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「かつて僕らがいた日常」


「廊下は走っちゃいけません!!」

高橋先生の甲高い声が廊下に響き渡る。その声と同時に教室のドアに寄りかかっているクラスの女子たちが冷ややかな視線を向けてくる。僕はとっさに足を緩めた。

「ごめんってば」

振り返り、今にもとびかかってきそうな蒼汰から身を守れるように両手でしっかりガードする。眉間にしわを寄せて耳を真っ赤にしている。

「余計なことすんなよな」

蒼汰が怒っている理由は、僕が吉沢さんに蒼汰の話を持ちかけたからだ。今年の春から蒼汰は同じクラスの吉沢さんが好きらしい。たしか1か月前の帰り道に聞いた。それまで好きな人の話だなんてしたことなかったのに、これ以降帰り道に吉沢さんの話をするようになった。

「もうしないよ」

まだ僕の顔がにやけていたからだろうか。蒼汰は眉間にしわを寄せたまま、僕に背を向けた。

「次やったら本気で怒るからな」

思わず「きっと次なんてこないよ」と口から出かかったが、口に出したら本当にこないような気がしてやめた。

***

明日から始まる夏休みが終わり2学期が始まっても、僕らは今までと同じように毎日学校に行くことはない。2学期からオンライン授業が始まるのだ。数年前、国の偉い大人たちが決めたらしい。先生たちの働き方改革だとか、生徒の健康のためだとか。よく分からないけど、色んな大人が話し合って決めたこと。

僕が低学年の時、お母さんはニュースを見てよく顔をしかめていた。あの時はどうしてなのか分からなかったけど、今思えば僕らの年代から「小学校5年生の2学期からオンライン授業を導入する」と決まったことに対し、気が進まなかったのかもしれない。

オンライン授業が始まるからといって、全く学校に行かなくなるわけではない。週に1~2日くらいは登校して体育とか図工の授業を受けなければいけない。2学期で言えば運動会の練習がある。

ただ、結局のところ今までより登校日は減る。「オンライン授業が始まる」と先生に直接言われた時、僕らは「毎日学校行かなくていいんだ」と喜んだ。朝、お母さんにたたき起こされて目をこすり、しぶしぶ学校に行く準備をしていた毎日から解放されると思うと僕も嬉しかった。蒼汰も「俺らラッキーだな」なんて言ってたっけ。

「帰ろうぜ」

帰りの会が終わると、いつものように蒼汰が僕の座席の前に来た。返却されたプリントや体操着でパンパンに膨らんだ手提げかばんを肩にかけ、理科の授業で育てているキュウリの植木鉢を抱えている。僕は黙ってうなずいて「念のため持っていきなさい」と持たされた空っぽの手提げかばんを取った。

オンライン授業で使われる端末は入学時に配布されたものをそのまま使うらしい。僕が生まれたころの教科書は分厚い紙の本みたいなものだったらしいけれど、もう何年も入学時に配られる端末に入った「デジタル教科書」である。だから基本的に学校に持っていくものは端末だけ。でも、担任の高橋先生がよくプリントを使うので何だかんだ持って帰らなければいけない荷物は多かった。

「荷物そんだけ!?」

「うん、昨日までに分けて持って帰ってたから」

蒼汰は羨ましそうに身軽な僕を見る。最終日に全部まとめて持って帰ろうとするのは蒼汰らしい。

教室を出る前に黒板の方を見ると高橋先生の周りにクラスの女子たちが集まっていて、その中に吉沢さんもいた。思わず蒼汰の方に目をやると、むっとした顔で僕を睨んだ。

***

いつもの僕らはこの後のゲームのため急ぎ足で帰るのだが、今日はなぜかゆっくり歩いていた。

蒼汰の荷物が多いせいかもしれない。なんだか手持無沙汰な僕は道端に転がっていた石ころを蹴りながら蒼汰の歩くスピードに合わせる。

「今日で学校終わりみたいなもんだよな」

手に抱えている植木鉢を見つめながら蒼汰が言った。「そうだね」なんて適当に相槌を打ちながら、僕は足元の石ころに集中する。

「これから学校誰が掃除すんのかな」

急に真面目なトーンで呟く蒼汰の言葉に思わず吹き出す。

「いや、使ってない間は汚れないじゃんか」

「あぁ、そっか」

間抜けな反応になんだかほっとする。蒼汰はここ最近、突然真面目なトーンで話し出すことが増えた。内容は今みたいにどこか抜けたようなものだけど。

「2学期から楽だよ。朝早く起きなくていいわけじゃん?暑い中、学校行かなくていいしさ。宿題の量増えんのは嫌だけど、全部終えれば早く遊べるし」

服の中で汗が伝うような感覚がする。石ころが上手く蹴れなくてまっすぐ進めない。いつの間にか蒼汰と少し距離が空いていた。

「でも俺、結構好きだったな。毎日学校行くの」

蒼汰がまた真面目なトーンで話し出す。

「よく言うよ。めんどくせぇっていつも言ってたくせに」

「それはそうだけどさ、別に学校が嫌いなわけじゃなかったし。めんどくせぇけど好きだったよ」

そう言うと蒼汰がハーッと息を吐いてその場に座り込んだ。

「そのうち毎日登校しなきゃいけないめんどくせぇ学校が良いって思うのかもな」

植木鉢を持ち直して僕の少し前を歩きだした蒼汰の後ろ姿は、吉沢さんに見せたいほど大人っぽく見える。

僕は急いで石ころを草むらに蹴り入れ、蒼汰の背中を追いかけた。