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募金と献花の違いを語ろうか。

最初に言っておきますが、テロが起こったときの復旧には祈りとお金の両方が必要です。だから、どちらも否定することはないし、どちらもあるべきだと思います。

献花とは

このnote内では、事件現場近くに備えられた献花台、または道沿いに花を添えて祈る(仏教の場合は合掌、キリスト教の場合は十字を画るかもしれませんし手を組むかもしれません)行為全般を指します。また募金とは、このnote内においては義援金(実際の被害者に送られるもの)を含み全ての支援者からのお金のことを指します。
また、このnote内では献花を行う人と募金を行う人を分かりやすくするために、全て「支援者」と記載したいと思います。

献花と募金の違い

まず、献花と募金という行為に違いはあるのでしょうか。

分かりやすく考えれば「献花=花」「募金=お金」となり、これだけの差と考えられるかもしれませんし、それは事実です。

もう少し踏み込んで考えてみましょう。
募金は何のためにするのでしょうか。
被害者や遺族に対するお見舞い、復興に対する支援、被害状況の復旧のため、今後二度と同じことが起こらないため。様々な用途が思いつきます。主に「これからのため」のお金と言えます。非常に建設的な「支援」と言えましょう。

逆に、献花は何のためにするのでしょうか。
亡くなった被害者への哀悼、祈る人の心の安らぎを得るため、これらが理由かなと察します。お金とは違い、概ね「気持ち」が大きなところです。まず、死亡事故が起きた事件現場にいって「元気になりますように」なんて祈りませんし、生存者がいたとしても第一に事故現場で考えるのは亡くなった人のことかと思います。主に「亡くなった死者への哀悼」これが献花の目的や特徴と言えそうです。

ここまでで察しのいい方はお気づきかと思いますが、献花は全て「過去」に対する祈りです。起こってしまった悲しい出来事、失われたものに対する哀悼です。

つまり、募金と献花の決定的な違いは、「将来を見ており生きている人のためか」「過去を見ており死んでいる人のためか」この2点になります。

募金は「被害者を悼み、これから将来に向けて復旧してほしいという希望」
献花は「事件が起こった過去を悔やみ、二度と起こらないで欲しいという願い、死者のみに捧げられる哀悼」です。

当たり前のことですが、死者はお金を受け取れませんし、お金で死者は戻ってきません。募金は遺族へいきますし、死者へ使われるとしたら慰霊碑やその人の生きた証、お別れ会の供花費用かもしれません。そのため死者のために使われど、募金の多くは「生き残った人のためのお金」と言えそうです。きっと募金をする人の中には復旧を願う人やテロに怯まずに頑張って欲しい、そんな大切な気持ちで募金する人がいっぱいいることと思います。それは「将来を見ている」と言えそうです。

献花での祈りは、「死んだ人のための行為」です。逆に「死んだ人に花は届くのか」という疑問が生まれますし「花は添えず手を合わせるだけじゃダメなのか」という意見も聞きますが、哀悼という行為に対して「花」は最も世界的に使われている手段です。それは海外のニュースでもそうですし、墓参りや葬儀を通して分かることかと思います。死んだ人に対してどうしても何かを捧げたい、と思えば「祈り」という行為に帰着するのは理解できます。まず、事件現場の復旧や生存者の回復も大事に思うことと思いますが、何より一番に「亡くなった人」に対し祈りたい、と思ったときに花を添えた手を合わせるのは、日本の慣習や宗教的に見てもおかしくないと考えます。

またこれは考察ではなく個人的な意見として、テロリストに対抗しようとしたら、お金も必要ですが、巻き込まれた関係者(これは当事者や遺族だけではなく事件にショックを受けた第三者も含みます)が早く日常に戻ることが最もな抵抗と考えます。社会に対する怒りに飲まれて行われたテロに対し、怒りで反発し悲しみに飲まれて仕舞えば、テロリストの思う通りになってしまうからです。

日常に戻ることがテロに対する抵抗と考えれば、献花をすることで安らぎを得ることができるなら、献花もテロに対する抵抗なのかもしれません。

結論としては「献花も募金もどちらも必要だが、どちらも意図が異なる」です。以前悲惨な事件現場の近くを通ったときに、献花に向かったであろう目頭を押さえながら歩くおばあちゃんとすれ違いました。そういう方に「これから復旧に向けて頑張ろう」という旨の声を掛けることはおそらくできないと思いました。一緒に悼むことしかできません。大事な方が亡くなったとき、必ず人にはその人を悼む時間が必要です。「死者を身近に感じており、将来や復旧も大事だが、まず死者にだけ祈りたい」そういった気持ちのときに出てくる行為が献花なのかな、と理解しています。

また、献花に対しよく言われる意見に「被災地に千羽鶴を折るのと一緒」と言われますが、それは全くもって間違いだと考えています。
なぜなら被災地に千羽鶴を送る(また送り先が避難所などの場合はさらに)のは「生きてる人」に送るからです。生きて、これから生活しようとしてる人には明らかにお金や必要と言われた物品が優先されます。だから被災地に千羽鶴を送るのは「無駄だし迷惑」それは正しい意見かなと思いますが、献花にそれを当てはめて「迷惑」というのは献花という行為を理解してない、と言えそうです。

また、献花がゴミになるという意見についてですが、前述した通り添えられる時点では花自体はゴミではなく祈りの象徴ということは書いたかと思います。問題はその後ですよね。花が傷んだ後の片付けについてです。献花台の管理は主に警察や行政の方(災害規模によりそう)、近所の自治体などらしいですが、「片付けが手間」という解釈は当事者以外には分からない上、行政の場合は給与が発生しているので、私は特に問題がないのかなと考えます。発生した業務含めてのその職業のためです。近所の方が「控えてほしい」という旨の貼り紙などをするようになったら控えればいい話で、その辺りは献花する人がよく調べる必要のあるマナーと言えそうです。実際、手を合わせるだけの人や花は持ち帰ったという意見も聞きます。

以上が献花と募金に関する私の考察になります。

募金の方が建設的、献花は人の気持ちだから無下にしてはならないなど、様々な意見があり、正解は人それぞれだと思います。ただし、日本国憲法で保障されている宗教の自由などを踏まえて、献花という行為を批判することは推奨できないな、と考えている次第です。あと、個人的には募金の額が精一杯の哀悼の意味を込めて10円だったとしたら、それを見た人はなんていうのだろうということが気になっています。10円の気持ちが入った募金に疑問を持つということは、「哀悼する気持ち」に対して疑問を持つということだからです。そこで「10円でもありがたい」と思うのであれば「哀悼する気持ちを汲む」という時点で献花も変わらないのではと考えました。

私がもし交通事故で亡くなったら、残された家族に対してお金が入ってもありがたいですが、見知らぬ誰かに花を添えてほしいとも思います。これはお金も欲しいし、誰かに悼んでほしいという願望です。

いずれにせよ、ただひとつ言えるのは「亡くなった人は何をしても戻ってこない」これだけです。だから、募金が建設的か経済的か、効果的かなんて議論は死者自身に対して何も建設的でなく、やはりこれは生き残った人に対する将来を見た言葉だと思います。将来を見ているか、過去を見ているか、生きてる人のためか、死んでる人のためか、それの違いしかありません。人それぞれの感じ方の違いです。

生き残った私たち自身が、生活の豊かさを失わず、テロに対抗して生きていくためには、お金も祈りも必要です。

そのためには、募金も献花も行われてほしい、そう思いますし、日々誰かのために祈りたいと考えています。

おわり。

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