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ローカルへの意識を芽生えさせたイタリアでの経験

生まれ故郷の横須賀から恵那市に移住して早10年となった。
恵那に来るまでローカル的な関心はほぼなかったオレが、移住以来「地域」や「コミュニティ」といったことを意識した行動をとるようになったのだが、振り返ってみると、自分の中で「ローカル意識の芽生え」となるような出来事はいろいろとあったのは間違いない。

そんな経験の中でも比較的大きなインパクトを伴ったものは、イタリアでの経験だろう。
イタリアで3か月を過ごしたのは29歳の時。移住する5年前のことだった。

大学卒業後音楽活動を続けてきてが、大きなチャンスをつかめそうでつかめない、正直このまま音楽を続けていくべきなのか迷いが生じていた、とはいえ何も他に充てがなく悩んでいた、そんなときのことだ。

以前書いたnoteに、イタリアに行くくだりとそこでの経験、気づきなどについてまとめてあったので、以下に抜粋する。

このnoteでは都会暮らしの筆者が岐阜県恵那市に移住して10年の農村暮らし経験に加えて、30年以上のドラマーとしての音楽経験(仕事レベルで)や登山経験(登山店勤務経験あり)、アフリカでのワークキャンプ、地域おこし協力隊、有機農業、現在は夫婦でEC運営、といろんな畑を歩んできた自分の経験からお伝えできるトピックを発信しています。元岐阜県移住定住サポーター(現在制度は解消)。(所要時間6分)

イタリアでの経験 ~ローカル意識の芽生え~

正直音楽活動は風前の灯ともなっていたが、それでも何とか状況を打破したいという思いはあった。

そこでネットでたまたま見つけた、イタリアでのサマージャズセミナーに参加した。

イタリアとはちょっとした縁がある。父の仕事でオレの生まれる数週間前までローマに2年間家族で駐在していた。以来我が家はイタリアびいき。妹はイタリアに料理留学に行ったまま、地元のイタリア人と結婚。

イタリアに親しみを感じていることに加え、ジャズを勉強するなら普通アメリカに行くのだけど、イタリアに行く日本人は全国探してもそうはいないだろう、という独自性を打ち立てたいという目論見もあった。

シエナでの2週間のセミナーと前後合わせて3か月イタリアに滞在した。

ファイナルコンサートに選出され演奏

セミナーはいろいろ波乱万丈で辛くもあり楽しくもあったのだが、イタリア中から集まってきた老若男女と話せる機会があったのが、なにより貴重な経験となった。

みんな口をそろえて、「オレんとこの海や山や自然は世界で一番美しいんだ!」「いやオレんとこの町の暮らしが世界で一番だ!」と地元のことを躊躇なく讃える。

あまり日本では聞かれない話にとても驚いた。日本では、「いやうちの町なんて何もなくて」「ほんと大したことない」と謙遜するのが当たり前という印象だったから。地元をほめるなんて人にあまり出会ったことがなかった。

かくいうオレも地元である横須賀について、何一つ良いことを言った覚えがなかった。何もない、さびれてる、海は汚い、山は荒れてる。そんなことばかり言ってた気がした。

オレはイタリアの人たちと話して、そんな自分がなんだかとても哀れに思えた。イタリアは南北格差が激しく、行政の対応などもいろいろ問題が多いと聞く。ナポリなんてその代表格だけど、そのナポリ人たちも行政への不満は漏らすものの、それでもナポリという街の世界一の座は彼らの中で揺るがないのである。

ローマの人もフィレンツェの人も、シチリア、ベネツィア、どこかの村の人もセミナーが終わり別れ際に、「うちの町へ来なよ、世界で一番いいところだから!」と言ってくれた。

オレはこんなに胸張って、横須賀においでよ!と言えるのか。自分がある場所に暮らすということはどういうことなのか。そういう自問が始まった瞬間でもあった。

(中略)

そんなイタリアでの体験のあと、内なる殻を破り音楽活動に邁進、することなく、関心はより内向きへ向かっていく。オレは音楽のことをどう思ってんだ?生計を立てるために音楽やってんのか?
セミナーで出会ったやつに言われた「なんか君は音楽と闘ってる感じがする。僕は音楽と友達だから楽しいとしか思わないよ」という言葉が忘れられない。
(抜粋ここまで)

地元横須賀から恵那への移住

この後紆余曲折を経て5年後に恵那への移住を果たすことになる。イタリアでの経験からいえば地元横須賀へのローカル志向に向かっていくのが自然な流れではあろう。実際自分の中では「地元横須賀」という意識はとても強くなっていた。街を歩けば、オレは横須賀のどこか好きなところはあるだろうかと、周りを見渡していた。それは場所ということだけでなく、ここに暮らす人にも同様だった。
だが、いざここで骨を埋めようにも自分にできる仕事が見つからなかったことに加え、岐阜に故郷を持つ妻との出会いによって、東京近郊でない生活にも活路があることを意識するようになった。

移住前から妻(当時は結婚前)の実家に遊びにいくたび、恵那に暮らす人々に接するにつれ、オレはイタリアで出会った人々と重ねてみるようになっていた。当時は言葉にできなかったが、それは人と土地とが結ばれていることが生きるベースにあることへの羨望だったかもしれない。

恵那は自分の地元でなくとも、妻の地元というご縁で導かれた場所だ。すべてがオートマティックに稼働しているように見える都会で自己のための音楽活動にかまけている間にオレが見落としてきた、暮らしというものの大事な何かがあるに違いない、生き抜く力を身に着けられるかもしれないとも思い、最終的に移住を決めた。音楽キャリアのためのはずだったイタリアでの経験がなければ、ここには辿り着かなかっただろう。

イタリアから学ぶまちづくりの秘訣

そうして移住した先でも、ふるさと活性化協力隊(地域おこし協力隊に準じた恵那市独自制度)としてまちづくりというミッションに携わるにあたって、地元愛という、まちづくりに欠かせない要素を考える上で非常に役立った。

まちづくり関係の研究や実践に携わってみると、コミュニティの比較などイタリアの地域社会のあり方に言及されていることが多いことに気づく。いわゆるスローライフ、スローフードなどサスティナビリティあふれる暮らしのお手本ともされている。

こちらの本はイタリアの町づくりの軌跡がよくわかり大変参考になった。

外から見てると想像もつかないが、街も田舎も高い次元で心豊かな暮らしが送れそうに見えるイタリアでも、70年代は経済重視の政策によって田舎の過疎化が深刻だったという。ファーストフードが横行し、多くの人が郷土の誇りを失い始めていた。

しかしここから人々は何かに気が付いたようだ。自分たちの暮らす郷土とは何なのか、文化や歴史、景観、食、いろいろな「ここにしかないもの」を探し、それは実は外の人からみると羨むようなものばかりだった。そうやって魅力を掘り起こしていくうちに人々は自信を取り戻していった。

地域の人たちはまたお互いの関係性を取り戻し、自分たちの村や町は自分たちで守る、という人間社会にとってごく基本的でありながら、経済社会が容赦なく壊してきた社会通念を取り戻しながら、世界でも有数の「心豊かな暮らしを送る人たちの国」の姿を形作ってきた。

無論、理想的とばかり言えないことは承知である。実際には少子高齢化が止まらず、消滅が予想される田舎の村は2500を超えるとも。経済状態も良くない。政情は安定した試しがない。一緒にビジネスすればトラブルばかり。現地に住む妹からはリアルな日常をまあこれでもかと聞かされる。

それでもなおなぜかイタリア人たちは楽しそうだ。誰もが人生を楽しむこと以外に人生の目的などあるのかと言いそうだ。のびのびとリラックスして過ごせる地元の町で愛する家族や地元の友人たちとともに地元の食材で作るごはんを食べ、踊り歌うことで彼らの人生は満たされていくようだ。

イタリアを理想化しても日本とは国の成り立ちも何もが異なるので、それには意味がないと感じてはいる。出会った人々もオレに対してはヨソモノ向きの顔だったかもしれない。お互い不得手な英語でどれだけ本音を話すことができたかは疑問だ。

しかしここでは、地元を誇りに思う気持ちがこれからの持続可能な社会にとって大事、ということが学べるのではないか。

無関心が招いた横須賀の現状

その端的な一例がわが地元横須賀にあった。しかも悪い例で。
オレが恵那に移ってからふとニュースで横須賀市の人口社会減が全国一、と目にして驚いたことがある。
正直オレは横須賀は都心のベッドタウンで便利な位置にありオレが一人いなくなったところでさして影響はない、と高をくくっていたのだが、実はそれは大きな間違いであったことに気が付いた。
気が付けばオレの地元の友人たちもほとんどが横須賀を離れ横浜や川崎など、より東京に近い場所に移り住んでいた。
これは雇用がどうのとか、行政の怠慢だとか、そういう問題ではない
オレらは横須賀なんて何も魅力ないし、と地元の誇れることを知ろうとしてこなかった。地元に対して無関心であった自分たち自身に責任がある。

自発的な岩村町の取り組み

対して、最初に移住した恵那市岩村町で目にしたのは、地元の魅力を住民自身が発見していくための町一丸となった取り組みであった。
この岩村町も経済成長期の発展に取り残され、さびれた古い町になりかけていた。
しかしここから岩村の人たちは歴史の深い土地柄を見直し、経済発展に追いつくことではなく、地元の誇りを取り戻すことに専念し、地域の偉人たちの顕彰や史跡の利活用などを地域活性の軸に据えた取り組みを続けてきた。

特に力を入れたのが教育で、子どもたちに対しては地域の大人たちが学校等と連携、授業の一環として岩村の歴史や文化を探究し展示や動画制作して発表するだけでなく、町のイベントにも役割を与えて積極的に地域の一員としてかかわってもらった。まちづくりの環に彼らもかかわれる仕組みができているのだ。

これは何も行政が音頭を取っているのでなく、むしろその逆で住民たちが主導し行政に要請するという、自発的な動きであることに驚く。

その結果なのか、人口減少はしているとはいえ周辺の地域に比べその下降率は穏やか。いつしか岩村は元気、という評判が各所に伝わり、朝ドラの舞台になったり、世界ラリーの花形リエゾンとして世界に発信されるというオマケもついてきた。

3年間とはいえ協力隊として自分もまちづくりに励みその渦中にいたため、いろいろと内情を知ってはいるのですべてを地域活性の理想的なストーリーとして語れるわけではない。それに横須賀と比べようにも40万人の都市と5千人の町では単純な比較はできない。
しかし振り返るにつれイタリアにおけるテリトーリオ戦略を彷彿とさせるグランドデザインを住民自らが独自につくりあげていたことに、岩村の先見性をみることができる。

なにより子供たちもふくめて、岩村は良いところだ、岩村が好きだ、と躊躇なく口にする彼らの人生観は、質感的にはあのイタリア人たちとそう変わることはないのだろう。

現在地、笠置でのこれから

さて、そんな岩村を協力隊任期後に離れ同じ恵那市の笠置町に移ってから7年。笠置には中心街的な人が集まる場所がなく、岩村と同じようにはいかない。まちづくりについては未だ手つかずといってもいい状態である。
しかし地域の魅力は用意されるものでなく、自分たちで掘り起こしていくものであることをイタリアや岩村で学んだ。
オレも自分の仕事や子育てに追われてまちづくりにかかわる余裕がないのであれば、まずはその自分の子どもたちにこの笠置の良いところを発見してもらうことから始めようと思っている。
観光名所や名産品がなくとも、自然が側にある。川で遊んだり、栗を拾ったり、満点の星空を眺めたり。採れたての新米を味わったり。

それらのことを親である自分が「素敵なことだね」と声掛けすることも大事だ(本当にそう思っているのだけど。)
こんなところ何もない、と言い捨ててしまえば子どもたちもそのように受け取って育っていく。多くの過疎地で耳にすることだ。

オレ自身はここに暮らす限り一生ヨソモノであることに変わりはない。そんな自分にできることは自分自身がこの地で活き活き暮らす姿を子どもたちに見てもらう以外にない。
そんな風に地元の人が見失ってしまったこの地の魅力に気が付いた人たちが増えることで、笠置って良いところなんだなという地元の人達の気づきになるだろう。今多くの農村に新たな移住者たちが必要な理由でもあるし、そういう循環を作り出すのは住人としての責任であるのかもしれない。

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