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とあるクリスマスの思い出

ジングルベルが鳴り響き、マライアキャリーと山下達郎と竹内まりやがローテーションするこの季節になると思い出す一つのエピソードがある。
小学生の頃だったと思う。前年のクリスマスにスーパーファミコンのナイトガンダムが欲しいと手紙を書いて寝床についたところ、次の日の朝枕元にあったのは歴史に残るクソゲー「ガンダムF91」で、タイトルとは裏腹にF91は全然出てこないわ、戦うのはザクとかドムとかズゴックといったロートルだわ、画面が半分くらい英語で小学生には理解不能だわ、散々だったため、サンタクロースへの不信感を募らせていた。

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我が家ではクリスマスの何週間か前にサンタさんに欲しいものを手紙に書いて送ることになっていた。しかしその年は違った。不信感を持っていた小学生の僕はサンタさんへ挑戦することにした。「手紙を書かなかったら何をくれるのか」と。
どうしようもないガキである。どうしようもないガキが大人になると、どうしようもない大人になると身をもって証明してしまった感があるが、僕の子供がそんなことを言ったらぶっ飛ばすか何もあげないかそのレベルである。(しかし僕の子供だからそう言い出す可能性はある)

そして迎えた12月25日の朝、枕元に置かれていたのは…

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スーパーファミコン版「あしたのジョー」だった。
これも同時代のストリートファイター2やドラゴンボールの格ゲーに比べるとなかなか粗削りな、いわゆるクソゲーの部類にカテゴライズされるゲームではあったが、しかし、それはそれで自分の無理難題に対する答えなのだから、その答えの意味を今度は僕が考えて見出す番になったのだ。

しかしながら当時の僕は「あしたのジョー」を一ミリも知らない。たまたま家の書斎にあしたのジョーのコミックスの最初の数巻があったので読んでみた。ドヤの不良少年がボクシングを知り、それをきっかけにプロボクサーとしてスターダムにのし上がっていく、そういう話だった。ゲームもその流れを再現しており、少年院編は割愛されているものの、力石の死とその克服、海外選手との対決、帝王ホセとの死闘の末のあの賛否分かれるエンディング。

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ゲームとしては発展途上、子供には受けない(世代的に)キャラゲーだったが、なんとなく熱さみたいなものは伝わってきた。今考えればめちゃくちゃふざけた子供だと思うが、そんな子供の答えのない無理難題に自分が子供の頃に熱狂したもので答えた父の真摯さは大人になった、そして親になった今だからこそよくわかる。子供でいた時、そして大人になっても、親のあの時の選択や行動がわからないままということは割とあるが、自分が親になって考えてみると、最善であるかどうかは別にして、ちゃんと考えて向き合ってくれたんだなと実感することが多い。子供の立場からだと親は絶対だとか超人だとか不死身だとかそういう風に思ってしまうが(少なくとも僕はそう思っていた)、全然準備もないまま親として放り出されて手探りで子供と向き合ってたと考えると、わからないなりに親をがんばってやってたんやなと思う。(そしてそれを子に見せないようにするのも仕事なんだなと)自分が親になる楽しみは親との関係が親子の関係だけではなく、子育ての先輩後輩になるところもあると思う。自分でやってみてこんな大変でしんどい中やってきたのに一人で大きくなったような顔してたわごめん、みたいな。もちろん時代の変化で変わったところもたくさんあるけど、心構えとか基本のところは変わらないから、すごく虚心坦懐になれるよね。お互い話しやすくなると思う。先輩へのリスペクトが生まれるから。

ごめん何の話だっけ。僕の子供がかつての僕のようにクリスマスプレゼントに何も書かないできたらどうしようか。(僕の子供だからその可能性は十分ありうる)そしたらどうするか。自分の熱狂したものを送るか。いや、カタログギフトを送るか。あるいは選ばないと何も貰えないということを教えるか。そういうことを考えている。






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