「かわいい」が「正義」になった日

はじめに:「快不快」をもっと考えてみる

こんにちは。はじめましての方も、そうでない方も、閲覧ありがとうございます。翻訳家の平野暁人と申します。ますます激しさを増す台風に怯えながらこのテクストを書いていますが、みなさんの地域は大丈夫でしょうか。

先日、ふとしたきっかけから「不快な思いをさせて申し訳ない」という定型フレーズについて私見を綴ってみたところ、思いがけず多くの方にお読みいただくことができました。noteへの投稿自体が初めてだったこともあり、(こんな無名の人間の独り言を誰が読むのだろう)(やっぱり止めようかな)とぐるぐるしながら書いた文章だったので、とても嬉しかったです(↓記事リンク)。

https://note.mu/aki0309/n/n7c898a81df64

ところで、前回の記事を書き終えて、私は首をひねってしまいました。「善悪」や「正悪」の代わりに「快不快」を利用して「謝罪しているふり」ができるということは、裏を返せば、私たちの生きている社会において「快不快」という感覚がそれだけ重要な価値をもっているということを意味します。だって、もしも「快」だろうが「不快」だろうがどうでもいいと思っている人が多かったら、この「謝罪のふり」自体が成立しないはずですから。

でも、そもそも個人の主観に即した感覚でしかないはずのものが、なぜ「善悪、正悪」の代わりになれるほど重要な価値基軸として作用するようになったのでしょうか。

「かわいいは正義」から考える快不快

「快不快」と「善悪、正悪」の関係についてあれこれ考えていたら、頭に浮かんだフレーズがあります。それは「かわいいは正義」というものです。これを読んでくださっている(数少ない)みなさんの中にも、聞いたことのある人は少なくないのではないでしょうか。私の感覚では、2010年前後を境に、ネットや広告をはじめとした媒体で、様々な人や物や作品を、その「かわいさ」を根拠に絶対的に肯定する表現として頻繁に見聞きするようになった気がします。

いうまでもなく、「かわいい」というのは最もわかりやすい「快」の形です。これに対して「正義」とは本来、個人の主観に左右されない、社会における絶対的な価値基軸として機能すべきはずのものであり、「善悪」ともきわめて密接な関係にあります(ただし「正義」と「善」は厳密には違うのですが、その話を始めると三日三晩かかりそうなのでいまはやめておきますね)。

そう考えると、この2つを直結させた「かわいいは正義」というフレーズは、「快不快」と「善悪」の関係を読み解くうえで鍵になるような気がしてきますよね。

……してきませんか?(弱気) 

……わ、私は、します!(虚勢)

「かわいいは正義」はどこからやってきたのか

というわけでこの「かわいいは正義」についてちょこっと調べてみたところ、元々は『苺ましまろ』というアニメのキャッチコピーとして発明されたものが、だんだんとその界隈の外でも様々な局面で使われるようになったようです。最初の放送が2005年で、その後は2009年まで断続的に発表されているので、2010年前後から急速に、という私の感覚もあながち的外れではなかった模様(えへん)。

私はアニメには疎いので詳しい方には叱られてしまうかもしれないのですが、どうやらこの『苺ましまろ』はいわゆる「萌え絵」的なもので描かれており、低年齢の女性が主要登場人物の多くを占めている様子。つまり、ともすれば「ロリコン」「小児性愛を連想させる」といった批判を受けかねない作風です。

おそらくこの作品の制作者もそれを自覚しているからこそ、「いろいろ文句言ってくる人もいるかもしれないけど、こんなにかわいいんだからいいじゃないか」「余計なことをいわずにかわいいを愛でよう!」「自分がかわいいと感じるものを追求してなにが悪い?」という意味を込めて「かわいいは正義」というキャッチコピーを繰り出し、一点突破しようとしたのではないでしょうか。

そうです、まさにこの瞬間、アニメ界という日本社会の一隅において「快楽≒正義≒善」が改めて、高らかに宣言されたのです。

「かわいい」が「正義」ではない理由

さて、「かわいいは正義」の来歴とそこに宿る意図について考えてきましたが、もちろんこれは、特定のアニメやその製作者が歪んだ価値観を提唱し、社会に悪影響を与えた、などという話ではありません。私自身、観てもいない作品を印象だけで批判するつもりもまったくありません。余談ですが、これをフランス語で

Ne jugez pas un livre à sa couverture(本を表紙で判断するな) 

と言います。いちおう翻訳家っぽいことも書いてみました。えへへ。

重要なのは、アニメという本来はサブカルチャーに属するはずの分野で発明されたコピーが、これだけ世の中に広く浸透したという事実です。それはつまり、同時代を生きる人々の意識の中に、公共の規範に基づく善悪、正悪よりも「かわいいは正義」的な価値観、すなわち「快楽をもたらすものこそが正義(≒善)であり、それを褒め称えたり消費したり追求したりするのは素晴らしいことだ」という考えの方を受け入れ、肯定する土壌がすでに育っていたということを意味するからです。

もちろん「かわいい」という表現自体に罪はありません。ただ、個人の主観に即した「快不快」のいち表現にすぎない以上、誰かが「かわいい」という言葉を使って発信したとき、それが受信者にとって同じく「快」であるかどうかはわからないし、まして「正義(≒善)」である保証など、本来はまったくないはずです。

このことについて、ひとつ例を挙げて考えてみます。

「かわいい(快)」≒「正義(≒善)」が成立しない例

たとえばある学会で、A先生がB先生の発表について「内容もよかったけど、B先生はとにかくかわいい!だからB先生の発表は毎回最前列で観ます」と発言したとします。A先生がB先生の大ファンなのは事実かもしれませんが、B先生は研究者として懸命に準備し、発表したのですから、内容より「かわいさ」を評価するような言動は「不快」にあたる可能性があります。

一方で、もしもB先生が「かわいい」といわれることが大好きな人であった場合、この「かわいい」はAB両先生にとって共通の「快」として成立する可能性があります(嬉しいけど人前で言われるのは嫌、という人も多いでしょうし、事はそう簡単ではありませんが)。

さらにいえば、AB両先生に加えて、他の出席者も全員この発言を肯定したとします。その場合、A先生が放った「かわいい」はもはやその場全体の「快」として機能することになるでしょう。

ただしその場合でも、「かわいい(快)≒正義(≒善)」が成立するわけではありません。なぜなら、そもそも学会という公的な場の本義とは「研究成果を発表し、講評しあう」ことであり、特定個人の容姿について特化した評価を下すことはこれに明らかに反する行為だからです。むしろ、学会という公共の場で、本来の目的を大きく逸脱した発言を行っているという意味で、「悪」である可能性が高いです。

「かわいい」は「正義」ではないが、悪でもない

なんだか、「かわいい」がすっかり悪者にされてしまった観がありますが、もちろんそんなことはありません。アニメのキャラクターを「かわいい」と愛でるのも自由、服を見ながら友達と「これかわいいよねー」と盛り上がるのも自由、相手が部下だろうと生徒だろうと親の仇だろうと密かに(かわいい)と思うのも自由だと思います。

それこそ先ほどのA先生だって、(B先生かわええ……)と密かに見惚れているだけなら決して悪ではないわけです(その態度自体が「きもい」と思う人もいるでしょうが、「きもい」もまた「不快」に過ぎず、「悪」とは関係がありません)。

「かわいい」という個人の主観に即した感覚は、個人の営みの範囲内に適用される限りはひたすらに「快」であり、それ自体は正義でも悪でもないと思います。にもかかわらず、それをそのまま、社会という公共の空間で起きている事柄を裁く価値規範として流用しようとすると深刻な問題を招くのではないでしょうか。

「かわいいは正義」なら「不快は悪」か

なんだか前回に続き、またしても当たり前のことばかり書き連ねてきた気がします。(あたりまえじゃん)(わかってるよ)(つーか、話なげぇ……)と思いながらここまでお付き合いくださった方、どうもありがとうございます。

けれど、こうしてひとつひとつ書いてみると当然としか思えないことばかりでも、私たちが生きる社会では着実に「かわいいは正義」的な快不快至上主義が勢力を強めているように感じます。

現に先日も、こんなことがありました。ある若手研究者が研究発表の場で「女性を性的対象として提示する手法をとった」という批判を受けたのですが、その研究者を擁護する意見として「自分は現場でその発表を見たが、参加者は誰もそのことを問題視せず、発表内容自体を好意的に評価した」という旨の声があがったのです。

しかし、批判の内容は「女性を性的対象として提示する手法をとった(=研究発表の倫理に反する≒悪)」です。これに対して「その場の参加者は問題視せず発表を楽しんだ(=快)」という反論は、明らかに「善悪」と「快不快」を混同してしまっています。

あるいはまた、昨今おおいに議論を呼んでいる「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展」に対する反応にも、「快不快」と「正悪、善悪」を混同したまま怒っている人達が少なからず見受けられるように思います。

もちろん「少女像は不快だ」「写真を燃やすなんて不敬で不快だ」という感想を抱くこと自体は自由です。また、それを(他者の名誉を著しく毀損するような言動を避けて)発信する権利もあると思います。

でも、芸術表現とは本来、受け手に快感をもたらすための手段ではありません。それどころか、名作と誉れ高いものの中には、不快感や恐怖感を強く呼び起こす作品がたくさんあります。

たとえばかの有名なパブロ・ピカソに「ゲルニカ」という作品があります。ドイツ空軍がスペインのゲルニカという都市に対して行った無差別爆撃を描いたものですが、私は初めてその絵の前に立ったときの感覚、いまにも地面が足元から瓦解して崩落してゆくような、絶望的な恐怖感を20年近く経った今でも忘れることができません。

それでも「かわいい(=快)」は「正義」に近づき続ける

無論「ゲルニカ」に限らず、観る人に強力な快不快として作用する作品に対して、「恐ろしくて不快な作品だ」という意見があってもいいと思います。けれど、「不快だから展示すべきではない」という論理展開には無理があります。それは、「不快(個人の感覚)」と「悪(≒公共の規範に基づく判断)」という、異なる性質をもつ2つの価値を直結させて考えてしまっているからです。

「不快は悪」という発想は、いわば「かわいい(=快)は正義」と表裏をなす価値観に思えます。そしてこの快不快至上主義が公共の空間で暴走すると、自分にとって不快なあらゆるものに対してクレームをつけたり、謝罪を迫ったり、中止を要求したりといった攻撃的な態度をとる人達が増えてくる可能性があります。

「不快な思いをさせて申し訳ない」という、行為自体の善悪や正悪をさしおいて快不快という感覚ばかりを問題にするフレーズが多用されるようになってきたのも、そうした快不快至上主義的な意識のひとつのあらわれなのではないでしょうか。

まとめと新たな未解決の課題

長々と書き連ねてきましたが、いま、自分が非常にまずい状況に陥っていることに気がつきました。なにがって、「かわいいは正義」を手がかりに快不快至上主義について考えたのはいいけれど、最初に立てた「どうしてそれがそんなに重要になったのか」という問いにぜんぜん答えていなかったのです。あわわ。

たいへんだ。どうしよう……。

というわけで、そのことについては(気力と体力が追いつくようなら)次回、改めて考えてみようと思います。あ、でもこの記事の評判があまりにも悪かったらやめます(弱気)

以上、最後まで読んでくださってありがとうございました。いち翻訳家の私見ですので、至らぬ点はどうぞご容赦ください。

こいつの書くものならまた読んでもいいかな、と思ってくださった方は最後に「スキ」をぽちっとお願いいたします。

訪問ありがとうございます!久しぶりのラジオで調子が狂ったのか、最初に未完成版をupしてしまい、後から完成版と差し替えました。最初のバージョンに「スキ」してくださった方々、本当にすみません。エピローグ以外違わないけど、よかったら最後だけでもまた聴いてね^^(2021.08.29)