生存のための創作論

キナリ賞の応募要領を見たとき「あ、すげえわかる」と思った。

10万円の使いみちをウッキウキで考えていました。
このとても大変な期間に「私を支えてくれるもの」と「私が応援したいもの」に、
使いたいと思いました。

私にとって、それは「文章」です。

私は書くことに支えられて生きてきた人間だった。

家族友人知人とか社会福祉とか精神科医療とかにも支えられてきたけれど、自分で自分を支えるために私はずっと文章を書いて自分で自分を支えてきた。

私の創作物(特に一次創作)は、本質的に世界の決まりと折り合いをつけられない自分をなだめるための創作だ。

なので私の創作物が何かしらの賞に引っかかったことがあまりなく、お金にならない創作を小学校の終わりぐらいから足掛け10年ほど続けてきた。

そんな私の文章は常に独りよがりであり、理解者の少ない文章だったので常に家族からは理解されることがなかった。

終わりのない壁打ちを続けているようなぼんやりした虚無感と、どうせ理解者なんていないだろうというあきらめと、ごくまれにしか来ないいいね!を支えに創作してきた。

これは、そんな人間が10年かけて出した生存のための創作論です。

1:この文章は自分のためと割り切る

この部分はすごく大事なところだと思う。

何故なら執筆が他人のためになった時、その文章は自己治癒能力を失いコミュニケーションの道具になるからだ。

他人からのリクエストで書いた小説や交流企画の創作物は、他人を根本に置く。他人に認知され、感想や返信小説を積み重ねて、その創作物を共に作り上げる形となる。

極端な話、自己治癒が目的の創作物に他人の手が入るともうそれは凶器になりうる危険性すら孕んでると言っていい。

狭い場所に凶暴ないきものを複数押し込めば喧嘩になるあの理屈だ。

では創作を通したコミュニケーションの利点はあるのか?と言われれば、私は「あるよ(田中要次声)」と即答する。

それは全く違う環境にいる他者を同じ舞台に引きずり込めることだ。

一つの創作物を作る過程を通してひとと相手と交流できる、というのは大きい。あらかじめ「その創作は他者との共有物だ」と割り切っていればトラブルなっても対応できる。

逆に言えば自分の創作物をほかの創作者と共有しない、ということを明確に定義づけしておけばその創作物は完全に自分のためのものになる。

したがって、自己治癒のための創作物は誰のものでもなく自分のためのものだと思い込むことがポイントになる。

では思い込むために何が必要か。

2:置き場所ごとに意味を決める

これはモノの整理整頓に似てると思う。

例えばぐちゃぐちゃになった机を整理するとき、どこに何を置くかをまず決めるだろう。机の上の真ん中は空けておき、右奥に本棚を置いて書籍・ファイルを置く、その隣には筆立てを置いて筆記用具類、引き出しにはノートパソコンのコードやSDを収納する……という感じだ。

それと同じように自己治癒のための創作物を置く場所は一つの場所に置いておくといいと思う。

置き場所を固定することで「ここに書いて置いてあるのは自分用だから」という明確化ができ、多少読みづらさを非難されたところで気にならない。

私は長年ブログを自己治癒のための創作物置き場としているが、一番いいのはパソコン・スマホのメモ帳のような「すぐに書ける」「すぐに読み返せる」「他人に攻撃されにくい」場所を推奨したい。

逆にSNS(特にイラスト主体で最近UIの改悪著しいpixiv)はあまり推奨しない。他人の攻撃にさらされるリスクや、見てほしくない人に見つかるリスクがある。

SNSに創作物を置くのは創作をベースにした交流や見てほしいものを置くための場所だと思ったほうがいい。

ちなみに、ブログ・サイトの場合は見てほしい人・わかってもらえそうな人に見てもらって共感を得るという自己治癒療法にも活用できる。

この辺りは人によるので自分に合ったものを検討してほしい。

3:自分にやさしい創作物を作る

言葉の暴力というように、言葉は人を傷つける。毒にも薬にもなるもので自分を癒すことを創作の目的とするのなら、その創作物は何よりも自分の優しいものであったほうがいい。

自分の理想や人にされたかった事を創作によって自分に与えなおす工程や、上手に話し言葉として語ればいさかいのタネになることを創作と言う箱に収納することによって、私は自分を癒し世界と折り合いをつけてきた。

どうせ私のためのものなのだ、自分にやさしいものでいいのだ。

父親に言ってほしかった言葉を語らせよう。

母の代わりに仮想の姉に頭を撫でてもらおう。

失恋したならその悲しみを誰かに託そう。

誰も文句を言わないので、自分の優しいモノを作ろう。そうして作り続けたものは、私の歩いた軌跡になって、遠い未来の自分の肥やしになる。

おわりに

ここまで自分なりの自己治癒目的の創作について語って来た。

ところで、私は自分の創作物を家族や友人知人に見せたことがあまりない。

中学生の時私の書いたものを読んだ父親に「お前の書いてるものは一人よがりだ」と言われたり同様のことを中学の知り合いにも言われたため、すっかり他人に見せることが怖くなった。

そのあたりから「自分の創作物は自分のためのものである」と割り切り、自分で世界との折り合いをつけるために創作してきた。

もしかすると「この創作は自己治癒のためのもの」という事自体が一つの言い訳であったのかもしれない。

けれど、自己治癒目的で書いたものに救われてきた自分もいるのだ。

話せないことを何度も存在しない他人に託した。

自分がされたかったことを代わりにしてくれる人を描くことで自分を慰めた。

どうしても納得のいかないことに一緒に苦しんでくれる友を創作して、自分と仮想の友とふたりで結論を模索した。

この生存のための創作論が、誰かの役に立ちますように。


あっ、分からない部分は必要に応じて追記するのでご連絡ください。