、と思うことが多く、宇多田ヒカルもまさに、という感じだったのだが、その話はまた別の機会にしよう。

その番組の中で『Prisoner of Love』が流れた。

2008年にリリースされたこの曲のタイトルを邦訳すると『愛の囚人』『愛の虜』といった意味のようだ。

この曲を久しぶりに聞いて、ああ、マウンティングもまさに『愛の囚人』『愛の虜』だよな、と思った。

『Prisoner of Love』の歌詞をすべて書き出せば、このnoteで言いたいことはほぼ終わりなのだが、そういうわけにもいかないので一部歌詞を引用して話を続ける。


残酷な現実が二人を引き裂けば

より一層惹かれ合う

いくらでもいくらでも頑張れる気がした

I’m just Prisoner of Love

Just Prisoner of Love

ありふれた毎日が急に輝きだした

心を奪われたその日から

孤独でも辛くても平気だと思えた

I’m just Prisoner of Love

Just Prisoner of Love

Stay with me,Stay with me

My baby,Say you love me

Stay with me,Stay with me

一人にさせない


困難を乗り越えてそれでも一緒にいたいと思う美しい恋愛、と一見見える歌詞のタイトルが『愛の囚人』。宇多田さん、当時20代。圧巻の諦観。

マウンティングをしあう間柄同士は、相手と自分は違うと思いたがり、そのくせ、とても惹かれ合っている。でなければ、関わり合うはずがない。

だって、相手と自分が違わないと、「残酷な現実」(マウンティングをしたくなる事象)がやってこない。そして、「残酷な現実が二人を引き裂」く度に、側にいたいがため、「より一層惹かれ合う」(マウンティングをしあう)。そして、また(マウンティングを)「いくらでもいくらでも頑張れる」。ただ、『愛の囚人』あるいは『愛の虜』のままで。

「ありふれた毎日が急に輝きだした」のは、誰か特別な存在に(マウンティングをする相手は特別な存在でなければ意味がない。「あなた、自分が特別だと思っているんでしょ? だから引きずり降ろす」がマウンティングの本質だから)、「心を奪われたその日から」。特別な存在(マウンティングをする相手)がいるから「孤独でも辛くても平気だと思えた」(マウンティングをしている間は自身が偉い、もののわかった人間であると思えるので、孤独でも辛くてもヒーロー、ヒロインになれる)。ただ、『愛の囚人』あるいは『愛の虜』のままで。

愛していると言って、このまま側にいて、一人にさせない。

マウンティングをする人間は、いつも、「愛していると言って、このまま側にいて、一人にさせない」って言っている。

でなければ、「あなた、自分が特別だと思っているんでしょ? だから、引きずり降ろす」とは思わない。一緒にいたいから、引きずり降ろすのだ。

優越感と劣等感の分離したスープは鍋で煮立てればぐるぐる回り、延々に飲み続けられそうな麻薬的な味をしている。罪悪感はまるでコンデンスミルクのようで、口の中が甘さで痺れても、指ですくうだけでは飽き足らずチューブごと飲み干す。

わかる、それが、とても、おいしいの。

でも、ずっと食べてると、飽きない?

ちなみに、このnoteを書いている間にマウンティングという言葉を使い過ぎて私は完全に飽き始めている。というより、ゲシュタルト崩壊しつつある。もう、本来の意味の犬や猿のマウンティングしか浮かばない。そして、本来の意味がうろ覚えだったのでマウンティングをGoogleで検索したら、一番最初にこの記事が来て、ビッグデータは人間の思考の可視化であると思っている。

そして振り出しに戻ってもいいけど、それは結局同じ味、テイスト。

テイストは、味、味覚、経験、個人的な好み、趣味という意味で、『愛の囚人』『愛の虜』でいるのも、きっと映画館でポップコーンのフレーバーを気分で選ぶようなもの。

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。