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サマーカンバス

納涼床がオレンジ色に灯る。鴨川と空の白さは物語の終わりを告げるようで、ぼくらに向かって「青いですねえ」なんて笑っているようにも見える。これから最後のカット。夏というのはこんなにも、一瞬で過ぎ去っていくものであっただろうか。

302のCに移った。
「外が見えた方がいいでしょ」
ルミさんにそう言われて。彼女は今日もワンピースをふりふりさせている。最近入れたインナーカラーが気に入ったみたいで、心なしかぼくへの「行ってらっしゃい」にびっくりマークが付いている気がする。
「ルミさん、どこでびっくりマークを手に入れたんですか?」
「寺町通りの民族楽器屋さんよ。安かったの。それよりあなた、映画を撮ってるんだってね」
「そうなんです、大学生だけで。ああでもないこうでもないと毎晩語り合いました。なんとか撮影も中盤です」
「完成したら、ここでも上映会を開いてね」
ぼくは東丸太町のゲストハウスにお世話になっているのだけれど、ここには不思議な人がたくさんいる。クボさんは毎日アイスクリームが溶けていくのを眺めているし、アレちゃんはウクレレ片手に「ヘイ・ジュード」を熱唱している。
「君も曲を作るといいよ。いろいろ試して、混ざり合ってできた音色が君のものだ」
彼はぽろんと音を鳴らすと、それをふうっと鴨川まで吹き飛ばした。
お世話になったEのベッドに「ありがとう」と告げて、新たな寝床を作る。昨日、「諸悪の根源はお前の財布だ!」と監督に言われた。ぼくらの監督はマスクの紐にすら勝てない貧弱な耳を持つ常時キャパオーバーマンである。しかしこの推理を披露された時、その姿はまるでエルキュール・ポアロのようであった。それ以来大雨に降られたことはない。

ぼくは微かに目が覚めてしばらく続く、起きてるのか寝てるのかよく分からない時間を愛していた。
「この時間が千代に八千代に続けばいいのになあ、むにゃむにゃ」
ここ数週間、歯を磨いた10分後にはバスの中かサドルの上にいた。撮影最終日の今日も鋭利な朝日に刺されて始まるはずだったが、異変を感じる。窓が濡れているではないか。
「ああ、お天道様。今日で最後なんです。星の降る空の下でクランクアップを迎えさせてください!」

映画を作りたいなんて素っ頓狂なことを思い始めたのはいつからだろう。てっきりこの夏はスーツをかちっと着て、船を漕ぎながらお話を聞き「御社の強みは何ですか?」なんて生意気な質問をして回ることだろうと思っていた。結局何もせずにぼーっとしていると、どこからか映写機の音が聞こえ、オスカー像の匂いが漂ってきた。しかし次の日ぼくが招待されたのはドルビーシアターではなく、コミュニケーションツールの中であった。
「映画撮るぞ!」
「アンソニー・ホプキンスの次はぼくということですね。」
「そう!そしてクロエ・ジャオの次はおれだ!それとね、やりたいことがもう一つある」
「なんでしょう」
「白いパンツを被ってフィルムカメラで写真を撮ろう!」
阿吽の呼吸とはこのことか。ぼくもちょうどパンツを被りたいと思っていたところだ。こうして泥船に乗ってしまったわけだが、意外にもこの船は漕ぐほど退屈ではなかった。

緊張1、不安1に対してわくわく3。6月の終わり、ぼくは絶妙な割合で机にちょこんと腰掛ける感情を、さらりとお茶で流し込んだ。それから納豆を掻き込む。これが一番落ち着く。おそらく世間一般では納豆の後にお茶だろう。しかしぼくはそんな甘っちょろいことはしない。お茶、納豆だ。これだけは譲ることができない。
なんやかんやで初回のミーティングは終わった。ぼくはなんやかんやという言葉が大好きだ。2時間、3時間にも及ぶ映画会議の複雑さを、こうもすっきりと表現できる言葉が他にあるだろうか。映画制作は単純ではない。しかし参加者全員が、「これから面白いことが始まる!」と布団を被ったのではないかと思う。

映画を作りたいなんて素っ頓狂なことを思い始めたのはいつからだろう。おそらく、13人の素人大学生に名前が付いた日からだ。
「みんなはキラメキやトキメキというものを持っているかい?」
「そんなメキメキしたもの持っていないよ」
「重くて大きくて持ちにくそうじゃないか」
「そうですね。でも私は、この一夏でそれを形にしたいのです!」
「夏、映画でメキメキを形に、、、」
晴れて、ぼくらはナツメキフィルムスとなった。この13人で映画を作りたい。何百万人といる大学生の中に映画を作る技術を持った人たちは大勢いる。ぼくらのバッグに経験や知識は詰め込まれていないけど、まずは彼らを一方的にライバル視するところから始めようではないか。本当に身の程知らずである。
80万円必要だなんて知った時はとりあえずみんなで笑ったし、22時から2時までミーティングをした夜もなぜか笑っていた。あの頃のぼくらは、分け入っても分け入っても脚本の中であった。素人が思いつきで放った「映画を作ろう」の言葉に、12人の大学生がダマされたのだ。ダマされるぼくらが悪いのか、ダマすあいつが悪いのか。迷宮入りである。とにもかくにも出会って2ヶ月でここまで来た。お昼過ぎ、計ったように雨が止む。24日間の紆余曲折した撮影も今日で最終日である。

思い返してみると、初日は10時間も撮影して1シーンしか撮れなかった。「これがあと1か月も続くのか」
「私たち、1か月後に生きていられるでしょうか」
ぼくらの疲れとは裏腹に、駅ビルに映る京都タワーは今日もピカピカと紅白のライトを輝かせている。
「ついに始まったのだな」
「そうですよ。現実です」
右手にぶら下がる録音機材はしっかりと重かった。

雨が続いて思うように撮影ができない日が続く。京都の殺人的な暑さに備えてやって来たから、市バスの窓が大雨に打たれ始めた時は豆鉄砲を食ってしまった。
監督が、小豆色のフタをした高級アイスクリームを買ってくれた。この日にやっと、夏らしい青空と目が合った。消えかかった五山の送り火を見るために走りながら、無理やり自分に言い聞かせる。
「ああ、なんて京都らしい!満喫しているなあ」
すると助監督が嘆く声が聞こえてきた。
「もう!せっかく京都に来たのに!」
彼女たちの役割はとても大切で、今にも暴走を始めそうな監督を制御するという最重要タスクを抱えている。それゆえ精神的疲労で病んでしまい、夜な夜な襟足パーマを揺らしながら銭湯を求め京都を練り歩いているようだ。もう一人はヤクザに憧れている天使である。そのくせに劣化したネコ型ロボットには怯えているのだから、世の中とは不思議なものである。
「彼女が天使だって?それなら輪っかを見せてみろよ!」
ぼくは耳に繋がる全神経をシャットアウトし、さっきよりも大きな声で唱えた。
「満喫している!ぼくは西賀茂車庫に京都を感じるのだ!」

それにしても、雨のしぶといことよ。「学生諸君、社会の厳しさを教えてやろう」と言わんばかりである。8月なのに監督とカメラマンが凍えているから、カッパと暖かい飲み物を買いに走った。この頃からぼくは、アイブレ担当という肩書きを荷物番担当へ変えようか迷い始める。
次の日、荷物を守っていると、仲のいいエキストラからメッセージが届いた。
「哀愁がすごいですよ」
「世界の哀愁の80%は荷物番から生産されているんだよ。いや、別に寂しくなんかないさ!ぼくがここにいることで撮影隊を雨雲から守っているのだ。荷物だけだと思うなよ!」
この世に生を受けて21年、図書委員への立候補はしたが雨男になりたいと手を挙げた覚えはない。何らかの不正があったのだとぼくは踏んでいる。

この夏、赤い丼物屋さんと黄色い餃子屋さん、それに青いコンビニの売り上げにどれだけ貢献したことだろうか。夜中にみんなで食べる餃子の美味しさを全地球人に知ってほしい。帰宅が毎日23時を過ぎるのは鴨川とみんなのせいである。
「ああ鴨川よ。なぜ君は京都にしか流れていないのだ!」

JRと阪急を乗り継いで市バスに乗る。三脚とスライダーを返してきたところだ。天満駅の発車メロディーが頭に残って思わず口ずさむ。御薗橋まで戻るころには撮影が終わっているだろうから、このままゲストハウスに帰ってしまおう。
バスを降りるともう終礼が終わっていた。
「あのう、もう終わりましたけど」
「いや、帰ろうとしたのだ。けれどもそのまま乗っていれば現場に着いてしまうのだから、仕方がない。決してみんなに会いたかったとかそういうのではない」

それの足音はひたひたと近づいてきた。ぼくらが対峙する最大にして最長の敵である。決戦を前にぼくらは作戦会議を行った。
「果たしてぼくらはヤツに打ち勝つことができるだろうか」
「なかなか大変な戦いになるだろうね。ヤツはいろいろな武器を持っているから」
「そうだねえ。”焦り” とか、”疲れ” とかを使って攻撃してくるらしい」
「私は ”聞き分けの悪い通行人” 攻撃が苦手だわ」
「なんといっても今回ヤツが多用してくるのは ”眠気” というものだろうな」
「素人のぼくらが手を出すような相手ではないのやも知れぬ」
「弱音を吐くな!夜のシーンを人通りの少ない時間帯で撮影するためには、ヤツと戦うしかないのだ!」
火花を散らす議論を見守っていた監督は意を決し、すっくと立ちあった。
「敵は祇園四条にあり!」
「京都市役所にもいます!」
ぼくらは京阪電車の祇園四条駅と京都市役所前の交差点を決戦の舞台とし、ヤツに果たし状を送り付けた。
8月最後の日、世の人々が家路につくころ、ぼくらは橋の下にぽてぽてと集まった。ウォーミングアップを済ませた誰かが「いざ尋常に、勝負!」と叫んでいる。ヤツは恐れていた通りいろいろな攻撃を仕掛けてきた。信号のタイミングを利用してバスや人の波で邪魔をしてきたり、突然街の明かりを消すなどという卑怯な手を使ってきたり。"ウサギの格好をした3人のメイド攻撃”には意表をつかれてしまった。
「なかなかやるではないか」
デネブとベガ、アルタイルに見下ろされる中でぼくは、天の川の流れの如くドバドバと泣き言を漏らしていた。
「もう四条大橋は大嫌いだ!」
看板片手に「撮影中ですので、、」と声をかけては「じゃまだどけい!」と一蹴されてしまうからである。
大学生というのは時に、酒場やカラオケボックスで気がつかないうちに朝を迎える。ぼくらも世の多くの学生が経験するように、ぼろぼろの脚本と体を両手いっぱいに抱えて朝を迎えることになるのだろうか。市役所の隣にある一流ホテルが昼間よりもずっと大きく不気味に見える。時間とともにエキストラさんたちの表情にも陰りが見え始めた。真っ暗な中でぼわっと浮き上がる仏頂面ほど恐ろしいものはない。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて、、、」
誰かがぶつぶつと呟いている。
「頭でもおかしくなったのだろう、放っておきなさい」
どうしようもなく手をこまねいていると、天使の声が聞こえてきた。
「お疲れさまです!ありがとう!」
天使の声を聞いたことは無いから確かではないが、エキストラさんたちを元気づけているのはあの子だけである。彼女への尊敬がタバコの煙のようにぶわっと脹らみ、その煙は天使の輪っかをぐるぐると回り始めた。
「それ見たことか、輪っかがあるじゃないか。やっぱり彼女は天使だ」
何人かの目は血走って今にもはち切れそうだ。それでもぼくらは戦い続ける。夜の闇にうっすらとした青と白が注がれ始め、ヤツとの決戦も終盤を迎えた。長くてあっという間であった。京都の街が「ぴよぴよ」と動き出す。
「終わったのですか?」
「私たち勝ったの?」
御池大橋はもう朝である。
「ああ、ヤツに打ち勝ったぞ!グッジョブ!」
ぼくらはみんな満身創痍であったが、なんとかヤツとの決戦を終えた。この過酷な戦いを乗り越えることができたのは、ぼくらから映画を作れるという自信が消えなかったからであろう。監督はほぼ眠った状態でぼくらを見回した。
「みなのもの、大儀であった」

この夏、唯一やり残したことがある。竹林だろうがデルタだろうが、とにかくありとあらゆるところでぐるぐる回り、京都をぼくらの背中で塗りつぶすという国家プロジェクト級の大作戦だ。これは失敗に終わってしまった。儚くも美しい監督との夢であったが、何しろ京都は広い。だがしかし、はるばる蜜柑の国からやってきて西賀茂車庫でくるっと回る男なんていないだろう。なんと誇らしい。

心の底から尊敬できる仲間に出会えたのも本当に良かった。電波は弱いが魅力的な町家に住むスケスケ衣装くん。海より深く山より高い優しさでロケ地を提供してくれる音楽家には、我らが歌姫の美声を早くサントラにしてほしいし、姉さんにはもっと詳しいプレゼンで歌劇団の魅力を教えてほしい。カチンコのおかげで、普段まったりと話す彼女のハキハキ口調を聞くことができて良かった。助演俳優は女を寝取ることにならなくてこれまた良かった。黒髪信者にオレンジ色の髪の毛をけなされようが、三田から招集され時間外労働を強いられようが、堪忍袋の緒を切らないでいてくれた彼女たち。今はぼくらのことが好きでなくてもよろしいが、いつか絶対、あの子に「大好き」と言わせて見せよう。

これはあくまでも予想であるが、撮影が終わったら夏よりも夏のような天気が続く気がしてならない。多分、ぼくらは京都から夏を盗んでいたのだ。てっきり神様がぼくらに嫉妬してるのだとばかり思っていた。でなければあんなにも雨が降るはずがない。そうやってぼくらの一夏を邪魔するのだ。しかし困難が重なれば重なるほど、ナツメキフィルムスは強くなる。ぼくらの監督はかく語りき
「いつだって 13-1=0 だ」

こうしてぼくらは撮影最終日を迎える。
「四条の空よ、鴨川よ、ぼくらが青いだって?君たちにそんなことを言われる筋合いはない!」
速やかに撮影は始まった。「通行人の誘導も今日で最後なのだなあ」と一人思い出に浸っていると、気づかないうちに撮影隊は最後のカットに取り掛かっている。ぼくらの光陰は矢というよりも銃弾のごとく飛び去っていった。

「カット!」

やっぱり、ぼくらの1か月は青かったみたいだ。

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