祖父が死んだときのこと

父方の祖父が亡くなった。2017年の5月。

祖父とはもうかれこれ8年以上会っていなかった。葬式について親は忙しければ来なくてもいいと言ってくれたが、自分が長男ということもあり行くことにした。親戚は全員和歌山の人間で、葬式も和歌山の斎場だった。当日の朝まで徹夜で仕事をして、早朝に自宅へ戻り準備をする。特急くろしおに乗って和歌山駅へ向かった。

昼ごろ、当時和歌山の大学に通っていた弟が車で駅まで迎えにきてくれた。斎場は田舎によくある真新しい建物だった。親族の控え室に入ると、小さい頃によく会っていた親戚と顔を合わす。小さい頃お姉さんだった人はおばさんになり、おばさんだった人はおばさんのままだった。

祖母はよく来てくれたと嬉しそうに言ってくれたが、いつのまにか車椅子になっていて一人でトイレにも行けなくなっていた。昔から人工透析を受けていて体が弱く、元気だった祖父がずっと身の回りの世話をしていたようだった。そんな祖父がある日の夜、寝ている間に心筋梗塞となり、そのまま起きて来なかったそうだ。87歳の大往生だった。

葬儀の時間になり、お坊さんが入ってきてお経を唱えはじめる。お経を聞きながら小さい頃の思い出を振り返った。ただ思い出せるのは近所の公園でキャッチボールをした記憶だけだった。遺影の周りは3色ほどに花の色が揃えられた花が供えられ、配置も左右対称に並べられていた。デザインを仕事にしている僕はこの儀式の設えや流れがどう組み立てられているのかをぼぅっと考えていた。

以前読んだ本によると神社仏閣はシンメトリー(線対称・点対称・並行移動)をルールに構成されていて、安定感・安心感を持たせることによって威厳を持たせているようなのだ。たしかに葬儀壇の形も左右対称で、葬儀など数十年ぶりだった僕は葬儀のプログラム進行はどのように組み経っているのかとか、そういうことばかり考えていた。

そのうち段取り良く葬儀は進んでいったが、諸々は明らかに流れ作業的で会場・葬儀壇含め安物の素材で作ったようにちゃちだった。棺の周りにある電気コードの伸びた灯篭は、和柄をプリントした透明シートが電球のまわりをモーターでくるくると回る仕組みで、うっすらと透過された模様状の光が近くに回転しながら映し出していた。唯一棺桶だけが布張りでまだすこしマシな作りだと思った。

お経が終わり、弔電を斎場の人が読みはじめる。すべて当たり障りのないコピーペーストの定型分だった。棺桶を乗せる台にはホームセンターで売っているような大きなキャスターがついている。そりゃ担ぐには重いだろうけど、いかにも実用的な形が目についた。会場の隅のパーテーションの奥には中身の知れない荷物や業務用のあれこれが積み重なっている。葬儀の終盤、祖父がおそらく知らなかったであろう最近ヒットしたJPOPのオルゴールバージョンが流された。ずっと「それっぽさ」が溢れていて心底うんざりした。当初は上の空でこの状況を観察してただけの自分が、いつのまにか主役である祖父を可哀想に感じはじめていた。

電電公社の社員だったらしい祖父は定年退職後、晩年まで年金暮らしをしていたそうだ。葬儀にはごく近い親戚と近所の顔見知りが参列する程度のささやかなものだった。87歳という年齢と、元気なうちにポックリ逝けたということで悲しいというよりはよくやったという雰囲気が参列者に漂っていた。みな高齢なので葬式にも慣れているのだろう。棺に花を入れ終わり、いよいよ出棺となった。祖母が最後に祖父の顔に触れて「冷たい」と不思議と通る声で口にした時に、やっと会場がすこし湿った気がした。

他のいろいろも終わり、斎場の親族控室でお坊さんがお経を詠み終わったあと、お墓の敷地に卒塔婆を週1回立ててくださいと言った。宗派にもよるだろうけど、わざわざ週一回卒塔婆を立てないといけないのか。それまでの「それっぽさ」のせいで、それをする必要性がまったくわからなかった。僕は別に無神論者というわけでもないし、人間には文化として神さまが必要だったりするというのはなんとなくわかる。でも形骸化した行為だけが残ってしまっている葬式という文化はゆるやかに消えていく予感を感じたし、またその一連の儀礼に対して成り行きで大金を払っててしまう慣習を恐ろしいと思った。

お坊さんのお経が正しいのかどうかなども判断できないし、本当に有難いものなのかもわからない。ただ僕はデザイナーという職業上、流れや設えが偽物であるということが気になって、信じられなくなった。

こんなふうに他にも専門的な職業や技能を持っている人は、日々の生活の中でさまざまに気づくことが多々あって、そのギャップを感じて生きているんだろうなと思う。そして気づかない人はそれについて考えないし、仮に教えられたとしても納得いくかどうかはわからない。人間が生きている社会というのは多層的で、妥協や無知、無関心や許しのようなゆるやかな認識のが交わりながら動いているものなんだろう。

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