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30 パリ講和会議

本時の問い「1919年,中国で五・四運動,朝鮮で三・一独立運動が起きたのはなぜか。」

第30回目の授業はパリ講和会議で締結されたヴェルサイユ条約とこの時期におきた三・一独立運動、五・四運動について扱います。本時の問いは「1919年,中国で五・四運動,朝鮮で三・一独立運動が起きたのはなぜか。」でした。

パリ講和会議

1918年11月第一次世界大戦が終結します。ヨーロッパを主戦場に多くの犠牲者を出した戦争が終わりました。誰もが何かしらのかたちで戦争に協力する総力戦を経験した人々は、二度とこのような戦争をおこしてはいけないという思いを強めました。アメリカ大統領ウィルソンは14カ条の平和原則を発表し、戦後の新しい秩序を築こうとしました。この原則は列国の利害対立があり、十分には実現できませんでした。1920年に発足した国際連盟は紛争の平和的な解決を目指す機関でウィルソンが強く設立を求めたものです。ただ、アメリカは議会の反対で国際連盟には加盟していません。このような理想と現実のギャップが、二度と戦争をおこさないと思いながら、なぜ第二次世界大戦が起きたのかを考えるときのヒントになるかもしれません。

民族自決の原則

講和会議では、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア、オスマン帝国の支配下におかれていた東ヨーロッパの諸地域では、ウィルソンの提唱した「民族自決」の原則に基づいて多くの独立国がうまれていきます。しかし、アジア・アフリカでは、この原則が反映されることはありませんでした。

民族自決の原則はアジアの人々に大きな衝撃を与えます。朝鮮の知識人のあいだではウィルソンの14カ条を誰もが暗記していたそうです。そして、1919年3月1日、ソウルのパゴダ公園に集まった人々が独立宣言書を読み上げ、「朝鮮独立万歳」をさけびながらデモをおこないます。この動きは朝鮮全土で見られました。これを三・一独立運動と言います。

朝鮮総督府は、軍隊や憲兵を出動させてこの運動を鎮圧しました。原敬内閣は朝鮮における憲兵警察の廃止など植民地統治方針について若干の改善をおこないます。このことを文化政治といいます。

反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である

柳宗悦はこのような言葉で批判しています。しかし、日本ではこのように朝鮮の人々に思いを寄せる人は少数だったようです。

山東問題

1919年に締結されたヴェルサイユ条約で日本に関わることとしては

山東省の旧ドイツ権益の継承が認められたこと

赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得たこと

などがあります。

山東省の旧ドイツ権益について、中国は自国への直接返還を求め、さらには対華二十一カ条の要求の廃止を訴えました。アメリカもこれを支持します。日本は三等級ドイツ権益の継承が認められなければ、国際連盟規約に調印しないとして反発します。最終的にはアメリカが妥協し日本の主張が通りました。

これに対し中国国内では、日本政府と、パリ講和会議に参加している中国政府に対する民衆の怒りが高まります。1919年5月4日、北京で学生による街頭運動をきっかけに、反日国民運動へと拡大しました。これにより中国政府はヴェルサイユ条約の調印を拒否しました。

戦勝国として講和会議にのぞみ、五大国の一員となった日本でしたが、日本の立場は苦しいものでした。そのことを教科書では以下のように説明しています。

日本は国際社会で欧米先進諸国と肩を並べる国になった。しかし、欧米諸国からは新しい競争相手として警戒され、東アジアの近隣地域からは欧米流の植民地主義国家として不信の目を向けられ、日本の国際的立場は苦しいものになった。

第一次世界大戦は世界を変えました。それに日本は今度どのように対応していくのでしょう。

今日はここまでとします。

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