アルカの零落
「お前の見ている夢ぜんぶ、 ですか?」
最も重要なのは、最も崇高であるのは、僕の中の『私』が死んでいって、美しくも軽快な幕引きを迎える事です。
僕は、ぼくの終わり方以外に何の関心も無く、孤独であることは聡明だという持論を脳味噌に押し込んでいる、臆病な正常分子だ。
ハイ・ファンタジーのように壮絶で派手な苦しみが欲しいとすら、自分に我が儘を説いている、悲しきただの人の末端。
メーデー、めーでー、僕は何にもなれずに立ち止まっている。虚妄による奈落の底にて、お前を深淵から掴んで、こわしてしまいたいと考えている。
=
ぷつり、と何かが自分から切り離されて透明になる。
その様子を硝子越しに眺めていた。目の前の事象に他人のような心地がしていて、ぼくは其処でようやく、他人はおろか、自分自身にすら大して興味が無かった事を分かる。
切り離されたのは、感情だったか、意思だったか。一度も理解することの無かった、透き通った極彩色を放って落下していくそれは既に曖昧になってしまった。他人様のように美しくは無かったけれど、確かな事なんてどこにも埋葬されていないと知っていたけれど、ぼくにも必要なものであったことは確か、だと感じた。
=
ジーィ――――イ――ッ、ジ――――イイ――ッ、…………
明け方、ぼくを叩き起こしたのは、電話の呼び出し音だった。
窓のない部屋を何処からか満たす青白い光は時々、思い出したかのように点滅をして僕の不安感を増長させる。
過去と記憶ばかりが充満した六畳間。
頭だけが異様に重い。脳味噌は常時、鼓動に合わせてハンマーで殴られているし、目の奥はズキズキと擬音が実際に聞こえてきそうなくらいに圧迫されて苦しい。時計を見ると、2時間も睡眠をとっていなかった。音が鳴り止むのを待って、昼頃まで寝てしまおう。
しかし、どうしたって、こんな時間に電話をかけてくるのだろう。僕に別の国に住むような友人はいないし、先ずこのご時世に電話だなんて変だ。いまの世の中、泥沼のようなインターネットの末梢神経に絡まった、得体の知れない連絡手段なぞ腐るほどあるじゃないか。
…………。
ジーィ――――イ――ッ、ジ――――イイ――ッ、…………
「夢野久作か……」
かつて愛読していた作家の名とその文学作品、頁と頁、一字一句から溢れていた、手に取るように襲ってくる狂気を思い出す。読了したかは覚えていない。
こんなにずっと見つめられているような音だっただろうか。電話の音は、もっと軽快で艶やかな音だった気がする。小説の中では、確か時計の音だったな…。とも考える。否、確かこの部屋では、そんな擦り込みの常識はあまり関係ない、と誰かが言っていたような。
着信拒否だけでもしよう。眠れないことは死活問題だ。誰だってそうかもしれないけれど、僕は眠ることでしか生を成せない不良品だから余計に駄目なんだ。時々、手土産も無しにフラッと顔を出す隣人のように、睡眠という魔術はやって来る。嫌悪感は無いけれど、恐ろしくて、でも救済の鎖を僕の身体中に巻き付けては、母胎のような心地よさをもたらした。
棺桶のような寝台から、標本の生物さながら縫い留められていた身体を無理やりに起こし、音がする方を目指す。青白い光は、辺りを照らすには頼りない。己の足元も見えないものだから、這うようにして進まなければいけないのだった。
次第に耳を劈くように変わっていく、奇妙な音。僕には無い、独立した意思を持って脳を揺らす。
これを止めれば、僕の精神は朝まで安泰だ……。
伽藍堂になっている精神世界の奥底まで、呼吸を止めて潜って行く。
=
『……本当に?』
「ヒィッ……」
どこからか声がした。
ざらついた、首を絞めたような息が喉から漏れる。喉が痛い。どうしてだろう……。
本当とは、どの嘘の裏側を指しているのだろうか。
『ちょっとぉ……自分で電話取っておいて、その驚き方は無いでしょう?』
「は……」
『だからぁ、君は君の意思で受話器を取ったんだよね?勿論、私からの電話ってことを確認してから』
「え、ぁ」
僕は声がする方を見た。僕の、左側。
手に握られた、受話器。僕は、僕の知らない内に電話を取っていたのか。
おかしい、僕は電話に出るつもりは……。
『もしもし…………、もしも~し……ねぇ、聞こえてる?』
何とも形容し難い、この誰か声は、古ぼけた電話の受話器を通して聞いているとは思えない程、生々しい質感で鼓膜へ響いてくる。
返答を急かされて、どう応えて良いものか分からず緩慢な口吻で喋ってみる。
「き、きこえ……てる……けど」
『全く、どうしたの?この前まであんなに元気だったのに、急に居なくなっちゃってさ』
「この前って」
『2、3ヶ月前』
そう言われて、声の主が僕をぼく以上に分かっていることに驚いた。その声…彼女に生憎覚えは無かったが、僕は過去の『僕』を知る彼女を、勝手ながら親しい隣人だと認識し始める。嘘かもしれない、という考えは無かった。ここ何日……いや、1時間前のことだって覚えていないのだから2、3ヶ月も遥か遠くの話をされても全く記憶にないが、心なしか腑には落ちていた。
「知らないよ」
『知らない?自分のことなのに?』
「……自分のことは、覚えていないものだよ。自分と他人なら、どちらに興味が湧くかな、君」
『それは言い訳?……まぁ、私はどちらも好きだけれど』
「答えになってない」
彼女のノラリクラリとした答えに、眠気と溜息を噛み殺した返答をすると、何故か楽しそうに笑われる。
電話というのは、奇妙な速度で生活を侵食する。時間や音、僕の頭までもが汚泥に引きずられて抜け出せなくなる。僕は電話が嫌いであることを、思い出した。
『まるで息を殺して三文芝居をしているようだ……と君は言った。私に』
「僕……が、君に?」
『その様子じゃあ、どうせ覚えていないだろうけど。つまるところ、君には私が下手くそなくせに、せっせと他人様のご機嫌取りをする道化に見えたということでしょ?』
「ふぅん……」
僕が他人に批判的な言葉を面と向かって投げたことがあっただろうか?と首を捻る。空洞になって軽い脳味噌がサラサラと音を立てるような感覚に内皮が蠢いた。
受話器を手にしてまだ1分と時間は経っていないだろうが、既に吐き気を催している。ドレッシングをかけていない生の葉菜類を咀嚼した時と同じだ。青白い部屋の光さえも黒に侵食されて視界の中心に追い込まれていく。もう寝ても良いだろうか。
『眠ってはいけないの』
彼女が姿を変える。
正確には、僕がそう思っただけに過ぎないが兎も角、全く別の脅威にクルリと変身した。
「……どうして」
『眠って、全部、忘れる御積りでしょう』
「違う、」
『眠って、みるのは、何の夢だっけ』
「し、知りません」
不意に、何かを暴かれるような錯覚がして受話器を耳から離そうとする。しかし暴かれるものなどないので本当に錯覚だった。精神世界を薄く長く引き延ばしたその先、未知の高層ビルの屋上の淵、一歩後ろは燃え盛る泥梨。ぼくは何かに、確実な死に際を図られている。それは妄想ではなかった。
『逃げる御積りですか?』
逃避、逃避、逃避、…………ぼくはそれでしか生きていない。他は何も必要ない。いつか10では足りない沢山の罰を連れてくると理解している。
ぼくは罪。理解している。でも、罪は、誰になるのか、ぼくには分からない。分からないことが多すぎる、分からないことが、どうでも良い。快楽なんて甘いものではない、全ての事象は僕を擦り抜けて干からびて、現実にパッケージされる。帰ることのない現実は少女の頃に憧れて手放さなかった不思議の国に良く似ている。足元に巨大な穴を幾つも用意していて、常識というコンテンツの中では喋らないモノが奇妙なことを捲し立てた。僕のせいで誰かの首に縄が括られて飛んでいく背景を眺め続け、そうして大人の形になってしまう。感情は好みの味がする銃弾で撃ち落とされて地に根を張った。こちらを、覗いている。
眼球。
人の目を模した妄想。
わかっている。
「ぼくは、空っぽなので、居ても、だめだと思います。良くないですよ」
所詮、良い冗談だ。
『……そう』
電話の向こう側の人間は、非常に残念そうな声を漏らした。
ここで電話線が嫌な音を立てて切れた。
それで終わりだ。
=
青白い光と寝台と古い電話。横たわる空白だらけの人間は、僕という何の変哲もない生き物。しっかりと五臓六腑に血を通わせながらも、空気から薬まで人工物でしか息が出来ない人間様の端くれ。
いつもと変わらない景色で目覚めた。いつも、というのが何かは知らないが、寝て起きることは必ず生活に組み込まれているらしいので、きっと目が覚めるのはいつものことだと思う。
寝台から身体を起こし、冷たい床を踏む。
足元で、柔い果物を潰した音がした。足の裏が生温いものを引き摺っている。僕の身体は未だ夢の中の感覚を教わったまま反芻して、逃げ続けていた。
他人に感化された憂鬱と、呪い、あとは、酔い、とか。まるで僕の物のように大事にして貪り食べた。
そう。
いま僕の隣に横たわる、黒くて空っぽな屍体は、この舟に乗り込んですぐに全てを撒き散らして死んでしまった。蛹のような夢だけがいくら焼き尽くしても怪奇小説を構成する活字の如く鮮烈に四肢に色付いていて離れなかった。だから胎児と対峙と対話と電話を巡る馬鹿らしい話を毎晩、過食気味な意識に差し出された。
舟は6畳しかないと思われる。もしくは僕の目がそれ以上の空間を認識できなかったかだ。
外はまだ夜を映している、朝も夜を徘徊している。つまり、もう一生は夜しか拝めないような現実ばかり。青白い光のみが朝であり、昼であり、夜でもあった。
零落した舟、堕落した僕。
この文字の掃き溜めが、何の意味を成しているかも罪と罰の傾向と同じ程度で分からない。ただ同じ言葉を繰り返し、脈絡もなく抽象ばかりを振り回しているのが常々馬鹿らしいと思いながらも、全く負の感情は抱いていなかったのだ。
誰にも理解されないことを目的としていた。
或いは、凍り付いたような幸福だった。
僕が見ている夢が全部、透過された現実であるなら、逃亡した先の終末的な楽園は存在しなかったという訳だ。洪水神話もなかった。また息をする上で余計な選択をして時間を当ての無い旅をするかの如く使い果たしてしまう。
一つとして肯定できない。
僕の人生、人格、この身体。周りの人間、あらゆる時間と空間。その全てが思いの外、道徳的であれと教わってきたよりも冷たいこと。
ジーィ――――イ――ッ、ジ――――イイ――ッ、…………
窓枠を外した。きっとあなた方が思っているよりも、この窓枠は元より自由だった。僕はお前が思っているよりも不幸ではないし、お前が思っている程、生活に蝕まれて磔にされてもいなかった。
墜落した空が眼前に、勿体ないくらいに目一杯、広がっている。そう、助けられたりしなくても、このまま僕は融解されていく。
黙示的な感情と、吐き出されては形骸化した命の断片。しなやかなで薄く細い生命線とその曲解。安らかに眠ることが一生の目的になっていた。ただ少し愚かだったのは、あの時、『 』を殺してしまった僕の内側の啓蒙と、痺れを伴った左手。
空と同化しているのは脳内に仕舞われていた筈の、焼け落ちた色をして真っすぐで薄く伸びた地獄。人生は地獄よりも・・・というあの言葉を、未だに信条としていて、最後まで文字に雁字搦めにされている自分が甚だ孤独なように思えた。
しばらくすると、ぷつり、と音をたてて切り離された僕という人間は、ただ単純に空へ、落下していく。
こればかりは、自身の虚妄でも幻術でもなく、まともな現実だと思い知った。