見出し画像

咲かざる者たちよ(第十三話)


 高熱にうなされ、既に一週間が過ぎていた。喜多山は吐き気と眩暈に襲われ、朦朧とした意識の中にいた。
 部屋の食料も底をつき、とうとう水しか残っておらず、喜多山は揺れる意識の中幾度も繰り返し水を飲んでは吐いていた。
朝日が赤く射した部屋に一人、白か透明かとも言える粘性の高い汚れた吐しゃ物を目の前にして伏した喜多山は、心から「死」を望み、その思いが全ての思考を支配した。死ねればどれほど楽だろうか、生きることとはなぜこんなにも苦痛なのか、と眩暈と頭痛を激しく鳴らし声にならぬ声で叫んだ。この世界で喜多山に残された唯一の希望は、「死」であった。喜多山には、死の中にさえ光が見えた。

 -光?ふと、喜多山の脳裏に独り言のような言葉がこだました。孤独な日々に生きる自分にとって光など初めからこの世に存在しなかったのでは、と喜多山は思いを巡らせていると、烏賊焼き屋の老店主がかけてくれた労いの言葉や、喜多山のことを気にかけてくれた言葉の数々。
喜多山は「…あった。」とぼそりと呟いた。あの店主とのことばには包容や愛があった。喜多山は理屈として言葉にすることができないまま、自分の凍りついた心がじわりと溶け始めるのを感じ、その温もりと喜びを感じていた。そして再び喜多山は、自分の死をもって他者に、心にこびりついた悲哀と虚無を認めてもらうため、過去の出来事を手帳に記す決心を固めた。



 喜多山は意を決して痺れる身体に鞭を打ち、玄関までずりずりと床を這いながら進んだ。ドアノブをひねった瞬間、支えていた体重が制御を失い、勢いよく扉が開き、無様に廊下に倒れ込んだ。しかし、このままあの非常階段を上り、屋上から下へ真っ逆さまに転落さえすれば、この汚れた孤独な自分を終わらせられる、そう思うと喜多山は不思議と力が湧いた。
喜多山はそのまま夏の朝の冷えた空気が身にしみる中、這い進んだ。

 屋上に続く階段を今、ゆっくりと、羽根をもがれた虫のように地面に這いつくばりながら階段を上った。ふと、這う喜多山の目にきらりと光る橙の粒が映った。鼻が触れるほどに近づいて見ることにより、見慣れたとばかり思い込んでいた非常階段の表面には、朝日に煌めく無数の砂粒や細かい錆が散っており、それをまじまじと見た。喜多山はごくりと唾を一飲みし、少しの間それを指でなぞってみた。
そのまま視線を徐々に上へと向けると、それは階段全体に広がっていた。喜多山はそれを見て、自分へ残された一筋の光である「死」への華道のように感じ、ふっと一瞬笑みを浮かべ再び這い進んだ。
 気がつけば屋上にまで上り、喜多山の胸ほどの高さしかないフェンスに指をかけると、力一杯身体を引き上げようとした。一度踏み潰された蟻のように頼りなく脚を震わせながら顔を金網に密着させた。金網に指が食い込み先端が白くなっており、まるで地面そのものを持ち上げているかのような重量が喜多山を引っ張った。
 フェンスの頂上にて、自分の体重を向こう側へと移動させる際に喜多山の目にぎらりと陽が射した。喜多山は目が眩みバランスを崩し、そのまま向こう側へと落下した。まだ屋上の端までは一メートル程度距離があるにも関わらず、ふと喜多山から湧き出た恐怖によって金網を全身で掴もうと全身に力が入った。その拍子に、破れた金網の鋭利な針金が喜多山の穿いているズボンを突き破り大きく裂けた。すると太腿から一直線の真っ赤な血が静かに流れた。喜多山は痛みに顔を歪ませながら、あと少し進めばこの痛みからも、この世界からも、過去からも解放されると思うと、まるで水を求め地を跳ねる魚のように屋上の縁へと進んだ。喜多山はコンクリートの屋上の縁に手をかけて重たい身体を引き寄せ、胸まで屋上の外へと放り出し、下を見下ろした。その時、喜多山の顎から涙と涎が混じった透明の雫が落下した。落ち行く雫の中に、反転した屋上からの景色を鮮明に見た。それはすぐに風に煽られ、不規則な軌道を描き遥か下の景色へと消えていった。遥か下に不気味に揺れる藍色の花を見た途端、喜多山の背中と尻に寒気が走り、ぴたりと喜多山の動きが止まった。屋上の縁にかけた指に力を入れて、あとほんの十数センチ身体を引っ張るだけで希望を叶えることができるにも関わらず、喜多山の指と腕は恐怖により無意識に力み、行き場を失った虚しい力が石のように強張り、進むことができなくなっていた。喜多山は身体に神経を研ぎ澄ませ、込み上げる吐き気と高熱をありありと感じ直し、再び身体をぐいと引っ張ろうとした。しかし頭では理解していても、恐怖により力が入りきってしまい、血管が蔦のようにしなやかに浮き出た腕は、制御不能となり微動だにできずにいた。息を止め全身に力を入れると、目は充血し、顔全体が薩摩芋色に変わり唇から情けなく垂れ下がる涎がふるふると暫く揺れ続けた。
 やがて喜多山は息を破裂させ、投げ出していた上半身を引き上げてごろりと二回転ほどし、フェンスまで身を戻してしまった。すると喜多山は自分の情けなさ、無様さ、不憫さに苛まれ涙が込み上げてきた。嗚咽とともに低い声と高い声が交わる交わる空に虚しく響いた。「おばあちゃん…。」と一言だけ泣きながら言うとそのまま暫く横になり、青空に嗚咽が小さく消えていった。


 死に遅れた蝉の鳴き声がまばらに響き渡る、真っ白な夏の終わりの日差しの中で、喜多山は目を覚ました。気を失ったのか眠っていたのかは定かではない。目覚めた後もただぼうっと仰向けになって空を眺めていた。自分に唯一残された希望を叶える資格も勇気もなかったという現実に、心が虚しく空っぽになっていた。しかしやがて、喜多山の思考は次第に空腹感に支配されていった。重い身体を起こして部屋へ戻ろうと再びフェンスに指をかけようとしたその時、先ほど見た、電柱のそばでひっそりと揺れる藍色の花が、突然喜多山の記憶に蘇った。喜多山は振り返って戻り、ふと屋上から下を見た。それはコンクリートの道の隅に、孤独に一輪、静かに揺れていた。喜多山は暫くその花を見て再び踵を返し、フェンスに指をかけ部屋へ戻った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?