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生産的という言葉の呪い

産休に入ってから、特に出産を終えてから、細切れに空白の時間がやってくるようになった。仕事をしていた時は、ある程度次の日の予測がついて、自分がどんな動きをするだろうな〜というのがわかっていたし、産前もたっぷり昼寝をしたり、読書をしたり映画を見たりして過ごしていた。

しかし、子どもが生まれてから、まとまった時間を確保することが本当に難しくなった。まだまだ子どもはリズムが掴めない日もあるし、うまく眠ったとしても3~4時間ごとに授乳。その3~4時間の間には自分の食事やお風呂の時間でどんどんなくなっていってしまう。そして、現れるのが中途半端な空白時間。少し眠りたいけれどあと30分くらいで授乳…、少し外に歩きに行きたいけれどその時間はなさそう…、息抜きに映画でも見たいけど絶対映画の途中で子どもが起きる…etc。何かをするには中途半端な時間なのだ。

それでも何か生産的なことをしようと空き時間に本を読んだり、自分が勉強したいことをまとめたりしてみるが、寝不足だったり、子どもが泣いたりでなかなか集中できない。子どもが生まれてから、子どもの情報以外、耳から入る情報の優先度が極端に低くなった。子どもの泣き声、寝息、うんちのサイン(ブリって音がする)etc…子どもの安全に関わる情報は目よりも耳から判断することの方が多い。授乳中や寝かしつけの時にたまにAmazonプライムを見たりするが、いつの間にか字幕がないとドラマや映画が見れなくなっていた。

夫は育休に入ってから、隙間時間を見つけては、勉強したり、している。育休に入ってから、今の仕事のことだけでなく、未来のキャリアについても彼の口からよく聞くようになった気もする。もちろん、お風呂に入れたり抱っこしたり、子育てにも積極的だ。そういう夫を大変頼もしく思う反面、ほとんどの時間を子どもと一緒に横になっている自分がたまに惨めに思えてくる時がある。いつの間にか過ぎ去ってしまう時間に置いて行かれているような気がしてくる。今この瞬間のためだけに、子どもという一瞬一瞬成長している命に必死な自分が、たまにそうでなくなると、どこに向かっているのか呆然としてしまう時がある。「自分も子どもも学び続ける環境で子どもを育てたい」と妊娠中は思っていたのにこんなんじゃ…、と自分を責めているのかもしれない。

ふと冷静に「生産的であらねば」と思ってしまう自分自身の中に『学び直し』という岸田総理の言葉があるのに気がついた。育休中の人たちの学び直しを支援する方針を明らかにした発言だが、「なぜ産休という大変な時に学び直しまでしなきゃならないのか。それより産休明けできちんと同じポジション・賃金に戻れる労働環境整備を」(ジャーナリストの長野智子氏)」などの批判が殺到した。それに対して、岸田総理は「私も3人の子の親だ。子育てが大きな負担だと目の当たりにしたし、経験もした。」として、誤解がない答弁を心がけると返答した。
こういう言葉の端々に子どもを世話するということが”負担である”という考え方が押し付けられていると感じる。子育てが負担?今の日本社会には、子育てを負担に感じるシステムしかないという今の政治に対する特大ブーメランではないか、それを子育てしている世代の努力に転嫁するとはなんて邪悪な考え方なの、と自分が子育てをする身になって強く思う。
子育てってなんの負担なの?自由にキャリアを選択することへの負担?勉強して今よりも経済を回せるようなスキルを獲得することへの負担?誰のための人生だよ。なんのための政治だよ。岸田さんが、子育てを負担だと思ったんだったとしても、世間一般の考え方として子育てが負担だ、という前提で政治に関わっているのに違和感を抱く。かなりモヤモヤする。

こういう自分も邪悪な気がするが、こういうぶつけようのない怒りの感情が自分の中にあることを認められると、自分を責めるのをやめられたりする。(トホホ…。)今私が向き合うべきは子どもで、そこに意識が全集中しているのは当たり前のことじゃないか。今大事なのは、生まれてまだ日が浅いこの命を守り、育てることなのだから。今は小さな小さな命だけど、これから大きくなって、いろいろな人と関わるようになって家族、地域、友人、社会とさまざまな共同体の構成メンバーになっていく存在なのだから。
とはいえ、自分にできることといえば、選挙に行って、今より良い社会になるための社会活動を粛々と進めるだけなのだよな、と子の寝顔を見て思う。母はこれで良いのだ。母は君を全力で守るから、身も心も健康にすくすく育っておくれ、とツルツルのほっぺを撫でると、我が子はウネウネ~と体を伸ばして、またすやすやと眠るのだった。

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