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ルイーズと森の道(仮題)―前

※無料

 世の中には幽霊を信じる者と信じない者とがある。ルイーズはその立場の上で、截然と前者の態度をとっていたが、それは単純な幽霊とは性質を異にしていた。もしも万が一、それについて踏み込んで話を聞くわけしりがいたものならば、彼はルイーズの身の周りに起こっていることについて卒然と感得させられ、理解を促させられていたはずだった。ルイーズの幽霊はルイーズ自身と切って離せなかった。そのルイーズの幽霊は人種主義者の幽霊で、白人たちの作り出した世界を憎んでいた。その際にルイーズの生みの親が小説家であり、生家の蔵書に事欠かなかったことが、ルイーズのみる幽霊をペダンティックに粉飾させていた。ルイーズの幽霊は時にニーチェ流の反キリスト思想を彼女に吹聴し、時にシュペングラー風の終末論で彼女に訓化をほどこしていた。「随分と博識な幽霊だ」、いちど病棟を訪れた実習生がルイーズからその話を聞き出した。実習生は世紀末のウィーンに生まれた幽霊に違いがない、と言ってルイーズにむけて笑ったが、ルイーズは無表情だった。それはもう一年も前のことであり、それ以後、幽霊の話をくわしく聞き出そうとする者はルイーズの前に現れなかった。少しでもその話を聞いたのならば、医師たちはみな拒否反応を示し、幽霊の言うことがルイーズ自身の言葉であるかのように、ルイーズにありふれた垂訓のひとつも与えて、それでよしとしたのだ。ルイーズの幽霊は人目を欺き、医師たちを嘲弄し、痛罵を加え、幽霊の常として実体をもたなかった。
 看護師同伴の散歩の途中で、ルイーズは隠し持った果物ナイフを看護師の胸に突き立て、クリニックからの逃走を図った。今は重たい雲の下にうずくまる山の頂上から、むき出しの岩と小岩とが波のようにルイーズの辺りまでひしめいていて、それは適切な行路をたどればなだらかに山裾へと連なっているはずであった。ルイーズは病棟の中で地図を見てそれを知っていた。そしてあとにはテラスでコーヒーを飲んだり、丸太を燃やしたり、サクランボの木々に手入れをしながら、山を仰いで天気を占う人びとの住む集落が広がっているはずだった。灰のように脆く白い石ばかりの道に、ナイフの先からこぼれる鮮血を点綴させて、ルイーズは集落にむけ歩き始めた。すさまじい強風が吹き出していたため、日脚が早く、赤褐色のはずの木々たちが、光に風に、紫色に暗く変色をして揺れていた。もっともルイーズはそれを意識もせずに済んでいた。若死にした母と、軍服を着た父の肖像写真が埋め込まれたペンダントを首から提げて、赤い木綿の帽子、着古したぞんざいな造作の服をまとい、憲兵隊、肩マント、「蜂起」、投獄、軍事政権、といった囁きかけられる幽霊の言葉に耳を澄ませていればよかったのだから、普段となにも違いがなかった。どんな文句も千も聞かされれば飽きるものだが、言葉を覚えたての童心の鮮やかさ、青々しさ、そこから連合されるある種の爽やかさを伴って、それらの言葉がルイーズの耳を搏っていた。それはいつになく激しく、海鳥の羽根がたてる羽ばたきの響きのように、ルイーズの二つの耳の間を旋回し、滑翔し、輪転し続けていた。

「お題:少女が森で遭遇する」
 十月十一日(着手同日)およそここまで

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