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「怪談」のエクリチュール――石原慎太郎と村上春樹にみる

これは読書会のアカウントでツイートしようとしたんだけれどもどっちも嫌われ者だから……(笑)。どうにもためらわれて、その下書きをしたツイートを長くしてエディタ(おもにnote用の記事と日記につかっている)にこのかたちにしてまとめておいたものですね。

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 ふと読み返した「ハナレイ・ベイ」(「東京奇譚集」収録)に感応するあるものがあって朝から落涙した。堪えるまもなかった……。

 どちらも嫌われ者なのでためらわれるが――やはりこう並べると非常におさまりがいい、しっくりと来るんですね(石原さんのものは幻冬舎だから標題も帯も悪い。装幀もなんか前総理のステイホームみたいに……いややめましょう)。「わが人生の時の時」(これらは石原さんのことがキライな人であっても唸る羽目になるような傑作なのですが)の系譜で、新著の「死者との対話」収録の「噂の八話」だっけ、もそうなっているが、彼はいわゆる「怪談」の名手なのです。ホラー小説、とかそういうのではない、本物の怪談というものがあって、その分野では村上春樹と双璧を成すといっていい。

 「私は霊感があって……」とかいう人の怪奇現象の多くは急性ストレス障害だかと、解離―とくに気配過敏症状で説明がつくと思っている。被暗示性が高かったり、気配に敏感だったりすることをもって「霊感がある」ということなのでしょう。虐待サバイバーとしてみずから「解離」についてお勉強をしていて、当事者としての実感としてはっきりと言えるのは、そこなんですよね。概念としてはヤスパースの実体的意識性が役立つが、これはあくまでも概念にとどまるのであろうし、脳科学的に解離はまだまだ闡明されざる領域なのでしょうが、一過的に・ドラスティックな・解離現象が起こる、というのは十分ありうるというか、寧ろ幽霊やらなんやらはそれを反証をしているともいえるわけです。つまり、幽霊や天使や妖怪というのは不可知の次元にあるものではなく、文化表象の次元にある。そこにはいないなにかについて、人びとはそれをみたのだと感じ、そして感じたそれを「表現」をし続けてきた。

 本の話にもどるとこの二人の場合、霊感うんぬんとは対照的な人であるのがおもしろい。世界中を駆けめぐっていろいろなことを体験していて、そしてなによりフィジカルが強いのです。「霊感がある」とみずから言い出すような人とはまったく逆のメンタリティをもっている、過剰なまでの身体感覚をもっているがゆえにこそ、普通のひとが見過ごしている「なにか」をありありと直視できてしまう。そっちの方が少なくともテクストにされたものとしては、稀少におもいます。というよりも怪談というくらいですから……言語化をされなければなにかがあったということそのものが示されることもなく、かつ独特の書き言葉がそこには必須であったか、と知ることができる。つまり怪談というやつは解離現象のカテゴリーの他、解離現象では済まされない、純粋に論理的な成り立ちをもっている(その論理的な成り立ちというのを書くためには、ホラー小説のような水ものの文章ではない、クセのある強い書き言葉が必要なわけですが)それがあったのだということがひとまず見通せる。しかしひとくちに「論理的な成り立ち」といってもそれはにわかには理解が追いつかない、または私たちが公約数的にもっている直観の形式におさまりきらない、これはこれで御しがたい特徴があるのですが。

 ベルクソンの「笑い」がありますね。構造としてはあれとおなじことだ。ベルクソンは自らが発見をした哲学上のテクニカル・ターム、ひとつこいつを駆使すれば「笑い」について説明できるじゃないか、と着想をしたわけだろうが(実際にはどうだかは知らないとして)、そのアウトラインは間違っていた。笑いというやつも、――たとえば不釣り合いとおもいながらもなんとなく引き合いにだすと「クオリア」(ベルクソニストの茂木健一郎さんが持ち上げたりした概念ですが)とかなんとかではなく、やっぱり論理的な推移のうちに発生するものなのだと考えたほうが穏当であるし、理にかなっている。笑いが笑いとなるためにはしっかりとした論理的な基盤が必要になる。

 しかし、石原さんのナラティブは岩波の黄帯の世界ですよ、本当に。国学とか民俗学が対象とすべきテクストなのでしょうが……しばらくはイデオロギーに汚されたままでしょう(笑)。カジノの話もおもしろかった。「暗殺された友」とかほとんど007の世界ですよ、ぶっ飛んでいる。

(七・十)

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