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映画に愛をこめて

 一年にいちど行くイタリア料理店があって、もう亡くなられたのだが、そこのシェフの師匠が、「ロシアより愛をこめて」とかについて、しみじみと語っているのを読むと、いいもんだなぁと思う。あるいは私はヒッチコックは大嫌いなのだが(「あの豚野郎」と口汚く罵ったチャンドラーの側に就くにきまっている)、そこそこ年のいった人が、そいつについて懐古的な口調でなにかを語ると、畏敬の念をもつし、映画というのはつくづく季節のものであったか、とも思う。音楽の場合には、もっとその傾向が強くなると思うが。
「ロシアより愛をこめて」に話をもどすと、これは007のなかで名作と名高いのだけれども、昔みて、私にはどうにもしっくり来なかった記憶がある。多分いまでも、同様であったか、どうか……。もっともそこには、ならばこれを私が褒めるのは生意気なのだ、という思いも陰にちらつくというか、社交場においてはそいつが一番大きい。「ロシアより愛をこめて」を好きだと云う人の前で、私のような青二才が、生意気に相づちを打っていてはならない、となるのが普通である。そしてまた、どうあれ私たちにはたとえば、「スカイフォール」がある。金髪のダニエル・クレイグが、007の終わりと、再起とを描くいぶし銀の深みがある映画で、オープニング曲もすごくいい(知り合いのバカなDJが、これいいですよね、とレコードを回しながら、五回観ましたよこの映画はとか云っているのをみて、少し株価が上がってしまった)。
 変な風にフリークスになってしまうと、俗悪な映画を好むようになってしまうところがあって、それが中原昌也のような批評精神にまで突き抜ければいいのだけれども、大抵は、駄目になる。戦争映画とか、ピンク映画とか、そんなものなにが面白いのですか、というような映画を得意げに発掘してしまうのが彼らである。そういう内向化というやつは、後代の人たちにとって得るものがないセンスではあると、そう私は思っている。
 歳をとることばかりを考えていてもしかたがないわけだが、映画とともに成長をとはさすがにいえないが、人間的成長のなかに映画館があった、それはまずたしかなことであって、そうしたしみじみとした口調や、風格は、私たちにとって、いずれダニエル・クレイグの金髪だとか、フィリップ・シーモア・ホフマンの演技に客席がどれくらい笑っていたかとか、……そうした私たちにとって新しかった作品を語る語りのなかに、宿っていくものなのだろう。もちろん、新宿のTOHOシネマズの朝のリバイバル回も、大好物なのだけれどもね。


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