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何の地図を描くのか〜現代アートにおけるドローイングについて〜

昨年からロンドンでファインアートを学んでいます。今回は私が勉強しているドローイングについて現代アートにおけるドローイングとは何か、という観点で学んでいることをシェアしてみようと思います。

言うまでもなくこの数週間で世界の状況がガラッと変わりました。アートの分野もこれからどのようにレスポンスしていくのか分かりません。そんな中で未来を考えるためにドローイングについて学んできたことをまとめてみようと思ったのがこの記事を書く動機です。
また学んできた中で、ドローイングという概念は、アートに限らず思考の道具としてヒントになるのではないかと思い、シェアすることにしました。

<  目次 >
1. ドローイングとはなにか
2. ドローイングはアート作品になり得るのか
3. なぜドローイングを用いるのか(身体性、マッピング)
4. 糸で描く
5. 明日のドローイング

1. ドローイングとはなにか

前提として私の専攻ですが、ファインアートのコースはさらに次の4つの細かい専攻に分かれており、私は3つ目のドローイング(Drawing and Conceptual Practice)を専攻としています。

ファインアートの4つの専攻分野
・ペインティング(painting)
・スカルプチャー(sculpture)
・ドローイング(Drawing and Conceptual Practice)
・ 写真・映像(Photography & Time-Based Media)

私は最初drawingという専攻分野があることを不思議に感じ、どんな人が行くんだろう(正直あまり面白くなさそう)と思っていました。なぜならドローイングと言われてもペインティングをする前のデッサンのような、作品をアウトプットする過程で生まれるプロセスもしくは練習であると思っていたからです。それでも1学期目に私が彫刻を作っても映像を作ってもdrawingがベースの作品だねと色々な先生に言われ、そんなつもりは全くなかったので困惑しつつdrawingとは何かということを自分なりに勉強してきました。その中で、現代アートにおけるドローイング(コンテンポラリードローイング)が私が考えていたものとは全く異なることを知りました。

現代アートにおけるドローイングを体系的にまとめた'Vitamin D: New Perspectives in Drawing'という本の巻頭エッセイ、'TO DRAW TO BE HUMAN' は”Drawing is everywhere.” という一言から始まります。現代アートにおけるドローイングとは世界に存在する様々なマークやサインを、色々な方法で発見したり、集めたり、分解したり、整理したり、ビジュアル化したりする実験的な試みであると私は解釈しています。

では「世界に存在する様々なマークやサイン」とは一体何でしょうか。私たちは日常的にマークを生み出しています。将来の計画を立てたり、人に道を教えるときに地図を書いたり、授業中ノートに落書きをしたり、、。そのように言うと、自分はビジュアルコミュニーケーションは苦手だし絵や図はあまり書かないと言う人もいるかもしれません。しかしもっと広げて考えると、雪の上にできる足跡や、帰り道に見る自分の影、砂の上に描く文字も広い意味でのマークといえます。 目に見えるものだけではありません、例えば自分だけに聞こえる鼓動のリズムもマークです。世界と相互関係を持つ中でで意識的、無意識的に世界に生み出すマークやサインは全てドローイングの分野が扱う対象になります。このようなドローイングの考え方は私にとってとても新鮮な印象でした。生活に様々な形でドローイングのアイディアの元となるマークが潜んでいると考えると、日常が少し違って見えるかもしれません。

以下に私が偏愛するマークを紹介します。

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私のお気に入りは、私の通うアートスタジオのデスクのマークです。意識・無意識的なマークが集積しています。

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 こちらは最近別のアートスタジオで見つけた台の上のマークです

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ロンドンの街中にはガムのマークがたくさんあります。

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Mavis Nuur, The Tuners, 2005-2016 
文房具屋のテストノートもお気に入りのマークの一つです。Navid Nuur はこのマークをスケールを変えて丁寧に再現する手法で作品を作りました。

2. ドローイングはアート作品になり得るのか
ドローイングがアート作品になり得るのかというのは美術史のなかで長く議論され続けてきました。ドローイングというのは洞窟の壁画などからも見られるように人類の原始的で基本的な表現のスタイルであったにも関わらず(もしくは、原始的だからこそ)、ヨーロッパのアートの長い歴史の中でペインティングの影に埋もれアートとしての権威を持たないもの、過程でしかないもの、というように扱われてきました。(正確に言えばその中でも画家の技術の証拠としてドローイングの価値が高かった時代もありますが。)

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ラスコー洞窟の壁画

それがアーティストのアイディアを重視するミニマリズム・コンセプチュアリズムが全盛になり始めた1950年頃には、アイディアをそのまま表現できるドローイングが制作プロセスとして自然と採用されることになり、ドローイングの価値が一気に高まりました。いわゆる現代アートにおけるドローイングというのはここから始まっています。1960年以降のポストミニマリズでも引き続きランドアートやボディアートなどの試みの中で、思考プロセスまたは最終的な作品としてドローイングが採用されていきます。こういった背景の中で、ペインティングや彫刻の準備のためでしかないと考えられてきたドローイングは、それだけで目的となり得るものという認識に変わっていきました。

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Sol LeWitt , Wall Drawing #33 , 1970
drawing は数学的なシステムを使ってイメージを作ることにも向いています

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Robert Smithson: Spiral Jetty, 1970 (Great Salt Lake, Utah)

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Robert Smithsonのアイディアノート

3. なぜドローイングを用いるのか(身体性、マッピング)
ペインティングとの違いは何でしょうか。ペインティングは基本的にキャンバスを塗りつぶしますが、ドローイングの場合、キャンバスの白い部分は無視されます(概念的にないものとみなされます)。ペインティングでは描き手がどのような順番で線を書いたのか分かりにくくなっているのに対して、ドローイングの鑑賞者は線の方向性を通してアーティストの体の動きを読み取ることができます。(水彩画は、下絵の線が消されず、キャンバスが完全に塗り潰されることがない場合が多いので、ペインティングとドローイングの中間であると定義されることもあります)ドローイングの持つ特徴一つはこの線の持つ身体性です。もちろんペインティングが鑑賞に身体性を伴わないということではありません。フランシスベーコンの絵画などは鑑賞に身体性を強く意識させられます。そういう意味だとドローイングにおける身体性というのは、アーティストの身体の動きや思考の順序までを鑑賞者が読み解くことができるという意味での身体性となるでしょう。

テクノロジーの発達で身体が介入しなくても様々なことができるようになった今、アートを通して身体性を高めるということの価値があがるのは必然的です。
また、もう一つの特徴として、ドローイングはマッピングをする実験であるともいうことができます。マッピングというのは自分を含む様々物事の関係性を様々な観点から探り、選択し、ビジュアライズする行為です。世界とは何なのか、自分はどこにいるのか、関係性に仮説を立ててみるのに、もしくはすでに落ちているマークから地図を描くのにドローイングは適しているように思えます。

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JULIE MEHRETU, Cairo, 2013

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Sarah Sze, Seamless, 1999

世界には描かれていない地図が無限に存在します。また世界が認識のなかに存在するという考え方を採用すると、どこが世界の中心かは個人によって異なります。思い出のバーは、世界地図の中では見向きもされませんが自分の心の地図の中で赤い旗が立っているでしょう。個人的な物語は、認識にバイアスを与えて地図を歪めます。それが世界であるならばそれを共有したいと思うのは根本的な欲求であるかもしれません。

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Do Ho Suh, Perfect Home, 2012
彼は韓国出身のアーティストで、rubbingや糸を用いて空間をマッピングします。アメリカやイギリスに移り住む中で、空間の記憶やそれをどこまで他の場所に運べるのかということを考えているアーティストです。

ドローイングの作品にはこのような特徴がありますが、実際には作品を一概に分類するのは難しい場合が多くあります。逆にドローイング的な特徴がある作品に対して、それが例え線で描かれていない映像作品だったとしても、ドローイング的な作品だね、という使い方をされることが多くあります例えばJohn SmithのThe Girl Chewing Gum (1976)という作品は、映像作品であるにも関わらずドローイング的な要素が見てとれるように感じます。(以下のリンクから鑑賞可能です)コンテンポラリーアートにおけるドローイングとは、このように概念的な思考の道具であるということかもしれません。

糸で描く
私は自分の作品で刺繍や糸を使うことがよくあります。歴史的な観点で見ると刺繍はアートという側面で見ればドローイングと同様に長い歴史の中で地位が低く女性的、労働的なものであり、アートで用いるような地位のある技術ではないと考えられてきました。一方で歴史を振り返ると王族や貴族がが細かい刺繍の入った衣服やタペストリーを持つように、歴史的に見ると権力や権力の象徴でもありました。そのような価値の両極性は私が刺繍を気に入っている理由の一つです。

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Richard McVetis, 29 59, 2015.
彼はミニマルな刺繍を用いてモチーフをマッピングします。この作品ではアーティストの制作時間そのものがキューブの上にマッピングされています。

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Jessica Rankin, Waxing Still, 2010
彼女は詩や自分の日記に書かれた言葉、心の中で繰り返される歌詞の一部などオーガンジーの上に刺繍でマッピングします。アーティストの思考地図のように見えます。

糸は鉛筆の線と同じようにキャンバスに描くことや空間に線を引きマッピングをすることも可能です。私にとって糸を使うことはドローイングの延長です。刺繍は、アイディアを素早く描けるというドローイングの特徴が適用されませんが、鉛筆よりも圧倒的に時間をかけて線を描き鑑賞者の身体性を刺激する可能性があります。下の作品では、デスクの汚れの形や色を刺繍を用いてキャンバスにトレースしています。

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AKARI , Stains, 2019

こちらの作品では、先ほど紹介した道に落ちているガムをモチーフにマッピングしています。

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AKARI, Pavement, 2019

現代アートの中で地位が低かった刺繍 やファブリックも、ドローイングに遅れて価値が見直されており、例えば昨年のFrieze London(世界のアートギャラリーの展示会かっこ)ではタペストリーや糸を用いた作品が圧倒的に数が多く目立っていました。

<FRIEZE LONDON2019で撮影した写真>

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明日のドローイング
今世界的な時代の転換点があり、全ての分野が必然的に変わらざるを得ないポイントにいるかと思います。個人的には毎日世界の状況が大きく変化していく今、何かをマッピングしたい、という気分に正直なかなかなりません。ドローイングを通したマッピングというのは自分にとってはメタ的な実験、遊びの要素が強く、ここまで不確実性が強くなると地図を描きたいという気持ちが一時的なのか分かりませんが消えています。

とはいっても今私はちょうど以前から続けている大きな刺繍を用いた作品を作っている最中で、家に篭りながら制作を続けています。その中で自分の中でドローイングの持つ新しい意味の可能性、マッピングとは違う側面が見えつつあります。ドローイングを続ける限り体を動かし続けないといけないということです。それは千羽鶴を作ったり、誰かを思ってセーターを編んだりする行為と近いのかもしれません。結果として成果物を期待するのではなく、線を生み出す時間自体が過去を回想したり祈りの時間となる、という側面です。

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