King Gnuの特異性について思うこと

2年ほど前から、勤めていた会社でもリモートワークが始まり
日がな一日、部屋でJ-WAVEを流している日が増えた。
最近、特に気になるアーティストもいないし、
バックグラウンドミュージックとしてちょうどいいのがラジオだったのだが、
ある時期から、「特異な」曲が耳に残るようになった。
その「特異な」曲が終わると、
「キングヌー、白日でした」
「キングヌー、傘でした」
と曲紹介されるパターンを認識し、「キングヌー」の曲はどの曲も聴くだけでキングヌーのそれとわかるようになった。
ここまで来て「キングヌーって何者?」と気になり、ググった。

King Gnuとは2019年1月にメジャーデビューした日本の4人組ロックバンドで、
デビュー1年目にして昨年の紅白歌合戦に出場、2020年1月に発売された最新アルバム「Ceremony」は、Billboard JAPAN の2020年上半期総合アルバムチャートにて首位を獲得している。
そして私にとって最も衝撃だったのは、
メンバーのうち、全ての楽曲の作詞作曲、ギター、ボーカル、総合プロデュースを手がける常田大希が、東京藝大の15年後輩だったのだ。

15年前の藝大の音楽学部には、「こういう類の人」は私の知る限り1人もいなかった。
藝大に集まっているのは、
小さい頃から音楽一筋で日々努力を積み重ね、
手に怪我をしてはいけないと体育の授業も球技の日は見学、
放課後お友達と遊ぶのも我慢し、まっすぐ帰宅して最低でも6時間は練習に明け暮れ
神童の名を欲しいままにしてきた努力と才能と運の結晶のような、(そんな自覚に不足のない)メンツばかりだった。
悪くいえば、どこか習い事の延長のような、クラシック音楽以外は相手にしてない人たちでもあった。

それが、である。
J-POPの世界でヒットチャートを席巻しているバンドが藝大の、しかも中でもお堅いチェロ出身?
(しかも、超イケメン・・・。)
私の理解を超えていた。

King Gnuの音楽のどこが特異なのか。
音楽理論的に説明しようとすれば、できなくない気もする。
同じ音を複数の音色で重ねていく響きの分厚さ、
メジャーセブンスや代理コードを多用したコード進行、
えげつない転調の多さ、
ゴーストノート含め、無意味な音を極力排除した洗練されたハーモニー、等。
一方で、こうした通好みな楽曲であるにも関わらず、J-POPのロックバンドというスタイルを受け入れることにより、マスにも受ける分かりやすさ、懐かしさ、エモさを両立しえている。
歌詞も、青すぎず、お洒落すぎず、スッと心に入ってくる。

しかし、音楽理論で楽曲を分析するだけでは不足だ。
King Gnuの特異性に表れる彼らの本当の存在価値は、ロックバンドでありながら、全くロックバンド的ではない点にこそある。

4人のメンバーはそれぞれ、ロックとは畑違いのシーンにいた。
ボーカルの井口は、藝大声楽科でオペラを歌っていた。
先述した常田は幼少期からチェロ、ピアノ、ギター、ドラムなど様々な楽器に親しみ、クラシックの世界で日本のトップクラスの実力を持ちながら、大学時代からジャズやクラブシーンで活動を始めていた。
ベースの新井もジャズ畑。
ドラムの勢喜もR&Bやラテン、三味線バンドなどで活動していた。

ロックといえば、学生時代から勉強そっちのけでバンド活動に明け暮れ、歳をとっても一生ロックで食ってくぜ、ばりの一途さが典型だ。

でもKing Gnuは、一生ロック、どころか、たまたまロックをやっているに過ぎない。
King Gnuのデビューしてからの全楽曲を聴いてみると、
いわゆるロックもあれば、昭和歌謡的な曲あり、アコースティックなジャズの要素あり、
オーケストラの要素あり、最新アルバム「Ceremony」にはチェロを主体としたストリングスメインの曲が3曲収録されている。
(また、常田はKing Gnu以外にもmillennium paradeという別のグループも主宰し、実験的な音楽活動を繰り広げている。)

King Gnuは、自らを「トーキョーミクスチャーバンド」と名乗っているが、
彼らの音楽を表す既存のジャンルはない。
ジャンルを超越することで、ジャンルをぶち壊した。
ぶち壊すことで、ジャンルに意味がないことを証明し、全く新しい音楽の境地に至ろうとしているのだ。

ミュージシャンがジャンルの壁を飛び越えたり、跨いだりすることは稀である。
ロック歌手がジャズをやったり、
クラシックのプレイヤーがR&Bをやるのは見たことがない。
油絵画家が漫画を描かないことや、
サッカー選手がラグビーをやらないのと同じと言えば同じで、これまではそんなの当たり前のことだった。
ジャンルによって、材料やテクニック、方法論、ルールが全く違うのである。
加えて、ミュージシャンがジャンルを超えない理由として大きいのは、
メンタリティにあるのではないかと思う。
クラシックの音楽家が他のジャンルを無意識に「下」に見るように、
ジャズのミュージシャンもジャズ畑の中と外を明確に分けたがる。
自らのアイデンティティをジャンルの中に強く確立しすぎるがゆえに、排他性が生まれ、ジャンルの壁はますます高くなる。
それは、ミュージシャンでありながら、ジャンルが変わるだけでミュージシャンとして全く通用しないことに対する自己防衛の表れでもあると思う。

そんな中、King Gnuは、「でもさ、音楽は音楽じゃね?」と自由にジャンルを行き来するのだ。
彼らを見て、他のミュージシャンが戦々恐々するとしたら、それはまっとうな感覚だと思う。
(実際、氣志團の綾小路翔は、King Gnuの「Ceremony」を聴いて、「初めて引退しようかと思った」とコメントを寄せている)

それぞれのジャンルの中で成熟したことにより、ある時期から音楽は停滞していった。
特にJ-POPは、世界の中でも特異的に停滞している。
マーケット規模は1998年を頂点に減少し続け、ヒットチャートには同じような楽曲が並び、先端的な音楽やそれを志向するアーティストは市場から締め出されるようになった。
例えば、J-POPでは、「Aメロ、Bメロ、サビ」という固定的なフレームを前提とした音楽を自覚的に量産してきた。そうでなければ売れないというのが業界の常識だったし、実際そうだったのだろう。
常田はあるインタビューで、「そもそもサビとかダセェと思ってた」と語っているが、
一方で、「でも日本で売れようと思ったら、『サビは大事だ』、と米津くん(米津玄師)に言われ、なるほど、と思って受け入れた」とも語っている。

彼らが音楽のジャンルを節操なく越境し、
マスにもコアにも届く新しい音楽を生み出せるのは、
才能や技術に裏打ちされた圧倒的な実力を兼ね備えていることに加え、
彼らの「開いた」感性にこそ理由があると考える。

おそらくKing Gnuは、停滞する音楽をアップデートしようとしている。
ロックという形でマーケットインに成功した彼らだが、今後は彼らの本当にやりたい音楽、つまり既存のフレームを逸脱した音楽を遅かれ早かれ繰り出してくるだろう。
彼らの試みが成功するか否かは、聴きである我々が、理解を超えたものを排除するのではなく、「開いた」感性で受け入れられるかどうか、にかかっているのかもしれない。












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