見出し画像

金 お金の話 3

彫金材料としての地金の金、そして大判小判の通貨としての金、
そのどちらも扱っていたのが後藤家であることを前回書きました。

となると、後藤家初代 後藤祐乗(ごとうゆうじょう)通称、後藤四郎兵衛の話から始めなければならない。
僕ら彫金を学ぶものは祐乗で通るが、大判小判の歴史を学ぶ方には四郎兵衛の方が通りがいいようで、最初は二人いるのかと思ってしまった。
昔の人は名前が幾つかあって混乱する。
諱(いみな)は正奥、幼名は経光丸、通称は四郎兵衛。
祐乗は剃髪入道してからの法号であるらしく、一説に祐乗法印と称したという。
多すぎる。。。
17代続いた後藤派の初代はそれにふさわしく、ドラマチックかつ能力の高さを物語るエピソードに溢れています。

藤原利仁の後裔ともされる後藤基綱の子として永享十二年 (1440) に生まれる。
父の基綱も歌人として名高く藤原頼経の側近もやったほどですから、芸術がわかり仕事ができた。家柄もよかったのでしょう。
(この将軍の側近の流れは、ず〜と後藤家に続くのが凄い!)
祐乗もまた18歳ですでに足利八代将軍、義政の側近の軍師であったと記述されているそうです。
そこで先ず、えっ?18歳の軍師って若くね?です。
そんなに若くして将軍の軍師になっているのは、よほど軍略に長けていたのか?
僕の勝手な推ですが、
側近には同朋衆(どうほうしゅう)という身の回りの世話や芸能関係の顧問をするサポート集団がおりました。政治嫌いの文化好きで名高い将軍義政は、銀閣寺を作らせたほどの数寄者。東山文化の生みの親。もし軍師として登用されていても、もっぱら工芸品の鑑定やら、そんなことの相手をさせていたのではないか?なんて思います。それを裏付けるようなエピソードが次のくだり。

18歳の時に同僚からの讒言(ざんげん 他人をおとしいれるために、ありもしないことを目上に告げ口される)を受けたために入獄し、獄士に請うて小刀と桃の木を得て神輿船14艘・猿63匹を刻んで見せたところ、その出来栄えに感嘆した義政によって赦免され、装剣金工を業とするように命じられたと伝えられる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

素直に引用しちゃいました(笑
入獄中に木彫りの神輿、猿を彫る。
それをわざわざ将軍義政が見た。
しかもその出来栄えに感動して赦免って、、、、
面白すぎるでしょ。
獄中に見舞いに行ったのかなぁ?将軍が。
だとしたら、よほど大切にされていたんでしょう。
いずれにせよ、お気に入りだったから戻したかったという本心を感じます。


でね、そこからいきなり装剣金工をやれ!と。
考えられるのは側近になる時には、
すでに金工の素養があったのではないかと思うのです。
これも推測ですが、側近時代はおもに金工の鑑定とかそう行ったことで義政をサポートしていたのじゃなかろうか。
だって、いくら器用でもいきなり彫金やれ!と言われても、時代に残る金工作品はできません。そうとうな下地があったと考えられます。

そうしていわゆる家彫り(藩お抱えの御用達)と言われる
スタイルが生み出されました。
じつは後藤家初代、祐乗の名前が刻まれた作品はない。
ですがのちの後藤家の面々に、ずっと模刻をされて受け継がれ
そして文献としても多く語られています。
こぞってそのセンスや技、革新性を褒めている。


御用達彫金師としてだけでなく、さらにここに大判小判の製造、鑑定もやってますから多忙な生活だったことでしょう。
次回はもう少し大判小判について触れて見たいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?