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母というひと-067話

 弁護士Yは、父から電話が来ても取らないようにと母と私に注意した。
 こちらの動きを気取らせないためだ。

 弁護士Yは調書を作り、財産分割の希望を母から聞き取り、また法に照らして無理のない割合で調整を行った。

「弁護士側の報酬分としては、財産の2割(だったかどうか?)までと法的に定められているのですが、今回はそれでは多すぎると思うので、100万(200だったか記憶が曖昧)ではいかがでしょうか」と提案があった。

 Yはよくシルバーグレーのスーツに身を包んで白や薄色のカラーシャツをカチッと合わせていて、とても似合っていた。

 報酬額を提示する時、少しだけ申し訳なさそうな表情を見せた。「規定通りの額よりは低めだが、相場と比べると高め」の額は少々提示しづらかったようだ。

 私は結局は預金総額を見ていないので、その額にへえと思い、大体の貯蓄を想像して、それなら離婚してもやって行けると踏んだ母の気持ちを理解した。
 年金と貸している家の家賃を合わせれば、十分暮らして行けるだろう。

 母が全ての内容について承諾し、印鑑を押したと同時に父への宣戦布告がなされた。
 Yが、父名義の預金に対し仮差押えの手続きを行ったのだ。
 仮差押とは、名義人本人であっても預金を自由に使えなくなる措置である。

「まずは口座からお金を自由に動かせないようにします。離婚を申し立てられた事で焦って全財産を引き落として隠したりされると、お母様が困る事になるので」

 なるほどその通りだ。
 素人である私はそんな事まで想像出来なかった。

「お父様が離婚に同意して、財産分割が全て終わるまで解除はされません」と言うYに、母は
「構いません。あの人は隠し貯金を持ってるはずですから」と答える。

そう言えばそんな話もしていたような。
父はどうやら、会社から支給される特別手当を、給与の振込口座とは別の口座に入金させていたらしく、勤続中に入ったはずのなかなかの額の通帳を持っていると言う。
これは、母が父の浮気に気付いたあの夜、帰ってこない父を待ちながら、もしやと漁ったタンスの奥に見つけたらしい。

「その通帳はお手元には無いんですね?」
 ちょっと慌ててYが聞く。「はい」と母。
「その分の財産分割はよろしいんですか?」と尋ねられて、一瞬、母がホケっとなった。
 母は時々、難しい事や想定外の事を言われると、ぽかんと口を開けて真っ白になってしまう。

「母さん」私が横から口を挟む。
「本当なら、その通帳も全部足して、そこから財産を分けないかんとよ。
でも、その分は分けんでいいんやね?」
 不足していた情報を足して、少し噛み砕くと、やっと「ああ」と理解した声を出した。
「それはいい。あの人も生活費がいるじゃろうけんな」

「もしご主人の生活費などが必要だと言われたら、三崎様が許せる範囲で振り込むような形になります。その通帳の提出をご主人に求めることもできるんですよ」
 Yから念押しされたが、母は頑なに「いや、それはいいです」と拒否をした。

 どうも、こういう時の母の思考が分からない。
 今さら妙なところで仏心のようなものを見せて、どんな意味があるんだろうか?

 Yは、私がそれ以上突っ込まないのを見て、分かりましたと答えた。
 そこに母から、唐突に質問が飛ぶ。

「相手からはお金は取れんのでしょうか」

 Yが少し驚いて私を見る。
 母の話し方は、時と場合を選ばない。思いつくことを突然口にすることが少なくないので、真意を計りかねる時など、彼女は私に目線を送るようになっていた。

「慰謝料のこと?」
 私から尋ねると「そうそう。慰謝料やね」と繰り返し(多分その単語がとっさに出てこなかったのだろう)、Yに向き直って言い直した。
「慰謝料は取れんのでしょうか」

「何年も社内で不倫して、まわりの人達も騙して、私はこんな迷惑かけられて、許されん事をしてるんです。だから」
そんな事をとめどなく話し始める。途中からただの恨み言になりかけたので、やんわりと止めた。
 Yはこんな時、根気よく口をつぐんで話を聞いてくれる。面会時間も報酬のうちではあるが、その忍耐力に頭が下がる思いだ。

「お気持ちは分かりますが…そう大した額は取れないと思いますよ」
 申し訳なさそうにYが言う。
「えぇ?」と母。その顔が醜く歪んだ。
「まず法律で決まっている上限がありまして。状況にもよりますが、不倫相手からそこまでは取れないんです。今回の場合だと100万が精一杯かと」

「そんなぐらいしか取れんのですか」

 恨みを隠せずに歪みきったその顔を見て、先ほどの会話と繋がった。
 母は、父に対しては隠し預金を許して優しい一面を見せるフリをしながら、その分を不倫相手に払わせて腹の虫をおさめるつもりだったのではないかと。

 しかしこの想像をこの場で口にして確かめるのは、さすがに憚られた。

 母はYの事務所を出てからずっと、帰宅してからもずっとずっと、ちょっと壊れかけたような勢いで繰り返し繰り返し恨み言を私に投げ続けた。

「あの女、あれだけ稼いでうちのとのうのうと遊んどって、マンションまで現金でポンと買っとってから。あんなに金を持っちょるのに100万くらいしか払わせられんのかね」
「そんな金額、あの女にははした金じゃろうがえ」
「何の痛手にもならんのじゃないか」

 よほど悔しかったのだろう。
 母が予想していたよりもはるかに低い慰謝料の額が、相手への恨みを募らせてしまった。

「不倫くらいじゃ逮捕もされん。慰謝料もまともに払わんでいい。どんな身分かね」と。

 預金の仮差押と離婚申し立ての通告は、Yの名前で、書留で父に送られた。

 泡を食った父は母には電話を寄越したらしいが、私には掛けて来なかった。
 探偵の調査報告書の内容もそれには含まれていて、「助けてくれ」と泣きついた娘が自分を裏切って離婚の手引きをした事に怒りもあったろう。

 父は母に取り下げを何度も頼んで来たようだ。
 その会話を直接聞く機会はなかったが、30年を超える夫婦生活の中で、初めて本気で謝罪する父の姿勢は、一瞬だけ、母の溜飲を下げた。

「ざまあみろじゃ」

 母に会うたび、父がどんなに情け無い声を出して謝ってくるかを聞かされて、一緒に笑う事もあったが、内心はどうしても複雑だ。
 この頃は2〜3日に一度は母の元を訪れていたので、感覚としては毎日同じ悪口、同じ愚痴、同じ恨み言をループで聞かされて、めまいがするほどだった。

 地元に戻ってからはずっと派遣で仕事をしていたのだが、さすがに疲労が溜まり始め、少しずつ事務的な仕事がしんどくなっていた。
 細かな入力やチェックに集中できないと効率も上がらないし、何より迷惑をかけてしまう。

 それで、離婚後もどうせ母のサポートは続けなければならないと覚悟を決め、店頭販売などの職種に切り替えた。
 販売の経験はもともとあったので、躊躇はなかった。
 というか、自分の仕事の将来や人生の先のことを考えたり大切に思ったり余裕がもうなかったのだと思う。
 ただ今日明日を生きて行くための日銭を稼ぎたい、そんな気持ちになっていた。

 同居している男性は相変わらず家にお金を入れず、私の稼ぎで暮らしている。
 心と体に余裕がなくなってやっとはっきり、その存在が疎ましく感じられた。

 あれもこれも背負って歩けるほど強くないし、もう稼げない。
 そう自覚した頃だった。

「もし結婚願望があるなら、俺は身を引くよ」と、何かの拍子に相手が言った。

 私はその言葉を胸に刻んだ。
 いざという時のための切り札として。


普通と自称する母の、普通とは言い難い人生を綴っています。
000047話は、母の人生の前提部。
051話からが、本編と言える内容です。

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