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僕の原典の一つ【ドラゴンラージャ】

僕は小学生の頃からよく本を読んでいた
その全てが僕の形成に関わっているとは思うが、中でも強く影響与えているものがある。「原典」とでも言うべきものだ。

いくつかあるが、今回はそのうちの一つを紹介する。

『ドラゴンラージャ』

“韓流”冒険ファンタジー日本初上陸!
主人公フチ・ネドバルは17歳。ロウソク職人の家に生まれた早熟でキレ者の少年だ。フチは、ふとしたことから首都への旅に随行することになる。旅の目的は、ブラックドラゴンに捕らえられた人々の身代金をえること。旅のとちゅう、エルフ、ドワーフ、女盗賊、スパイ、放浪する王子など、さまざまな人種そして種族に出会う。一行をおそう危機、そして、待ちうける壮大な抗争劇!ドラゴンを従えし存在=ドラゴンラージャをめぐる冒険ファンタジー。
(Amazonより)

あらすじを読むと典型的な児童向けのファンタジー小説だが、ぶっちゃけ超笑えるのでよければ読んでほしい。ちょっと長いし、趣味が合わないかもなのでムリにとは言わない。でも笑いすぎて読み進められなくなったのは『ドラゴンラージャ』が初めてだった。

『ドラゴンラージャ』は子供が楽しめる冒険もの。笑いもあり、涙もあり。魅力的なキャラクターたちが繰り広げる冒険活劇についついページをめくってしまうこと間違いない。

――それだけならわざわざnoteに書いたりしない。原典にもならない。

僕は『ドラゴンラージャ』を何度か読み返している。読む度に新しい発見がある。その中のいくつかは僕の考えを支えている。

『ドラゴンラージャ』は、子どもだけが楽しむものではない。おそらく、子どもではわかりにくい部分がある(もちろんわからなくても楽しめる)。

しかしこの現実世界を生きて、見て、聴いた人ならば、『ドラゴンラージャ』に描かれている、ありのままの姿の世界を見つけることができるだろう。

そこには人間や世界の本質が隠れている。

差別、争い、誇り、富、死、生、優しさ、喜び、約束、愛、意地、無知、やりきれなさ、後悔。

『ドラゴンラージャ』の軽快に描写される物語。それを支える重厚な世界観と鮮明なキャラクターたち。

僕は、大人にこそ、この物語を読んでほしいと思う。

一つだけ紹介-人間は単数ではない

一つだけ、僕が『ドラゴンラージャ』で学び、考えたことを共有しよう。

「人間は単数ではない」

これは作中に登場する大魔術師ハンドレイクの言葉だ。

妖精女王と話す中で彼が意味したのは、人間が複数形であること。王に仕える彼がいて、大魔術師としての彼がいて、指揮官としての彼がいて、そして……。

僕らはその文脈ごとに新しい自分を形成する。
家族と話している自分、職場で話している自分、恋人と過ごしている自分、一人でゲームをしている自分。

そのどれもが紛れもなく自分でありながら、しかしそれぞれ別の自分であるとも言える。ゆえに単数ではなく複数なのだ。

平野さんの「分人」に似た概念かもしれない。

僕はこの考えを『ドラゴンラージャ』の影響で中学生の頃から持っている。

それは僕を"一貫性の呪縛"から救ってくれた。
文脈ごとに生まれる新たな自分に苦しむ僕を肯定していくれた。

僕らは、単数ではないのだ。

『ドラゴンラージャ』は僕の原典

なんかAmazonで僕の原典が3000円未満(12巻セット・中古)で買えるっぽい。

実は僕も図書館で読んでいたので(子どもがハードカバーとか買えない)、原典とか言いつつ持っていなかったりする。この機会に買おうかな。

もしよければ大人な皆さん。
『ドラゴンラージャ』を大人買いしてみてはどうだろうか?

何か、新たな気付きが得られるかもしれない。


学習のアーティストを目指してます。学習ノウハウの体系化・学習体験のコンテンツ化を通して、学習者のレベルアップを手伝います。現状、お金よりも応援がほしい。