凡人と狂人

天才と狂人は紙一重というけど、凡人と狂人も紙一重だ。

道端で電話をかけている知らない人に飛びかかって、電話を奪い取って叫んだらもう狂人だし、ていうか意味不明なことを話かけるだけで狂人だし、黄色いペンキを買ってきて奇声をあげながら道路にぶちまけたら狂人だし、レストランで頼んだオムライスを手で掴んで窓に投げつけたら狂人だ。

狂人じゃない人は、ただそれをやらないだけで、知らない人に飛びかかることはないし、道路にペンキをぶちまけることはないし、レストランで頼んだオムライスはスプーンを使ってちゃんと食べる。

狂人になりたかったら、草を丸めて作った王冠と身体に巻き付けたシーツだけで、裸足で歌いながら外を歩くだけでいい。狂人にはすごくお手軽になれる。でもそれをみんなやらないのは、特にやりたくないからだし、やっても特にいいことがないから。

凡人と狂人の間にある壁はすごくすごく薄い氷のようなもので、ちょっと亀裂が入るだけでその境界は揺らがされる。その境界線は普段は目に見えないものだが、確かにあって、その常識とか社会性とか言われる境界線を知っていくのが大人になっていくっていうことだ。みんなその境界線は薄々感づいているという程度しか意識していないんだけど、ものすごく強固なものとしてあって、普段ものすごく注意深く、それを超えないようにがんばっている。

お酒を飲むと道に転がって意味のわからないことを絶叫したりして狂人に近づくけど、それは「お酒を飲んでいるから」ということで社会から許されたりする。それも不思議なことだ。

わたしは街で電話をしている人を見るたびに「いま飛びかかったらこの人はものすごく迷惑そうな顔をするんだろうな」とか、レストランに行って「このオムライスを手で窓に向かって投げつけたら騒然とするんだろうな」とか考えてしまう。そしてその可能性をわざわざ「別にやりたくないし、意味がないからやめておこう」と潰していく。夢想家ってこういう人のことを言うのだろう。

うちの両親はものすごい田舎でお見合い結婚をした公務員と幼稚園の先生というザ・常識の人で、「絶対に狂った振る舞いをしてはならない」とずっとずっと教育されてきた。だからわたしは本当は狂気の沙汰みたいな行動をずっとやってみたかったのかもしれない。全裸でペンキを全身に塗ってカンバスにバーンと体当たり、みたいなことをやってみたいのかもしれない。こう書いても特にやってみたい気は起こらないが、きっと深層心理ではこの常識に満ちた堅苦しい世界に反抗したいぜと思っていて、それが上の意識に浮かび上がってこないから、なんだか抑圧された衝動が時々飛び出しそうになっているのかもしれない。

気になるのは、他のみんなもその境界線を揺るがせる誘惑にいつも駆られているのかなということだ。この誘惑は何の意味もないのにいつもやってきて、当たり前のような顔をして去っていく。

もし同じだよという方がいたら、こっそり教えてください。


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