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なぜフィクションは人を救うのか

007のロジャー・ムーアが亡くなったということで、イギリスのTV、ラジオ脚本家のMarc Haynesさんが、7歳のときに彼に会った思い出をFacebookに書き、そのエピソードの素晴らしさが大変な話題になった。読んで泣いてしまったのでここに訳して置いておく。

原文はこちら

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あれは1983年、僕が7歳で、まだ空港にファーストクラスのラウンジが無かった頃のこと。僕は祖父とニースの空港にいて、出発ゲートでロジャー・ムーアが新聞を読んでいるのを見かけたんだ。僕は祖父に「あそこにジェームズ・ボンドがいるから、サインを貰ってきて欲しい」と頼んだ。祖父はジェームズ・ボンドもロジャー・ムーアも知らなかったけど、僕の言う通りに彼のところに行ってサインをお願いしてくれた。「わたしの孫が、あなたは有名人だと言っているので、これにサインをしてくれませんか?」って具合に。ロジャーはやっぱりすごくチャーミングな人で、僕の名前を尋ねて、最大限のサービスとともに、僕の航空券の裏に名前を書いてくれた。僕は天にも登る気持ちだった。

でもチケットの裏を見た瞬間、そんな気持ちは吹き飛んだ。そこにはジェームズ・ボンドとは似ても似つかない名前が書いてあったからだ。祖父に聞くと「ロジャー・ムーアって書いてあるみたいだね」と言う。そんな名前は知らない...と、僕の心は深く沈み込んだ。そこで祖父に「この名前は間違ってる、誰か違う人の名前を書いたんだ」と訴えると、祖父はまた彼のところに行って、「うちの孫が、あなたが間違った名前を書いてるって言うんです。あなたの名前はジェームズ・ボンドだって」と伝えた。

するとロジャーの顔が、何かがわかったぞ、という風にひらめき、僕のことを手まねきした。僕が彼の膝のところにいくと、彼は僕のほうにかがみ込んで、周りを見回す仕草をし、片方の眉毛を釣り上げて、押し殺した声で言った。

「私はね、ロジャー・ムーアという名前でサインをしなくちゃいけないんだ。なぜなら...ブロフェルド(007の悪役)が、私がここにいることを探り当ててしまうかもしれないからね」

そして彼は私に、ジェームズ・ボンドに会ったことは誰にも言わないように約束し、僕がその約束を守ることに感謝を述べた。僕が自分の席に戻る時には、僕の心は喜びに輝いていた。祖父は「ジェームズ・ボンドってサインしてくれたかい?」と僕に聞いたけど、ノーと答えた。僕が間違っていたんだ。いまや僕は、ジェームズ・ボンドと一緒の任務についているんだ。

その後、長い長い年月が経った後、僕はUNICEF関連の脚本家としての仕事で、UNICEFのアンバサダーとして活動するロジャー・ムーアの撮影に立ち会う機会があった。その時のロジャーは完全に愛らしい人で、カメラマンがセットアップしている間に、昔ニースの空港で会ったエピソードを話した。ロジャーはそれを聞いてすごくうれしそうで、「その時のことは覚えてないけど、君がジェームズ・ボンドに会えたことをうれしく思うよ」と言ってくれた。すごく素敵なひとときだった。

だが、彼が素晴らしいのはその後だった。撮影が終わり、彼が自分の車に向かって歩く道すがら、僕の脇で立ち止まり、周りをきょろきょろと見回して片方の眉毛を釣り上げると、押し殺した声でこう言った。

「もちろん、僕らのニースでのミーティングのことは覚えているよ。でもカメラマンたちの前では何も言えなかったんだ。あの中に、ブロフェルドの一味が紛れ込んでいるかもしれないからね」

僕は30歳にして、7歳のときのように素晴らしく輝かしい気持ちになった。なんという人だろう。なんという、とんでもないことをやってのける人だろう。

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ということで、もう涙で前が見えないくらいの大号泣である。フィクションが人の心を癒やす秘密が全てここにある。人間が何かを作りだすこと、それを見ること、見る人をその中に誘いこむこと。それによってこの残酷な世界で翻弄されている観客は、シェルターを与えられたように守られるのである。

007は世界中で愛されたキャラクターだった。いま屈強なハリウッド映画を見慣れた我々からすると、ロジャー・ムーアのジェームズ・ボンドの肉弾戦はかなり薄味に思える。パンチはヘナヘナに見えるし、よく敵につかまっていた。ムキムキのピアース・ブロスナンやダニエル・クレイグとは大違いだ。

そしていま、このロジャー・ムーアのエピソードを聞くと、ジェームズ・ボンドという記号があれほど輝いていたのは、すべての人の夢を守るという姿勢によってのものだったのかもしれないと思う。そういう夢を作ってくれること、わたしたちがその夢の中で陶酔できることを幸せに思う。ロジャー・ムーア、3代目ジェームズ・ボンドの冥福を心から祈る。

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