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短編小説「花が散る前に、一つ」(『ゆめのかけらたち』収録作品)

 花は、いつか散るからこそ美しい。最初にそう言ったのは、誰だったのだろう。
「晴之さん、こっちこっち」
 華奢な手で僕の手を引いて、円花はこの博物館の奥、鉱物が展示された場所に足取り軽やかに歩いていく。
「そんなに急がなくても」
「だって、早く晴之さんに見てほしくって。ほら、綺麗でしょ? 自然の中でこんなに素敵なものが創り出されるなんて、なんだか神秘的よね」
 円花は腰を屈めてその水晶を覗き込んだ。
 僕は、得意げにそう語る彼女の横顔ばかりが気になって、水晶ではなく、隣の彼女をじっと見つめてしまう。
「綺麗だ」
「でしょ? ……って、晴之さん、どうして私を見てるの。展示を見てよ」
「うん、見てるよ、ちゃんと」
 本当に? と不満げに頬を膨らます彼女の耳が、ほんのりと色づく。それがなんだか可笑しくて、僕はふっと笑みを漏らした。
 ふと、円花が体を起こして立ち上がると、おもむろに僕に背を向け、数歩歩いてから立ち止まった。
「……晴之さん。私がいなくなっても、どうか思い出してね」
「な、なんだよ急に」
 円花は振り返って、儚げに微笑む。その姿が段々と薄れて、靄が掛かるように視界がぼやけていく。
 手繰り寄せるように手を伸ばして、名前を叫んだ。
「円花……!」

 伸ばした指の先に、見慣れた天井があるのに気付いて、僕はようやくこれが夢だったと気付いた。
「また……同じ夢……」
 体を起こすと、仏壇の上にある、笑顔の妻の写真と目が合う。
 円花は、二年前の結婚記念日前日、僕と二人の幼い息子を残し、交通事故で亡くなった。職場に行く途中でのことだった。
 何かを訴えたいのだろうか、なんて邪推してしまうほど、近頃よく、この夢を見る。学芸員だった円花の職場である博物館に、二人で出掛けたときの夢だ。
「結婚記念日が近いからか。深い意味はない。だって円花は、もういないんだから」
 僕は息子を起こさぬようゆっくりとベッドから降り、仏壇に手を合わせる。
 二年前送るはずだったペンダントは、包装されたまま仏壇に供えられている。中身がどんなものだったか、もはや思い出せなくなったその箱の淵を、ゆっくりとなぞった。
「んー……おとうさん……」
 そのとき、隣で寝ていた長男の空太《そらた》が、まだ眠そうな声で僕を呼んだ。
「空太、おはよう」
「おはよ……」
 空太はのそのそとベッドから降りて、僕の隣で仏壇に手を合わせた。
「おかあさんも、おはよう」
 その姿に、きゅっと胸が苦しくなる。
「……ねえ、おとうさん。おかあさんは、今どこにいるの?」
「そうだなあ。お母さんは、空の向こうでお星さまになって、空太と海斗を見守ってくれているよ」
 今年五歳になる息子が、円花の死を理解できているのかわからず、無難な答えを口にする。
 空太は何かを察したように、そっか、と呟いた。
「ねえ、ぼくと違って海斗は、おかあさんと、あんまり一緒にいられなかったんだね」
「……そうだね」
 海斗とは、今年三歳になる下の息子だ。彼女は、海斗が産まれてから一年経たずに亡くなったのだ。
「……お母さんに、会いたいなぁ……」
 ぼんやりとした顔でそう呟く空太が、あまりに不憫に思えて、父としてなにかしてやれないものか、と僕は少し考える。
 ふと、今日の夢に出てきた、彼女が勤めていた博物館が思い浮かぶ。そういえば、まだ二人を連れて行った事はなかった。
「そうだ、今日は博物館に行こうか。お母さんがお仕事していた場所だよ」
「はくぶつかん?」
「空太が好きな恐竜の化石なんかもあるよ」
 空太は目を輝かせた。
「きょうりゅう!」
「海斗もきっと喜ぶね」
「うん! 楽しみ!」
 にこにこ笑う息子につられて、ふふっ、と笑みが漏れる。
 彼女にはもう会えないけれど、彼女の思い出ひとつひとつを、三人で大切にしていこう。 それだけが、妻を失った僕と、母親のいない二人にできることなのだと、自分に言い聞かせた。

 その日の昼過ぎ、僕は白い軽自動車に子供たちを乗せ、博物館へと向かった。
 館内に入ってすぐに、巨大な恐竜の化石が僕たちを迎えた。
「わあ、恐竜だ!」
 空太が目を輝かせた。
「きょうりゅ! きょうりゅ!」
 海斗が舌ったらずな声で繰り返す。
 ああ、こんな感じだったな。僕もここに来たのは数年ぶりで、最後に来たのは結婚前だったはずだ。大きなリニューアルなどはなかったようで、展示はほとんど当時のままに残されていた。
 彼女がどういう風に話していたか、思い出して僕は語る。
「これはティラノサウルスというんだ。恐竜の中でもとても大きい種類だね」
 空太がにこにこして僕を見た。
「ティラノ!」
「そう、ティラノだよ」
「てらの!」
 海斗も舌足らずに繰り返した。
「あれはトリケラトプスで、……」
 記憶から捻りだして、僕は説明をする。そういえば、円花は自分の専門ではない展示についても、驚くほど詳しく語ってくれた。
 ああ、ここに彼女が居たら良かったのにな、などど、叶わないことを考えながら、僕は標本をぼんやり眺めていた。

 恐竜のフロア、宇宙のフロア。その他諸々の場所を巡って、辿り着いたのは、彼女の担当だった鉱物のフロアだった。
 二階へ向かうエスカレーターを登りきったその時、ふいに目の前に現れたその姿に、僕は目を疑った。
 華奢な肩と白い肌、知的に光る鳶色の瞳。
やってきた僕たちに気づいて、振り向いたその顔を輝かせる。
 紛れもなく、紛うはずもなく、確かに恋い焦がれた人がそこにいた。
「ようこそ、鉱物のフロアへ」
 そこに立っていたのは、亡くなったはずの僕の妻、その人だった。
「円花……?」
「晴之さん、空太、海斗、ようこそ。これから私がこのフロアを案内しますね」
 花が香るように、彼女はふわりと笑った。
「だれ?」
 海斗が僕の背後から顔を出す。
「──お母さんだよ」
 茫然とする僕たちの前で、彼女は少し寂しそうに笑った。
「ごめんね、空太、海斗」
 どうしても会いたかった。彼女は小さく呟いた後、
「さて、鉱物のフロアを案内しましょう」
 少し強がるようにそう言った。

「これはトルマリン。色々種類があるけれど、これは鉄電気石といって、熱したり擦ったりすると静電気を発生する性質があるの」
 彼女は入ってすぐにある、黒く光る筋の入った、柱状の結晶を指差した。
「とるまりん?」
 空太が首を傾げた。
「初めて聞いた!」
「宝石としてのトルマリンは無色、紫色、青色、緑色、黄色、褐色、赤色、ピンク、黒色などたくさんの色があるのよ」
 ゆっくりと丁寧に言葉を並べながら、彼女は別の鉱物の方へ移動する。
「これはアクアマリン。海の水という意味の鉱石ね。アクアマリンは、エメラルドと親戚のような関係なのよ。エメラルドは有名よね、隣にある緑色の鉱石よ」
 アクアマリンは、海の水というよりは、誰かの涙のように見えた。
「きらきらー!」
 海斗は目を丸くして鉱石を眺める。
「こっちはルビー。ダイヤモンドの次に硬い宝石で、……」

 時間は瞬く間に過ぎ去り、フロアを巡って、最後に辿り着いたのは大きな水晶の前だった。
「……夢で出てきた、水晶だ」
 ところどころ紫色に染まっているそれは、切なくなるほど透明で、確かに神秘的なほどに綺麗だった。
「私のお気に入りの鉱石よ。水晶はね、何かが混じると、紫や黒、あわ入りなどになるの」
「きらきら!」海斗が目を輝かせる。
「きれいな色、おかあさんみたい」
「えっ、私?」
 驚く彼女に、空太ははにかんだ。
「ネックレスの色といっしょ!」
 確かに彼女の胸元には、淡い紫色の雫型のペンダントが光っていた。何処かで見たことはあるような気がするが、彼女はこんな首飾りを持っていただろうか?
「本当、一緒だわ」
 彼女は頬をほんのりと薔薇色に染めた。
「ありがとう、空太」

 紫水晶が、鉱物のフロアの最後の展示だった。
「今日は本当にありがとう」
ずっと待っていたの。彼女は涙声でそう言って、目尻を拭った。
「楽しかったよ」
「ぼくも、ぼくも!」
 空太がにっこりとそう言って、海斗はぴょんぴょんと跳ねた。
 円花は二人を優しく抱きしめた。
「ありがとう、ありがとう、大好きよ、空太、海斗」
 そんな三人を見ていて、僕は胸が締め付けられる思いになった。
 この時間が永遠だったなら。
 そんな願いが叶わないことくらい、頭では分かっているのに、願わずにはいられなかった。
「円花」
 花が散る前に、一つ、伝えたい事がある。
 彼女は二人を放して、その澄んだ瞳で僕を見つめた。
 先程彼女が子供たちにしたように、僕はそっと彼女を抱き寄せた。
 愛している、と囁くと、彼女は強く抱きしめ返して、私も好きよ、と応える。
 ゆっくりと、彼女は僕から離れ、そっと耳元に囁いた。
「引き出しの中を見てね」
 僕は何だかよく分からないままに頷いた。
「みんな大好きよ。さよなら」
 呆気ないそんな別れの言葉を残して、彼女は靄の中に消えていった。

 瞼を開けると、そこは鉱物のフロアの休憩所だった。海斗と空太はすやすやと眠っている。
「夢……?」
 それにしては、内容を鮮やかに記憶しすぎているような気がする。
「んん……おはよう……?」
 首を傾げたその時、空太が目を覚ました。
「おはよう、空太」
「あのね、おとうさん。おかあさんに会う夢を見たよ」
 どきりとした。同じ夢?
「おはよう、空太。偶然だね、お父さんも夢で、お母さんに会ったよ」
 違う、夢じゃない。確かにあれは、彼女だった。本物の、彼女だった。

 家に帰って、子供たちも寝付いた頃、彼女の引き出しを漁る。いや、漁るまでもなくそれは見つかった。
『晴之さんへ』
 淡い桃色の花の咲く封筒には、達筆な字で僕の名前が書かれていた。
 そっと開くと、中には一枚の便箋に、丁寧に記された言葉が並んでいた。
『拝啓
 桜が咲き始める季節になりました。
 いつもお世話になっております。
 貴方との出会いも、嬉しかった貴方のプロポーズの言葉も、幸せはいつも春とともにやって来ましたね。今年は海斗も産まれて、私は幸せで仕方ありません。全部、貴方のお陰です。本当に、いつもありがとう。晴之さんと出会えたことが、何よりの幸福です。
 愛しています。
 敬具』
 結婚記念日の贈り物だ、と気づいた。
 涙がぽろぽろ、気づかぬうちに流れて落ちた。僕こそだ。僕こそ、世界一幸せだった。円花に出逢えたことが、僕の何よりの幸せで、失った今でもそれは変わらない。愛している。誰より大切だった、僕の花だ。

 仏壇の前で手を合わせる。
 ふと、渡せなかった首飾りが、箱から出されて備えられているのを見た。彼女の好きなアメジストの、雫型のペンダント。
ああ、そうか。彼女の胸元に光っていたのは、これだったのだ。
 一度拭った涙が、また零れ落ちた。

 この日の奇跡に、僕はそっと感謝した。

 (了)

*この作品は、2018年にWebにて公開したものに加筆修正を加えた、掌編小説集『ゆめのかけらたち』収録作品です。

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