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ふいの永遠はそこに

春から小社をお手伝いしてくれる出射優希さんが、写真集『あたらしい窓』/木村和平 に寄せて書いたテキストです。


『あたらしい窓』は、開くたび私にとってあたらしい驚きと発見をくれる。
本を手に入れると、一度読んで本棚にしまったままになることも多いのだが、この本は定期的に開くので、いつまでたっても埃をかぶることがない。

    オールドな風合いの装丁とフィルムの粒子、自分次第でいつもあたらしく感じられる内容が相まって、ページをめくりながら、ちいさな永遠に落っこちてしまったような、不思議な気分になる。

 この感覚を昔から知っていた気がして記憶を遡ってみると、小学生の頃に行きついた。あの頃、机の並ぶ教室で、家族とテレビを見る部屋で、スーパーの駐輪場で、不意にすごく遠い場所に来てしまったような気分になった。意識だけが肌の一枚内側に縮こまるような、春の陽気の下で冷たい風に肌を撫でられるような、喧騒のなかで眠ってしまうような。時折、そういう感覚に見舞われた。

 これを書き出す今の今までずっと忘れていたのだが、そういう感覚に「寂しい」と名づけてしまう前、幼い私は重たそうな扉を頭のなかの暗闇に思い浮かべた。そして、扉を越えればもうこんな思いではなくなるのだと信じてドアノブを回し、不意に訪れた感覚から逃れようとしていた。


『あたらしい窓』を手に取ると、こんなとりとめもない、しかし実は大切だったのかもしれない感覚を思い出したり、あらたに発見したりする。写真を見つめ、そして最後に撮影者の言葉を読み、あぁそうだったのか、となんだか腑に落ちてしまう。

 たとえば今だったら、きっと幼い頃の自分は「間に窓があるみたいに、見えるのに触れない。」という感覚を、その遠さを、はじめから知っていたのだろうと腑に落ちる。それを寂しさと名づけてきたけれど、実はそれも悪くないとも思っていたことも。写真を経て最後の言葉まで読んでみると、知らぬまに適応してきたものごとへの再解釈が進んで、ぴったり心身によりそうのである。

 最先端みたいな意味合いの新しさは、ほとんどいつも時間に回収されて古びてしまうけれど、『あたらしい窓』のもつあたらしさは、こちらの目に、思考に、委ねられている。こちらが日常の隙間に生まれたふいの永遠に身を置く準備ができていれば、いつだって発見があり、長い話ができる本だ。

 この言葉を書きながら写真集をめくり、今一番気になってしまうのは、バスに乗ったおばあさんの後ろ姿の写真だ。なにをもってこの写真に映る人を「おばあさん」だと思うのかはわからないが、彼女の陽に照らされた豊かな髪は、別の写真に現れる少年の姿も思い起こさせる。性別も年齢も(おそらく)異なる存在が、私自身の無意識の判断によって限りなく近づいてくるのだ。それもある意味ふいの永遠と呼べるのかもしれない。そうした、説明のつかない不思議さを、あたらしい本を開くように、何度でも新鮮に見つけることができる。

 これは少し前に、たった今小学生の頃の記憶が立ち上がったのと同じように、『あたらしい窓』をめくっていて気がついたことだが、私は長い話がしたいと思っている。長い話に飢えている。

 前に進んでいくだけではなくて、螺旋階段のように時間を重ね、同じところを行きつ戻りつしながら、はためには停滞にも見える、自分にとってのあたらしさを見つけられるような、他愛のない話をしたい。
 でもそんな話はなかなか人とゆっくりできなくて、だから写真集があってよかったと、ままならない、わかりそうにない、だからいつも古びない存在があってよかったと、心底そう思う。

(出射優希)


写真集はこちらから。


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