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【読書感想文】白井聡/武器としての資本論

著者の白井とは中学高校の同級生だ。
高校卒業以来会ってはいないが、数年前に突如テレビに映り出した時は驚いた。
高校の頃の思い出はおぼろげで、彼からマルクスのマの字も聞いたことはなかったが、オレが聞いてないだけの可能性もある。あの頃と彼の口調は変わってない、気がする。

なので高校以降の人生の中でどういうことが起こって今に至ったのかという素朴な疑問をぬぐえないままその活躍をテレビで見ていたのだが、そんなのはオジーオズボーンとか言ってたヘビメタドラム少年に20年後出会ったらジャズを嗜んでますなんて言ってたら「お前が?」と突っ込まれるのと同じで(オレのことだ)、珍しくもない。

まあオレも大学に入って初めて聞いたジャズアルバムのフィリー・ジョー・ジョーンズの演奏に雷を打たれて、そこからのめりこんだという歴史があってのジャズドラマー化だった。それ以来どんな先進的なドラマーが出てきても、フィリー・ジョーがオレの理想のドラマー像として今も居続ける。さらに言えばドラマーなら誰しも影響を受けた先人というのがいるものだが、人によってスタイルの源泉になる人が違っていて、それもまた多様な個性につながっていて面白い。

白井も本書の中で大学時代に友達となめるようにマルクスを研究したとあるが、若い白井がマルクスの思想と出会い、雷に打たれたような衝撃を受けたのだろう。
オレはマルクスの本を読んだこともなく、マルクスの思想は白井の文章をたどって理解していくしかないのだが、その熱っぽい文章からは白井のマルクスへの思慕が伝わってくるのだ。

オレのドラムの例とマルクスを並べるのも恐縮だが、若い頃に出会ったものというのはそれだけインパクトがあって、今でも精神的に帰れる場所として存在し続けるのは、多くの人に共通することではなかろうか。誰しも自分がどう生きるかの基準となる礎となる人が必ずいるはずだが、そこから純粋に思想のみ取り出して自分の哲学とする人はいないだろう。ほとんどの場合影響を与えた人への尊敬や憧れといった情が入りこんでくるはずだ。

平たく言えば、白井はマルクスのファン、マルクスが好き、なんだと。

そりゃそうだろうと思う人もいるかもしれないが、これはオレにとって大きな気づきだった。

どうもオレはある思想なり対立する一方を正義とか悪とかジャッジされることが苦手なのだが、ここでも資本主義=悪と読み取れてしまい、その語り口に抵抗感はある。だが「マルクスが好き」というのが彼のエネルギーの源泉だと思えば、思想の向きどうこうに囚われず、マルクスファンとしての白井の理想と受け止めることができて、読むことができた。

そうやって壁を取り払って読んでみれば、マルクス入門として文章はとてもわかりやすかったし、白井の言いたいことでうなずけることもある。なるほど行き過ぎた資本主義というのは到底持続的とは言えないようだ。階級を生みだし分断を生み出しているのもまた資本主義。今この時代に何かを変えていかなければ、人類としての未来は危うい。それはオレもそう思う。何かを変えるのにマルクスの思想は確かなヒントになるだろう。ほとんどはじめてマルクスの思想に共感ができたのは白井のおかげだ。

ただ、同級生がゆえに思うこともある。

オレらの通っていた中高一貫私立の進学校は比較的裕福な家庭のご子息が集まっていたところだから、そこの同級生だった白井に「寅さんの階級意識上の葛藤が自然とわかる」と言われても違和感もある。それは彼なりの体験の中からそういう労働者階級的な人たちの代弁者となることを選んだのかもしれないが、それが冒頭に書かれていた大学の時のバイト経験だというのならちと弱い感じがする。白井のもっと個人的な強烈な体験があればそれが何だったのかを、知りたい。

正直言えばオレもオレで裕福な家庭で育ち、せっかく大学まで行かしてもらいながら卒業してからも音楽の道を志すと言って、ふらふらとする中で、ミュージシャンの仲間と出会っていくわけだが、いろんな出自の人たちと出会ってきて、一緒に音楽を奏でることも少なくなかった。

特にジャズ界隈のセミプロ的なミュージシャンというのはそれこそ医者ドラマーや会社社長ギタリスト、弁護士ボーカルなどハイソサエティーな人もいれば、音楽しか社会と接点を持つことができずなんとか生活保護を受けられるよう画策するホームレス寸前の超絶ピアニストや、元暴走族でテレビの警察24時にモザイク入りの顔で写ったのが自慢のグルーヴ抜群のベーシストなどもいた。

そういう人たち同士でも一緒に音楽を楽しんでいるし、少なくともその場には垣根などなく、そこで大事なのはそいつが音楽が好きかどうか、しかなかった。

こんな風にバックグラウンドに関係なく音楽で通じ合い、友人として付き合う仲になった経験は、中学高校をともに過ごした同質な人たちー裕福な家庭のご子息ーと接してきて育んだ世界の見方を変えるのに役立ったと思う。

でオマエはどっち側だと問われても、今は自営の小売業で商売の厳しさを身に沁みながら何とかやりくりしながら生活を送っている状態で、「持てる者」に有利な世の中だなーと憤ったりするものの、じゃあ「労働者」として搾取されてるという意識があるかと言われれば、それも何だか違う。
まあオレは今に至るまで「何者でもない」ことを是として生きてきたんで、どちらの論理に従うという意識はこれからもないだろう。

壮大な前置きではあったが、白井の本書に対して感想を。

1.冒頭の方で言っていた「生き延びるため」に今の資本主義を見直さなければならない、ということには共感できる。
まさにそれは今オレが田舎で暮らすことの意義として掲げているものだ。ただそれは自分だけでなく、自分の子どもやそのずっと先の世代までが生き延びていくためであることを忘れてはならない。今の世の中を見直すことは、主義思想の善悪を裁くためではない。世代を超えて生き延びるためという実際的な目的のために何ができるか考えて実践することが世直しだと思う。

2.結論の、資本主義に対する階級闘争の手段は、「良いもの食べる権利がある、と叫ぶ。」にはなんかベクトルがずれてしまったというか、わざわざ山谷グルメの例を出さずとも、もっと持続的で心豊かに語れるものはないだろうか。

それこそ、資本主義の手が及ばない場所として自給的な生活スタイルがあるではないか。自分たちの手でうまい野菜やコメ作って、家族と団らんして本当の心豊かさを知ることが最高の贅沢だと身をもって言える。自分で育てた採りたての野菜は超絶美味い。こんな贅沢は他にない。

何なら一極集中や資本主義の体制を崩していく一人一人の努力は、精神的に豊かな持続可能な社会や環境をつくりあげることにないだろうか。資本主義の手の及ばない領域を自分の生活の中に少しずつ広げていく
白井にはぜひ、みんな地方に拡散して野菜作って贅沢しようぜ、って呼びかけてほしい。

3.でこの本では、結局白井は階級闘争の果てにどんな世界が待っているのかは提示してくれなかった。新しい生き方を提示している、という触れ込みだったので、そこに興味があって期待して読んでみたのだけれど、まあマルクス入門としての本なので仕方ないかもしれない。

労働者階級が権力を握ったとき、社会はどう変わるのだろうか、彼らの主張のとおり社会が動けば、この世から対立や分断がなくなるのだろうか。なんだかそうは思えない。この本の中で語られる階級闘争からは、かえって資本家との闘争や断絶、分断の決意ばかり伝わってくる。オレが大事にしたい融和や共感が見当たらないのだ。対立を伴う階級闘争はなんだか両者破滅へのイメージしか湧かない。

対立を解消するには国家転覆を企てるより、融和を図るコミュニケーションが最善だと思う。それもNVC(Nonviolent Communication=非暴力コミュニケーション)をつかった、共感を呼び起こすコミュニケーションをもっと実践的にあらゆる場所で使っていけるようになったらと思っている。NVCについてはまた詳しく書きたい。

NVCで大事なのはお互いを知る、それもお互いの主張を競い合うのでなく、どんなニーズに駆り立てられて、今のその人があるのかを理解しあうこと。私生活でも妻と円満な関係が築けたのはこのNVCを実践したことが大きい。政治もそうだ。保守も革新も共産も、それぞれに関わる人が欲している自分の体験に基づいた1個人としてのニーズがあるはずなのだ。自分でも気付きづらかった、とても生身の声が。それをお互いが知った時、初めて融和が生まれる。

闘争より、いますぐできる善きことを

4.オレ自身は社会自体が生き延びていくためには、今の資本主義社会の中でできることからはじめるよりほかにないと思う。それには、より社会に思いを寄せられる資産家を育てることだったり、幅広い世界観、メディアリテラシーを持つ労働者を育てることだったり、教育の分野が重要だろう。一方を抑え込むのでなく、どうやって歩み寄るのか。生ぬるい?お互いに攻撃的に罵り合う方がよっぽど頭も使わないで簡単なことだろう。寄り添うことの方がどれほどの勇気がいることだろう。

教育という分野で自分にどのようなことができるか模索しているが、最低限自分の子どもたちには幅広い世界を見て触れ、違いを軽やかに超えることのできる人に成長してもらいたいので、住み家である田舎と実家のある都会を行き来することは意識的にしている。

という感じで感想を書いてみた。とりあえず同級生のよしみで白井には田舎のうちに来てもらってしばらく地域住民の一人として過ごしてもらおう。

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