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「筋を通す」の意味は、多様で曖昧で、「筋違い」を起こしやすい

人間関係の濃い地域に暮らしていると、地域を単位としたいろいろな集まりにかかわることになるが、そこでよく耳にするのが「筋を通す」という言葉である。

「それでは筋が通らない」「彼の言うことには筋が通ってる」

伝統的な慣用句として、田舎に限らず企業など組織の場で耳にするのではないだろうか。

例えばこんな場面。

●ある地域の集まりで、次期役員を選ぶのに適材だと思われた人に現役員の中でめぼしをつけていた。
しかしその彼は個人的な理由により断ってきた。その理由はオレにはごくまっとうに思えたが、勧誘にあたった人に対し他の役員たちは「筋を通せ」と非難を浴びせた。

●別の集まりで、団体に入ってくる補助金の使い道についてある意見に対し「筋が通らない」と紛糾したが、「先代たちの意向に沿うこと」がもっとも説得力のある理由となって採用された。

オレは筋というものは、自分の中で大事にしている価値観に基づいて行動することだと思っていたが、ここでは全体に貫く共通認識を筋と呼んでいるようだ。例えば、先祖を大事にする、とか、義理とか、年功序列とか、足並みをそろえる、とか。
だから、好意的に理解すれば、モノゴトを運ぶ順番を守れ、というのが筋を通す、ということなのだろう。

最近この「筋を通す」という言葉について、自分が理解していた意味と周囲で実際に使われている場面でのそれが若干ズレていることに気が付いたのでそれを整理しておきたい。

このnoteでは都会暮らしの筆者が岐阜県恵那市に移住して10年の農村暮らし経験に加えて、30年以上のドラマーとしての音楽経験(仕事レベルで)や登山経験(登山店勤務経験あり)、アフリカでのワークキャンプ、地域おこし協力隊、有機農業、現在は夫婦でEC運営、といろんな畑を歩んできた自分の経験からお伝えできるトピックを発信しています。元岐阜県移住定住サポーター(現在制度は解消)。(所要時間2分)

定義

慣用では、次の意味となる。

ことの首尾を一貫させる。道理にかなうようにする。また、しかるべき手続きをふむ。

精選版 日本国語大辞典

これだけではオレが「筋を通す」に感じている意味を十分に説明できないので、自分の経験などからもう少し掘り下げてみる。

①上下をつなぐ筋

先の2番目の例では、何かコトを運ぶ際に、利害関係者、特に年長者にあらかじめ根回しをして了解を得ておく、という意味で「筋を通す」と使われている。「その件の筋は通しといたから」のように。先の辞書で言えば「しかるべき手続き」の意味合いが強い。つまり「筋」は上から下までつながる人間関係の系譜のことを指す。

②合意事項としての筋

1番目の例のように、利害関係者間で描いた「筋」書き通りにコトが進めることとして使われていることもある。組織内の論理に沿っているかどうかが問われる場面でもある。
言い換えれば、声の大きいステークスホルダーたちで決めたビジョンに逆らわずモノゴトを運んでいくのが「筋を通す」の意味に等しい。

③芯の強さとしての筋

もう一つには、「あいつは筋が通ったヤツだ」というように、言動や行動が一貫している、ことを指したりもする。この場合は、集団ではなく個人の問題としてとらえられる。
だから「筋を通せ」と言われたときに、「自分の信念と行動を貫く」という意味でとらえると、「筋」を集団内の論理だと考えている相手とのくいちがいが生じかねない。

④三方良しとしての筋

これはオレの勘違いなのかもしれないが、ずっと「自分を含む関係者全員にとって納得できる論理をもっていること」、という解釈もしていた。

だから「筋を通せ」と言われると、相手が単に年配者にあいさつだけしておけ、という意味で使っていたとしても、誰もが自分にとっても有益だと判断できる「共通のゴール」とその「行き方」を提示しろ、と言われているのだと思っていたので、すごく難題を突き付けられている感じがしていた。

どちらにしろ、筋を通せ、と言う場合に、相手がどの「筋」にことを指しているのかを読み取っていかないと、先に述べたようにお互いの理解に食い違いが生じる。

⑤複合的な筋

しかしながら、相手がどの筋を指しているのか、本人も曖昧であったり混同して使っている場合もあり、これは扱いが厄介かつ実はこのケースが多いのではないかと思っている。

自分の見てきた中では、ある程度の数の集団や組織の中で「筋を通せ」と言った場合には、集団内の合意=上意であり、それが倫理として正しいものであるから、つまりは大同に服せよという要求をされていると理解できる。

ここでいう上意とは年配者たちの意向を指すことも多いが、歴史の長い集落だとその地を切り開いてきたご先祖から代々受け継がれてきたとされる教え=前例そのものでもある。つまり「ずっとこうやってきた」ということが倫理的に正当である、とされる。

個人としての信念を強く持つことは要求されていない。いや、その合意そのものが個人としても持つべき信念に置き換わっていることすらある。

先の二つの例も意識的か無意識か、こうした複合的な意味を込められていると思うとより理解ができる。

オレは移住10年目を迎えたにもかかわらず、「筋を通す」という表現への違和感の正体にやっと気が付けた。

どうりで話がかみ合わないわけだ。

ここまで見てきて、自分の筋を大切にしつつ、相手の筋も大事に、お互いに筋をより合わせるような筋道を作っていけたら、と思うのだが、結局自分にとっては初めに自分が解釈していた「三方良し」的であることが大事なんだという結論に落ち着いたのだった。

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