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「新時代」に40代半ばの世代はどう生きれば良いか ~Ado「新時代」に寄せて~

音楽は世相を表すというが、この曲は将来今の時代を振り返ったときに、あの曲がターニングポイントだったね、と時代を表す曲になっているかもしれない。いや、そうなってほしいという希望かもしれない。

Adoさんの歌う「新時代」のことだ。

アニメ映画の主題歌ということで、10代20代に圧倒的に支持されているらしい。歌い手のAdoさんも10代という若さで、彼女が「新時代だ」と歌いあげるのを聞いたときに、これは何かが確実に変わってきていることの表れだ、と直感的に思っている。

ここしばらく、新しい時代に希望を含ませた楽曲がこれほど支持されたことがあるだろうか。多くの「大人たち」が、未来に希望はないよと、どんどん内向きになっていき、ほんのわずかな癒しを求めたような歌が多く聞こえてくる中、「新時代」をこの自分たちが作っていくんだ、というメッセージを多くの人が支持していることに驚いている。

このnoteでは都会暮らしの筆者が岐阜県恵那市に移住して10年の農村暮らし経験に加えて、30年以上のドラマーとしての音楽経験(仕事レベルで)や登山経験(登山店勤務経験あり)、アフリカでのワークキャンプ、地域おこし協力隊、有機農業、現在は夫婦でEC運営、といろんな畑を歩んできた自分の経験からお伝えできるトピックを発信しています。元岐阜県移住定住サポーター(現在制度は解消)。(所要時間5分)

おじさんおばさんは今も主役なつもりでいる

ちなみにここではAdoさん自身の音楽性や人間性を云々しようとしているわけでない。この歌が世界を変えるんだ、という妄信の話でもない。Adoさんやこの歌が支持されているという、聞き手の受け取り方について話そうとしている。
歌そのものは小2の息子たちが熱中して聞いてるのを耳にしている程度のことなので、歌やAdoさんについて間違った認識をしているかもしれないことをおことわりしておく。もちろんアニメも漫画も見たことはない。

さて、今の10代20代の若い人たちは、自分たちの生きているこの世界をどうとらえているのか。おじさんおばさんは勝手に「失われた時代」だと若い人たちを不遇だと決めつける。
少子化が進んで、40代から上が分厚い層となって、エンタメも商品もおじさんおばさん向けばかり。テレビをつければ30年変わらない顔ぶれの芸能人たちが彼らを喜ばしている。おじさんおばさんはいつまでも自分たちが主役だと若者のつもりでイキってる。

そりゃつまらないよね。テレビなんか見なくなるのはわかる気がするし、「日本は少子化で消滅していく」なんてことばかり言われて、そんな世界観ばかり押し付けてくる世代とかかわりたくないだろう。
でもそれを「かわいそう」などと思うのもまたおじさんの思考なのかもしれない。

おじさんおばさんの知らない若者の姿

ネットの中でさえYouTubeやフェイスブックがおじさんおばさんのメディアになってしまえば、インスタに移りかわり、インスタがまた侵蝕されれば、TikTokに移りと、自分たちの居場所をさがして、彼らの中でちゃんと文化を作りお互いにつながりあってきた。

その結果ボカロの歌い手とか、おじさんおばさんには想像もつかないものが支持され、顔も出さないままヒットするなんていう現象がおじさんおばさんにしてみたら突然噴出したような形で現れる。

主役はわたしたちだ、俺たちだ。希望がないなんてわたしたちは感じていない。おじさんおばさんに未来を用意なんかしてもらう必要はない。私たちの時代が来たんだ。

Adoさんの歌声からこんなメッセージが聞こえてきたとき、おっさんとしてのオレは素直に、ああ、それでいいんだ、とうなずく他になかった。誰かに任されたお役目でもなく、自分たちから立ち上がる姿は凛々しくもある。

え、この曲作ったの、おっさんやん、という声も聞こえてくるが、肝心なのは、この歌が10代20代に支持されているということである。世代としての意識が、新時代だ!と共鳴しているのである。

Adoが歌った、から

もう一つ、こうした確信をしたのには理由がある。

Adoさんは「うっせぇわ」という曲でデビューし、それこそ自分たちの上にのしかかるおじさんおばさんの不条理な仕打ちに対する嫌悪感を吐き出すかのように歌い、社会現象とまでなった。

おじさんおばさんたちにとっては、不意打ちのような出来事だったに違いない。オレらが主役のはずの世の中へのアンチテーゼがこんなに支持をされている。この歌に対する否定的な感想が少なくないのは、弱くて消え入りそうに思ってた若者たちの触れたことのない激情と、同世代の爆発的な共感に対する恐怖の裏返しだろう。そもそもおじさんおばさんはこれまでの条理に従って生きているだけなのだし。

それでも若者の激情は止まらない。「うっせぇわ」以降も世代の声を代弁するかのような曲を歌っていたAdoさんだが、「新時代」と同じ映画の挿入歌である「わたしは最強」という歌も大きな支持を得ている。
自己肯定感が低い、などと言われ続けてきた若者たちだが、そんな声に対する意趣返しに多くの共感が集まるということは、多くの若者が実はおじさんおばさんの見えないところで、おじさんおばさんを凌駕する意志の強さを身に着けていることの表れだろう。

そうした一連の歌を発信してきたAdoさんが歌った「新時代」が支持されているのは、実はもう若者の中ではゲームチェンジが完了していることの表れではなかろうか。

世代交代される側として

自分たちが主役のままの気でいるおじさんおばさんは気づいていないだけだし、ましてそうやって自ら世代を分断させてきたわけだから、若者の方から新しい価値観をシェアなどしてくれるわけもない。若者は若者で自分たちで新しい世界をすでに構築し始めている。

おじさんおばさんは、若者が築く彼らだけの社会に対し、「オマエら社会ってのはよぉ」と自分が享受してきた社会のあれこれを突破口として関与しようとする、つまり若者の中に入り込んで自分も若者のつもりでイニシアチブを取ろうとするもんで老害と一蹴される。この拒否感は彼らだけの心地よい距離感と、彼らが静かに深く温めてきた未来への思いというものがあるからに違いない。おじさんおばさんはそれを自分たちとは「別」のものと覚えておかなければならない。

思うに全体で見ても世代交代が必要だし、いずれその時を迎えるが、そうすんなりといくものだろうか。
特に我々40代半ば、mid40sの人間というのは、複雑な思いを抱いているのではないだろうか。

はざまを生きるmid40sのせつなさ

mid40sというのは、世代のはざまで生まれ育ってきた。
少し上までの世代がベビーブームなりバブルなりで非常に存在感が強く、そのころのいわゆる昭和な価値観の影響を色濃く受けている。
かと思えば、今の30代は「ゆとり世代」と言われ、賛否も聞かれるが、確実に我々とは違う新しい感覚をまとった人たちが育った。個性を伸ばしオンリーワンを目指すことを良しとされ、結果、ベンチャーなりなんなり、革新的な試みをする人たちの多くが30代にいるように見える。

20代は彼らを間近に見て育ってきたはずで、30代のイノベーターたちを憧れの対象として見る一方、彼らの上司として管理職についたようなmid40sより上の世代の昭和的な価値観とは決定的に合うはずもない。その価値観の齟齬がパワハラなりモラハラなりを生み出していると見える。

mid40sは、バブルの恩恵もなく、景気が冷えていき就職氷河期による就職難に直面するにもかかわらず、日本が落ちぶれるわけがない、という幼少期よりの総中流意識が染み込んでいる。
エンタメも、B’zやサザン、ミスチル、小室、ダウンタウンなど「ちょっと上の世代」によるコンテンツが軸にあり、それを我がことのように喜んで享受してきた。逆にポケモンに熱狂するには遅すぎ、自ら時代を席巻するようなコンテンツを生み出すことはなかった。

スポーツに目を向ければ、mid40sにおいてはイチローや松井秀喜、中田英寿などのスターは出てきたが、ちょっと突然変異のような存在であって、あんなのなれるわけないだろう、的に感じていた。
今はどうだろう、大谷翔平、佐々木 朗希、羽生弓弦、高梨沙羅、など、もちろん常人的でないストイックさと才能の持ちぬしではあるが、彼らを世代の象徴とみたときに、まさに彼ら自身が活用してきた「成功への手順」というものが、これまで蓄積されてきた定量的・定性的なデータに基づいて可視化され広く手軽に手に入れられることで全体を押し上げている気がする。
これはスポーツ界にとどまらず他の分野でも同様で、将棋界の藤井聡太なども言うまでもない、新世代的感覚の筆頭だろう。ビジネス界を見ても、本当にワクワクするような、そして社会貢献の意識を高く掲げる起業家たちが続々と出ている。

さらに今の20代とかの言動を見ていると、新しいモノゴトだけでなく、上の世代のコンテンツでも良いものは良い、と分け隔てなく評価できるようだ。
90年代などのヒット曲を自然に受け入れてたりするのは、親の影響もあるかと思うが、録音が鮮明で今と変わらないぐらいの解像度で残っているからだろう。
逆にレコードやカセットが支持を集め復活してくるのも、何か手触り感のある温かみの大事さに気が付いているからかもしれない。

なんか、若者すげぇな、としか声が出ない。

今のmid40sは常に時代のはざまに置かれ、上の圧迫感と下の押し上げに挟まれてきた。mid40sだって価値観の移り変わりのグラデーションにいて、少し上の世代には違和感を覚えるのに上下関係のしがらみで自分を発揮できないままでいるうちに、がんばって若手のつもりで新しいことを打ち出してみると下の世代から「なんか古い…」と感覚の違いを超えられない、なんなら老害側に組まれてしまう、結構苦しい役どころだ。

ちっとも自分たちが主役の場面がないうちに、世代交代だと言われる、切ない世代、それがmid40sかもしれない。

最先端の時代感覚を信じよう

まあ我々はそういう時代のそういう世代に生まれたのである。ここはひとつ若者が作る未来を信じるほかにない。

自分が主役でなくても、彼らを助けることはできる。
間違っても育てるなんて思っちゃいけない。彼らは彼らの論理で勝手に育っていく。我々の道義で「新しい時代を作るぞ」など息巻いたところで、もはやOSが違うのだから、新しい、の意味すら取り違えてる可能性がある。

そんな話を小2の息子としてて、オレが「だからお父ちゃんたちは君たちを支えていくからな」と言ったところ、こんな答えが返ってきた。

「いや、支えるとかじゃなくて、パートナーでしょ。みんなでやればいいんだよ」

おぅ、これが最新の感覚かぁ。おじさんおばさんたちのことまでもちゃんと全体として見てだれ一人取り残さない社会というのを体現しようとしている。彼らなら本当に作れそうな気がするし、きっとそんな社会におじさんおばさん(そのときにはじいさんばあさんか)は満足するに違いないのだ。

今回書いてきたオレの見立ては、いささか楽観に過ぎるきらいはあるだろう。でもそれくらい信じてあげるのもいいじゃないか。実際オレが最近出会う2,30代はそういう光が放たれている人たちばかりなのだ。不思議なくらい。

自分たちに日の目が当たらずとも若者にそっくり主導権を渡すのは上も下も知る我々40代にしかできない役割だ。それはとてもせつないことでもあるが、だれにでもできるわけでない勇気ある英断であり、その資質を持っているのも今の40代しかいないだろう。少しでも同じ気持ちを持つ40代がいてくれたらオレも心強い。

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