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咲かざる者たちよ(第十四話)


 喜多山はよろよろと階段を降り、部屋へ戻った。二時間ほど経ち少し身体が軽くなった彼は、草履を引っ掛ける足元から気だるい音を鳴らし、商店街へと向かった。朝の商店街にはぞろぞろと人が集まり始めていた。ふと烏賊焼き屋の場所を見ると、朝はまだ店を開けていないようで、少しの荷物と色の無い屋台の枠組みが寂しく佇んでいた。地面に目を移すと、長年同じ場所で烏賊焼き屋を営んでいるせいか、屋台の形を囲うように地面のタイルは黒ずんでいた。その黒ずんだタイルは母がまだ幼い頃に祖母に手を引かれ店主と話し烏賊焼きを買っていく姿も、老いた祖母の手を引き歩く喜多山の姿も、そして今日たった一人とぼとぼと喜多山がやって来る姿も知っているようだった。そのタイルは、まるで喜多山たちの歩みを見守る古い証人のようだった。暫く佇んでいると空腹に腹が鳴り、喜多山は商店街を後にした。

 喜多山はスーパーで買い物を済ませ自宅へと戻った。俯いたままゆっくりと歩きながら帰る喜多山は自宅前でふと、一輪の花が小さく揺れているのに気がついた。それは屋上から見えた花であり、藍色に蕾んでいた。喜多山は少しの間だけ足を止めてそへをじっと見つめ、再びすぐに階段を上っていった。
 その日の夜、喜多山は、もし祖母の墓を立て、そこに花を活けるなら何がいいかと考えた。祖母と行った花屋の記憶を思い返してみた。しかし当時は、ただぼうっと祖母の手を引いていただけであったため、祖母と行った花屋で祖母がどんな色の花を買って、店員と何を話して、一体祖母がどんな花を好いているかさえ知らず、喜多山は当時の自分を心から悔いた。
 時間が経ち、随分と身体が軽くなった喜多山は後日再び花の前へ立ち、揺れる花を眺めた。たった一輪で、誰かに踏まれそうなほど弱々しい姿でありながら、花弁は緑から藍へと優雅に蕾んでおり、その凛とした佇まいはまるで静かに、孤独へ抵抗しているようだった。喜多山は自分の姿をその花に重ねていることに、ふと気づいた。その花も、友も身寄りもおらずたった一人孤独に、ただ死を待ち続けていた。「お前もか…。」と、喜多山は自分にすら聞こえぬ声で呟いた。と同時に喜多山は思った。「(お前もただ枯れ、孤独に死を待つだけの自分と同じ境遇にいる。しかし、全てを受け入れるように健気に生きているその堂々たるや、まるでわたしのような卑屈な者へ憐れむように、じっと立っているようではないか。)」

 喜多山は、祖母が他界して以来初めて花屋へ向かった。ゆっくりとドアを開けると、ため息が出るほどの冷気が身を包み、コロンコロンと木製の風鈴が温かな音色で出迎えてくれた。広くない店内の天井からはうっすらとギターの音色が聴こえてきて、喜多山は、家の前で見つけた、藍色に蕾む花の名を聞きに来たことをしばらく忘れて店を見回った。すると、奥の部屋から三十代であろうの女性店員が鉢を抱えて現れ、喜多山の目を見て優しく微笑みかけてきた。落ち着いた栗色の髪をふわふわと浮かぶように揺らし、ゆっくり無駄のない動きで仕事をしていた。喜多山は「あの…。」と声をかけた。静かな店内に流れるBGMよりも小さな声が響くと、店員は反射的にこちらを振り返り「…はいっ、何でしょうか?」と手に持つ植木鋏をエプロンのポケットに入れながら喜多山がいる方へと近づいて来た。その拍子に、彼女から漂う清潔感溢れる花の香りが喜多山を包み込んだ。喜多山は、初めて女性を真正面に見たため、吃るように「花の…名前が…知り…たい、です。」と目を泳がせて低く掠れた声で言った。しかしその店員は「あら、そうですか。どんな花ですか?…色とか…。」と笑顔で応えた。その拍子に店員のエプロンの下に着ている黒いブラウスの首元から、糸ほど細いネックレスがきらりと光を放ったのを喜多山は見た。「むらさき…いや、青………。」と首をほぼ真下を向けて吃る喜多山に、その店員は優しく、「写真とかありますか?」と尋ねた。美しく上がった語尾のアクセントが喜多山の心を掴んで離さなかった。

 喜多山はいつもより早足でアパートへと帰った。部屋へ入るや否や机の隅に置いてある手帳の新しいページを開けた。その時一瞬祖母の死について書かれたページが見えそうになったが、できるだけ見ないようにしてペンを手に取った。
 喜多山は集中した眼差しで、流れるようにその花の絵を描き上げた。描いている途中何度も一階へ下りてその花を見に行った。その花は、見る度に生命力が増していくようだった。夕方になる前には描き終えたが、喜多山はその花の絵に色がなく味気がないことが気になり居ても立っても居られなくなり、再び草履を引っ掛け、そのざりざりとした音がだらしなく廊下に響いた。



 電車で三駅の町には昔ながらの文具屋があった。木と畳の匂いが店内に満ち、常に微かなひんやりとした空気が漂っていた。喜多山は祖母とその文具屋へ行ったことを思い出しながら、奥行きのある店の中ほどにある色鮮やかな絵の具が並んでいる棚の前に立っていた。手帳を開いたまま、あの独特の藍色を求めていた。青でも紫でもない、静かな海の底を思わせる深い藍色を、手帳の中の花に塗りたかったのだ。
 気がつけば喜多山は棚に付属している梯子に登り、少し上の棚にまで手を伸ばして絵の具を探していた。取り出しては開けてじっくりと色を見て首を傾げてはまた棚に戻し、梯子を横へ動かし再び箱を開けて絵の具を探すのであった。
 文具屋の店主が「すまんが、にいちゃん、もう閉めるよ。」と遠くで言い、シャッターを閉めようとしていたので喜多山は仕方なく店を出ようとした。店を出ようとしたその時、カウンターの側にあった絵の具に喜多山が探し求めていた藍色の絵の具を見つけた。「…あのっ、これ…。」と掠れた小さな声で言った喜多山の顔を見て、その店主が少し迷惑そうに中へと入ってカウンターへと入った。「これいいやつだよ。にいちゃん絵描きさんか?」と店主はレジ計算をしながら言った。喜多山はその藍色の絵の具の値段が想定以上の高価な絵の具で驚いた。もう一つのカウンターに置こうとしていた緑の絵の具を急いで元の棚へと戻しに行った。

 藍色の絵の具を持って電車を降りた喜多山はふと空を見上げた。普段俯いてばかりいるせいか、顔を上に向けると首の筋肉に少し痛みが走った。
 久しぶりに見上げた空や雲や太陽が澄んだ色をしてゆっくりと混ざり合う様子しばらく見上げた。喜多山は心の中で「(さぁ、色を塗ろう。)」と言い聞かせて再び歩みを進めた。その途中、花屋の女性店員の栗色の髪から漂う香りと、首元で光る細いネックレスの記憶が蘇り、喜多山の歩みは自然と速くなった。

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