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古い日付

 物書きなので資料なんかを探している時に、古い新聞にあたることが多い。図書館の司書に書庫に行ってもらっている間など、何十年も前の地方新聞の新聞記事などをみるともなしにみていると、平気で銃をぶっ放したりしている。勿論いまでも歌舞伎町で発砲事件などはありはするものの、わが地方市街地はへそのごまというのにもあたらない、無害な辺境なのであって、なにが悲しくてこの田舎で銃を撃たねばならなかったのか。あるいは、駅前にあった銀行にボウガンを携えた強盗が押し入った、だのという記事。最近もボウガンで家族を殺す事件が報道されたが、白昼堂々、人通りの多い銀行でそいつをやったのだから、輪をかけて肝が据わっている。といっても昔に較べて今は物騒になった――というのがある種のウソであるのは、あらためて説明する要もないだろう。ウソというか、メディアも商売せねばならないわけであって、そのためには暴力的な事件が日々起こっておらねばならず、できることならば今の世の中というやつは、かつてなくディストピアであった方が、話題のタネに困らないし、人びとは犯罪者をこき下ろすことのできるその手のニュースを、欲してきたのだ。偏向報道だなんだというのも結果としてはそうなるかもしれないが、事実は目先の需要と供給を追い求めてきてそんな風になってきた、というだけのことだろう。かつてボウガンを手に銀行強盗をした者がどこそこにあった。最近、ボウガンをもって親族を殺したバカがいた――さらに事実だけならべれば、事実は単にそれだけのことであって、それらの事実をまとめたとされる資料が満載された書架に包まれていると、不思議な心地になってゆく。それは過去なるものが、圧倒的に頼りなげである、ということである。歴史、という言葉に私たちはひとまず大上段な印象を持つが、その内実はといえば、頼りない。かつて「歴史」なるものが有機的なものとしてあったことは「現在」以外のどこにもなく、過去はすべて葬り去られ、せいぜいが郷土資料のか細い記述に残されるだけであり、その時、書物や字は圧倒的に無力である。さらにいえば「フィクション」なるものが本当に「フィクション」であったかと知るのは、そんな時であり、辛うじて残された事実をめぐる、恬淡とした記述を前に、私たちは軽々とであれ重々しくであれ、それを一つの大きな流れへと昇華してしまい、物語を、あるいは自ら物語ることさえ欲し、意味や価値のごときものさえそこに、見出そうとしてしまうのである。それは、そもそもが文化に類する営みであったか、野蛮というに値する営みであったか、……。

静かに本を読みたいとおもっており、家にネット環境はありません。が、このnoteについては今後も更新していく予定です。どうぞ宜しくお願いいたします。