見出し画像

天竜寺の月と涙と懐かしい人

その年、ライトアップをはじめるという京都・天竜寺の試験点灯にいったときのことだ。

一緒にいくはずの人が急きょいけなくなり、一人で向かった。
平日の夜、嵐山での開催のせいか参加者は10人もいなかった。

説明のあと、私たちはぐるりと建物の中を巡った。
いまから思えばあそこは大方丈の中だったのだろうか。
曹源池を真正面から望む、その光景を忘れることができない。
最高の位置で月を愛でることができるようにつくられている、といっていたような気がする。
夜の池の上に月が静かに浮かんでいた。

その後、庭園を散策した。
ライトアップの光は思うほど強くなく、仕事においては
少々難しいことになるだろうという下見兼、分析を私は終えた。

それでも心はこの上なく幸福だった。
池のまわりをかみしめるように歩いた。
参加者が少ないのもあり、それはとても静かな時間だった。

庭に突き出す木の道の先、ぎりぎりまで行き、
ライトアップされた池と真上に浮かぶ月を
ぼんやりながめた。

気づくと、涙がでていた。

あれよあれよという間に
もう止められないほど
わたしはその場で
ごうごうと泣きだしてしまった。

うれしいのか、悲しいのか
よくわからない、ただただ涙があふれてしまうのだ。
一人で気の済むまでごうごうと泣いた。
もし、同伴者がいたとしたら、
この現象はきっと発動しなかっただろう。

大方丈から池と月をみたとき。
池のそばで涙流したとき。

この二つはまったく同じ心持ちだった。
この気持ちをうまく名付けられないけれども。

もし、前世がわかるという人や
サイキックな能力をもつ人だったら
この感情に名前をつけられるかもしれないと思う。

残念ながら、わたしはそのどちらでもない。
だからといって、これが気のせいだという確証にはならない。
気のせいで、人は泣かないからだ。

もしかしたら何百年ぶりかに、わたしは同じ場所に
一瞬立てたのかもしれない。
そんな妄想をするのは楽しい。

そのときに一緒にいた人は誰だったんだろう。
どんなふうに、あの月を眺めたんだろう。
きっとそれはとてもとても幸福だったんじゃないかな。
そのことにだけは、なんとなく確信があるのだった。
そんなことを考えると、また涙がでてしまった笑。

ひさしぶりによしながふみの大奥を読んだ帰り道、
ふっとそんなことを思い出したよ、というおはなし。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?