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「ナレッジ」についての雑文 200405

(・・・長くなったうえにまとまらないんだけど)

ナレッジ・マネジメントへのアレルギー反応

ナレッジという言葉は、一般に知識と訳される。Wisdomが知恵だったり、知・知性がIntelligenceだったり、このあたりは私たちが分かっているようで実は分かっていない言葉だと思う。そんな「ナレッジ」についてメモ。

昨年2月、ピーター・センゲが世銀で講演。世銀の「ナレッジ・バンク」というコンセプトについて、こんなふうに切り出している。(なお、このエントリーでは「ナレッジ」=「知識」とする)

「ナレッジ・マネジメント」という言葉が、本質から外れた流行になりつつあった頃、私はその言葉にアレルギーのような反応を示したんだ。

これを聞いたのは初めてではなかった。同じ言葉をずっと昔、大学院で読んだ彼の本でも目にしたことがあり、「学習する組織」の著者が「知識」について何を言うのかと驚いた。組織に「学習」が大切だからこそ、その「知識」(野中先生の有名な形式知と暗黙知とか!)を集めて有効活用することは大切なのではないか、と。

ちなみに、この本 ↓

この中におさめられた『Reflection on "A Leader's New Work: Building Learning Organizations"』で、センゲはこんな感じのことを書いている(意訳)。

知識とは、効果的に行動する能力(キャパシティ)である」。これを「情報」と混同してはいけない。(中略)学習とは、人間が知識を築く、つまり効果的に行動する能力を高めるプロセスだ。

冒頭にリンクを貼った、世銀での講演でも、センゲは知識(ナレッジ)に2つの意味合いがあることを指摘する。比較的歴史の浅い「知識」の捉え方は、学問として積み上げられてきたものであり、学位や専門性などに象徴されるもの。もう1つ、人類の歴史と同じだけ古いものであり、それが「人間が効果的に行動できる能力」だ。

センゲが、「学習」について語るときに、必ず使う比喩は、私たちが「歩けるようになる」ことや「自転車に乗れるようになる」こと。そして、学習とは、人が効果的に行動する能力を高めるプロセスだ。

私たちは、歩くことや自転車に乗ることができる。もちろんこれは「もう歩き方(あるいは、自転車の乗り方)を、本を読んだから知っている(まだ歩いたことはないけど!)」ということではない。知識を身に付けるということは、しばしば誤解される「情報の取得」という意味ではなく、実際に歩いたり、自転車に乗れたり、行動を伴ってはじめて実現する現象だ。

これを踏まえて、

〇 「知識」=「効果的に行動する能力」
〇 「学習」=「効果的に行動する能力(知識)を高めるプロセス」

と捉えると、冒頭に書いたセンゲの「ナレッジ・マネジメント」への反応が理解できる。

・・・ナレッジ・マネジメントという言葉が奇妙に感じられるのは、「知識をマネジメントする」という表現が、知識をまるで「モノ」のようにしてしまっているからだ。効果的なアクションをとる力は、モノではない。ましてや、転移なんてできない。誰かがそれを手に入れて、別の人にあげるなんてことは不可能だ。物理的なものではないのだから。誰かに能力をあげる、なんてことはできないんだ。(意訳)

「私の歩く能力を、うちの息子にあげたい」と言うと、いかに非現実的かが分かるはず。しかし、私たちは往々にして、ナレッジを抽出、保存、そしてダウンロードして使うものであるかのように話すことに違和感を覚えない。この矛盾に気づくと、学習を育むアプローチに新しい視点を持ち込むことができる。

すべての学習を伴う戦略のコアは、人がその能力を高めることのできる環境を創り出すことだ。教師が生徒に「知識を与える」ことはできない。教えることのポイントは、「誰かがその知識や能力を使って、ほかの誰かも学ぶことができる環境を設計できるような環境を創ること」だ。

(注:複雑な表現なので原文表記→ "creating an environment where one person's knowledge or capacity allows that person to design an environment that enables somebody else to learn")

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形式知と暗黙知について

これに関してもうひとつだけ。センゲが、野中・竹内を批判しているのかというと、そうではない。同じ論文の中でセンゲは、野中・竹内の視座に「強く同意する」と言う。すべての学習が「形式知」と「暗黙知」を伴うということは、あらゆる学習が「思考」と「行動」を伴うということだ。

そして、暗黙知の本質を「行動(として現れているもの)」として捉えると、もう1つ興味深い視点が得られる。「形式知」と「暗黙知」の2つは、互いに「変換」できるものではないのだ。

私自身が誤解していたことだが、「組織の持っているナレッジを、暗黙知から形式知に変換することで、もっと広く共有して、最大限活用することができる」という期待がある。しかし、これは知識をモノとして捉える前提に基づいたものだ。

学習において、①私たちは体験を通じて暗黙知を育むことと②自身の体験を概念化して形式知を創り出すことの2つのプロセスを行っていて、これは2種類の知識の「変換」よりもずっと創造的な行為なのだ。

①でいえば、「情報」としての形式知は共有できる(言葉で伝えられる)かもしれない。しかし、人が学ぶとき、形式知をインストールして、暗黙知に転換するのではない。暗黙知とは行動する能力であり、それぞれの人の中で、体験を通じて育まれていく。

マニュアル(形式知)を「落とし込む(変換する)」ことで、スタッフがうまく行動できるようになるのではなく、マニュアルはモデルとして存在するかもしれないが、最終的にスタッフがうまく行動できるようになるのは、その人たちが能力を育むからだ。私たちにできるのは、そのための環境をデザインすることだ。

②形式知では、私たち人間は経験したことを振り返り、概念化する。これは「転換」ではなく「創り出す」プロセスだとセンゲは述べる。暗黙知としての経験から、概念化された形式知を生み出すのが、「理論やモデルを創り出す」ということだ。

そして、これら理論やモデルは、私たちの経験に照らして見直され続けて、その品質が高められていく。つまり、私たちは、常に形式知という試作品を創り出し、経験に照らし合わせてこれをブラッシュアップしている(これはサイエンスそのものだとセンゲは言う)。

「知識」を、抽出・保管・利用できる「モノ」ではなく、人が効果的に行動する能力、そして、学習が知識を高めていくプロセスだと捉えることで、私たちに必要なのが巨大なデータベースではなく、学びと創造の起こり得る環境であることがクリアになる

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学習する組織における「学習」

学習にについて、ぜひこちらを参照してほしい。2013年頃のワークショップで語ったことだが、学習する組織における「学習」は、「学校」のイメージで捉えてはいけないものである。

私たちはみんな、たくさんのことを学んできた。知識を高めてきた。それは、誰かに学ぶように言われたからではない。学びたかったからだ。人間は、人は、生まれながらにして学習する種である。赤ん坊に「学びなさい」なんて言う必要はないし、彼らに「学ばせない」ことは不可能だ。学習とは、それほどに強い人間の根源的な欲求だ。

その学ぶ生物としての人間に、ある意味「立ち返る」のことのできる場所を創ることが、学習する組織の目指すところのひとつだと思う。


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