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0814-16/つかの間の自由の後味

いつから静かに泣くようになったのだろう。
赤ちゃんは声をあげて、気が付いてもらうために泣くのに。

14日、夫と2人で野田秀樹さんの「赤鬼」の観劇に行ってラーメンを食べて帰ってくる、という、つかの間の自由を味わった。東京にいる親戚の家で、数時間娘を預かってもらって。人生ではじめての両親どちらともと離れる時間(正確には2回目で、1度目はお正月、夜寝たあとの娘を夫の実家においてスターウォーズを観に行った日だけれど、きっとあまり意識していない時期)だった。

何度か遊んでもらったことのある親戚だけれど、近頃後追いがすごい娘はちょっとでも離れると激しく泣くのでドキドキしていた。とくに家ではなく、外で他人に抱かれると大泣きするのだ。案の定、おばが抱っこして私から離れるとこっちに手を伸ばして「まんま〜!!!」と泣き叫んでいた。胸が痛む。「子供だけじゃなくって、実はお母さんが寂しいのよ」と言われる。そうかもしれない。「これでけろっとしてたらそれはそれで哀しいものだし」そのとおりかもしれない。とにかく、激しく求められている声を振り切って外に出ることは、大変勇気がいるものだった。

結局その親戚の家にいるペットのわんちゃんに興味深々で、すこし気が紛れた様子。何時間か一緒に親戚のお家にお邪魔して過ごし、気がつかれないうちにするりといなくなって舞台へ。私たちが戻ってきた時にはしっかり寝かしつけられていた。(そのまま寝ながら家までかえってこれた)


結構平気なもんなのだなあ、と、確かにちょっとだけ寂しくもあった。しかしどちからというと、多少離れても大丈夫という安堵の方が強かったように思う。これで、いざというとき預けられる場所ができた安堵。(おばさんはわざわざおんぶ紐まで買って待っていてくれた。可愛がってくれて、本当にありがたい)

その夜は、なんどもなんども目覚めては泣いた。
私達がいるかどうか確認するかのような夜泣きであった。

そして翌日。
完全に私にべったりになる。夫にちょっと抱っこしてもらおうとしても「渡されて離れていく」のが寂しくなってしまったのか、大泣き。ずっと抱っこ抱っこである。しかも寝るのも怖いのか、お昼寝もほぼしない。寝かせようとすると火のついたように泣く。そして一気に「まんまー!」が言えるようになった。今まで、離れてないから呼ぶ必要がなかったんだな、と気がつく。

そして夜泣きも増えた。12時、4時、6時、8時と細切れで起きる。そして起きるまでずっと泣かれるので渋々目覚める日曜日。

夫は+@の仕事があるので「自分の部屋にこもる」宣言。私はその宣言が、できるのだろうか、なんてぼんやり思う。今日は日曜日。

つかの間の自由。ひさしぶりに歩いた夜の街。
一年ぶりにラーメン屋で食べるラーメンのしょっぱさが染みた。

大学生の頃、先輩達の劇団がやっていた「赤鬼」をみて、はじめて舞台で震えた。たぶん人生で一番はじめに舞台という表現方法の計り知れなさを感じた瞬間だった。(これをみたから、社会人になっても細々と演劇を続けていたように思う)そして改めて、こんなタイミングでみる野田秀樹さん自身が演出する「赤鬼」は、本当に、素晴らしかった。知り合いが出演することもあって、どうしても、どうしても、観に行きたかったのだ。

「偽りとは、真実を産むための悪阻だ」
偏見と差別。

ビニールで四方を囲まれた中で、マスクなしでぶつかり合い叫びあい抱き合いもみくちゃになっている役者達が、はじめにすこし、羨ましいと思ってしまったのはコロナのこのご時世らしい感想。


やっと30分ばかし寝た娘が、目覚めてしまった。
最近の喃語はいろんなバリエーションがあって、いろんなことを彼女なりに喋って訴えているなあということを感じる。まるであの赤鬼のよう。私は、どこまで向き合えるだろう。


#ちあきろく #日記 #コラム #エッセイ #赤鬼 #子育て #育児


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