今の時代に文章を書くということ。
私は小説家でもジャーナリストでもありません。
でも、子供の頃から書くことが大好きでした。
プロフィールに書いたように、学生時代も書きまくってきました。
そして、今では曲がりなりにも書くことによって対価をいただき、書店に流通するような媒体に執筆したりしています。
今は昭和の昔のように特別な人だけが「書く」時代ではなく、誰もが自由に自己表現し、フラットな関係で評価し合える時代です。
そんな視点から、今の時代だからこその「書くこと」の意味と作法について、考えてみました。
書くことは未来に向けたアウトプット
人間には表現したいという意思があります。
自分が自分であることを表現したいという意思は、潜在的にはあらゆる人が内に秘めているといえるでしょう。
ヒトという生き物は、物理的には水と油とカルシウムの集積だといえますが、そこに意識という魂が宿り、さらに万物の霊長にふさわしい知性が備わったことで、類い稀なる表現力を手にしたといえます。
それは、自己と他者とを明確に区別する才能を手にしたともいえます。
自分が自分であることの証しは、運動能力や学習能力、コミュニケーション力、付加価値を生み出す能力などによって示すことができますが、それらはあくまで一過的な指標を意味するに過ぎず、将来に渡って自己表現を保持する機能は有していません。
その点、書くことによってコンテンツを生み出すことは、現在の自分という存在を超えて、未来の世界に向けてメッセージを残し得る可能性を秘めているといえるでしょう。
古代の遺跡の数々には、当時の人類が刻んだ文字が残されていますが、それらから私たちは多くのメッセージを受け取ることができます。
まさに、書くことは未来に向けたアウトプットだということができるでしょう。
書き始めるタイミングは早いほど良い
文章を書くという行為は、思った以上に労力がかかるものです。
国語の授業で作文を書いたことがあると思いますが、多くの人にとっては苦い思い出となっているようです。
私も読書は大好きでしたが、「読書感想文」は大の苦手でした。それは、学校という場で、ある種の強制力のもとに、一定の形式に従って書くことが求められたから、能動的なスタンスにはなれなかったのだと思います。
それでは、学校の授業以外で何を書いたかというと、日記とか交換日記をつけた記憶がある人も多いでしょう。
私の友人でも、子供の頃から毎日日記をつけていて、大人になってもずっと続けているという女性がいます。日記ですから自分以外は家族といえども内容を見せることはないそうですが、その人は普段から文章を書くスピードがものすごく速くて、内容も躍動感に満ちています。
やはり、子供の頃から培ってきた習慣は、無意識のうちに身体に沁み渡っているのだと思います。
私も中学、高校時代から学業とは別に自由に文章を書いてきましたが、それらが直接進学や就職に寄与したことはなかったにせよ、何気ない習慣は心の余裕につながってきたように思います。
「まだ若いから」「勉強不足だから」「文章力がないから」「書くネタがないから」という理由で、パソコンに向かうことを躊躇することがあります。
私もずっとそうでした。でも、習慣を作り出すためなら、書き始めるのは早ければ早いほど良いはずです。
若いからこそ自由に書ける。書くことが勉強の契機になる。文章力は書くことによって向上する。書き始めるとネタが見つかる。
このように考えると、自然と前向きな気持ちになれるかもしれません。
フラットな立場で書ける時代
子供の頃、テレビで出ているような有名人に憧れました。本屋さんに積まれている本を書いている人は、本当に立派な人だと尊敬しました。
今でもそうした人がすごいことは変わりはありませんが、時代はずいぶん変化したと思います。
今、テレビで一番有名な人は誰でしょうか? あるいは、一番売れている本は何でしょうか?
もちろん、ジャンルによるとは思いますが、平成の前半までのような時代とは異なり、今は価値観の多様化とニーズの細分化があまりにも顕著なので、そもそも「一番」を挙げることは困難な時代です。
一方、最近読んだり見たりして、印象に残ったり影響を受けたものは? といった問いかけをすると、いわゆる有名人や流行作家や文化人ではなく、いわゆる一般人であるブロガーやユーチューバ―や電子書籍の著者だったりすることも少なくないでしょう。あるいはnoteの執筆者かもしれません。
それは、より私たちに身近な存在だからリアルな距離感をつかみやすいということもありますが、間違いなくひと昔では考えられないほどコンテンツの質や幅が充実してきているという事実があります。
いきなりテレビに出たり、本を出版することはハードルが高いにしても、実際に一般人でありながらそうした成果を挙げる人もたくさん出てきていますし、社会に影響力を持つ媒体を持つ学生や主婦やサラリーマンの人は増えることはあっても減ることはない時代です。
その意味では、すべての人がフラットな立場で書ける時代。あらゆる可能性をめがけて発信できる時代だといえるでしょう。
「私は一般人だから」というのは、書くことを躊躇する理由にはまったくなりません。
「たった一人」に向けて書き続ける
書くからには、成果をあげたい。自分が書いた文章を世に広めたい。プロとして認められたい。本業でステップアップしたい。このように考えるのは人情だと思います。
ここで陥りがちな危険は、数字的な評価にフォーカスし過ぎることです。アクセス数、フォロワー数、購読者数、反響数(いいねやスキ)、売上金額(印税)などは、もちろんいずれも大切な指標ですし、書き続けていく上でのモチベーションになりますが、あくまである条件、ある地点における定量的な数字に過ぎません。
インターネットで実施されるあるコンテストで優勝した人の話を聞いたことがあります。その人は優勝する前年にはあらゆる友人や知人に応援してくれるように働きかけ、自分に投票するように依頼する「選挙活動」を必死に行っていたそうです。結果、その年は優勝はおろか入賞すら叶わなかったといいます。翌年はその反省を踏まえて自分のクオリティーを高めるための努力に全力集中し、他人にはエントリーしたこと自体をいっさい伝えなかったそうです。出場者の構成や本人の取り組みが違う以上は単純に比較することはできませんが、自然体で臨んだ二年目に良い結果が出た事実はある種の教訓になると語っていました。
人は頑張っている人を見ると応援したくなりますが、それはよほど近しい人間関係にある場合を除いては、自分自身の目線や価値観で「頑張っている」と認識する場合に限られます。情報過多、供給余剰の時代には、特にフラットな関係においては「売り込まれる」ことへの警戒心が働きます。「私を応援して」というメッセージはお互いが応援し合える人間関係ができていたり、他の追随を許さないダントツの実績がある場合には効果を発揮しますが、ときとして「受け売り」のように振る舞いたくないという逆の効果をもたらしてしまうことがあります。目に見える実力よりもPRの方が先鋭化する場合には、よりその傾向が強くなるといえるでしょう。
ある著名なビジネス書の著者とお会いしたとき、このように話されていたのが印象的でした。
私は、つねに「たった一人」に向けて書き続けている。
これが「書く」ということの本質なのだと思います。
私自身も若い頃から試行錯誤を続けてきていますが、ある時から「たった一人」を具体的に意識するようになってから、飛躍的に人生が好転するようになった気がします。曲がりなりにもいろいろな現場で活動できるようになったのも、書くことの意思を「みんなに評価されたい」というベクトルではなく、「たった一人の役に立ちたい」というベクトルに切り替えたからだと思います。なので、一生懸命にアウトプットした結果、たった数人の人しか反応がなくても、まったく落胆することはありません。それは、「たった一人」に向けて発信するがゆえにある人の人生に影響を与えたり、「たった一人」の目にとまることによってその後の活躍の場へとつながったリアルな経験があるからです。
このように自分に言い聞かせることによって肩の力を抜いて自然体で「書くこと」と向き合うことができ、そうすることが結果としてエゴのないありのままのアウトプットにつながるのだとしたら、これほど幸せなことはないでしょう。
「未来の自分」から振り返った文章を
今は人生100年の時代です。私たちの一生は、昔に比べればずいぶんと長くなりました。65歳で現役を引退したとしても、あと30年以上もの時間を生き抜くことになります。現役世代が自分を生かすための仕事に没頭し、現在進行形の問題解決に臨む時代だとするなら、引退後はそれまでの経験や実績を集大成し、未来に向けての智慧や訓示をありのままに発信していく時代だと据えることができるでしょう。
その意味では、私たちが今「書くこと」は、今の時代を生きている人の役に立つためというのはもちろんですが、「未来の自分」の向けてという意味もあるかもしれません。70歳はもちろん、80歳、90歳を迎えた未来の自分は、果たして「過去の自分」に何を求めているのか。こんな視点からアウトプットしてみるのも、これからの人生により彩りを与えていく手立てになると思います。
学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。