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咲かざる者たちよ(第二十五話)



 息子が寝静まった後の暗い部屋で、眞島は進まないペンを握りしめ、何度も何度も手紙を書き直した。その間無意識のうちに深いため息をついていたことに気がついた眞島は、少しの間文章を考えることを止め、疲れた身体を少し前に傾け、肘をついてゆっくりと息を吐き、閉じた瞳の裏で夕方の喫茶店での一幕を思い浮かべた。喫茶店で流れるメロウなギターの音色、壁時計の秒針が刻むリズミカルな音、そして緊張していた喜多山の表情と息遣いを思い出しながら、そのまま木のテーブルに体を預け、静かに眠りに落ちた。

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 眞島は夢の中にいた。花屋の窓越しに、彼女の目は喜多山の姿を追っていた。いつものように、喜多山が立ち上がる瞬間を見計らって、眞島はエプロンを脱ぎ捨て、足早に彼の後を追った。しかし、何故か夢の中では、喜多山は人けのない細道を選び、速い足取りで突き進んだ。眞島は曲がりくねった道の中で何度も彼を見失いそうになった。そして、最終的には名を呼んで走って追いかけた。すると突然細い道を抜けた。そこは見慣れた商店街だった。

 細い道から商店街へと出た眞島は人の気配が全くない商店街に違和感を覚えた。眞島の目に映っていたのは、ただちかちかと光るネオンの孤独な輝きだけだった。商店街の奥に先ほどまで追いかけていた喜多山の姿が見えた。トンネルのように暗いアーケードを突き進む喜多山の背中は、小さく、そして遠ざかるばかりだった。息を切らせ追いかけても、その背中にたどり着く気配はなく、気づけば眞島は真っ暗なトンネルの中にいた。眞島は不安になり振り返った。遥か後方遠くには、誰もいない商店街が小さく見えた。
 突然、その商店街の中に人影が現れた。その人はきょろきょろと誰かを探しているようだった。眞島は驚きで足を止め、眞島は声をかけようとした。しかしその姿をよく見ると、それは喜多山を探していた、つい先程の自分自身だった。混乱した眞島は再び前を向くと、喜多山の姿は消えていた。それでも眞島は歩みを止めることなく、闇の中で切れる息だけを響かせながら、ひたすら喜多山を追い続けた。

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 眞島は目を覚ました。それほど長くない眠りだったが、身体が痛むほどこわばっていた。目を開けると、そこには夫が立っており、手には手紙が握られていた。先ほどの夢世界から急に切り替わったこの目の前の現実に眞島は動揺し、混乱を覚えた。
「『昨日は非常に楽しい時間を過ごさせていただきましたわ、喜多山さん。駅までご一緒していただきとても嬉しかったです。』…何だよ…これ。」夫はリビングの灯りを背に、ほりの深い顔に影を作って手紙を見ていた。
 眞島は急いでその手紙を取り返そうとするも、瞬時に高く手を挙げられてしまった。背の高い夫のその手はほぼ天井にまで達していた。
「返してよ!」
と眞島力強く言い、夫の服を掴んだ。すると「何だよ。ここ最近ずっと様子が変だと思ったら…。そうか、春人に対して強く当たってるのも…そういうことだったのか。」とまた心無い言葉を浴びせた。夫はいつも眞島が一番言ってほしくないことばを選んだ。眞島はか細い手で拳を作り、まるで扉を叩くように、分厚い夫の胸板に拳を数回叩きつけた。しかしあまりにも体格が違うせいか、夫はびくともしなかった。そして夫はそのまま手紙を何度も目で追いながら読み返していた。
「こっちは夜遅くまで汗水垂らして働いてるってのによ。お前は他の男と仲良くデートか。…はぁ、お前な、春人も言ってたぞ。『お母さんは僕のこと嫌い。』って。」夫の口からはまるで、蛇口を捻り、出てきた水のように眞島への心無い言葉が出てきた。眞島は泣きながら「あなだだって…!」と声を荒げて言ったものの、これまで夫の不倫に気が付いていないふりを続け、何も言うことなく、証拠を自分の手で捨ててきたことを思い出すと、声を荒げながらその場に泣き崩れてしまった。
「明日、いや今日だ。俺は知り合いの弁護士に相談する。不倫はもちろん、普段の春人に対する暴力も全部言ってやるよ。」夫の言葉は、部屋の奥へ消え去るとともに、重く響き渡った。
 眞島はそのまま動くことができずただ泣いていた。


 翌朝、息子が小学校へ急ぐ間際、眞島は「(これが最後になるかもしれない)」という重たい思いが頭をよぎり、息子を強く抱きしめ見送った。しかし息子は「もう、時間ないってば。今日は当番なんだから」と言い、素っ気なく離れていった。誰もいなくなった部屋の玄関でまた眞島は泣き続けていた。

 リビングのテーブルに腰掛け、茫然としていた眞島は、涙をこらえた赤くなった目を伏せていた。自らが喜多山とのつながりを求め、石段にわざと眼鏡を置いたその時から、二人の関係は始まってしまったのだ。眞島は自分の過ちを悔いる一方で、喜多山への愛情も拭い去れないでいた。眞島はもうすっかり喜多山を愛してしまっていた。部屋に吹き込む風がカーテンを優雅に揺らす中、眞島は静まり返った空間を見渡し、心に固い決意を抱いてペンを手に取った。そして、ためらうことなく、誘いの言葉を率直に綴り始めた。「喜多山さん…」と呟きながら、再び項を垂れて床に額をつけ、嗚咽を漏らした。


 夕刻を過ぎ、ゆっくりと店の鍵を閉めた眞島は、扉の前でしばらく立ち尽くしていた。昨晩夫に吐きつけられた乱暴な言葉が、まだ眞島の心に鳴り響いていた。ため息をつきながら頭を上げた眞島は、扉のガラスに映る自分の姿を見た。手で、鈍く光るベルベットのコートを撫で、今日喜多山と再び会うことを決意したその瞬間を思い出した。眞島はその扉の窓を鏡代わりにしてもう一度優しく口紅を塗った。ふと、窓に映る後ろの景色に焦点を合わせると、そこに喜多山がいた。眞島にとって喜多山が全てだった。振り返ると、大きく息を吸って歩き始めた。

 眞島は喜多山の姿を白銀に光る世界で見つけ、全ての悩みがその光に包まれ消え去るのを感じた。町の雑踏も音もなく、ただ喜多山だけがそこにいた。眞島は昨晩見た夢を思い出した。追えどその姿を見つけられぬ夢。
 眞島は「やっと…見つけた…。」と呟きながら、彼の前に立った。眞島の世界は他の何者も存在しないかのようで、二人は静寂の中、喫茶店へと歩き始めた。秋の知らせを運ぶ肌寒い風が眞島の頬を叩いた。突如、喜多山の指が自分の指に触れた。瞬時に眞島は驚いて手を引いてしまった。しかし、すぐに喜びに満ち溢れ、喜多山の手をしっかりと握り返した。二人の指は複雑に絡み合い、それはまるで風に舞う紅葉のような美しい紅色に見えた。

 喫茶店の時計はまもなく十八時四十分を指そうとしていた。二人は言葉もなく、ただ互いを見つめ合っていた。約束の時間が迫るにつれて、二人は何も言わずにテーブルの上で手を強く握り合った。喜多山の冷たい手と長い指に、眞島はまるで蔓が巻きつくようにしなやかに指を絡めた。
 その後、二人は静かに店を後にし、駅までの道をゆっくりと歩いた。眞島は喜多山の腕をしっかりと抱え込むように掴んでいた。喜多山の着ていた、滑らかなコーデュロイの袖が美しく茶褐色に光り輝いていた。
 駅のベンチに腰掛けた二人の間を列車の到着を告げる踏切の音が断ち切るように鳴り響いた。眞島は、今握りしめる喜多山の手を離せばすべてを失ってしまうのではないか、という感覚に襲われた。その瞬間、眞島はもう一方の手で、二人の絡み合う指の隙間に手紙を滑り込ませた。喜多山は、その手紙と共に眞島の指を強く握りしめ返した。

 地を鳴らしながら近づいてくる電車の音に合わせて、眞島と喜多山はゆっくりと指の力を抜いていき、肘から爪の先まで撫でるようになぞり、手を離した。眞島は、喜多山の細かく波打つコーデュロイの袖の肌触りを、心の奥底に刻み込んだ。

 喜多山から引き離された眞島は、電車がプラットフォームにゆっくりと進入するのを見ると現実に戻され、涙があふれ出た。喜多山に背を向け一歩一歩遠ざかる眞島は、涙と嗚咽に歪む顔を見せることができず、ただ前を向いて雑踏に揉まれ続けた。涙はベルベットのコートの表面を弾き、静かに地面に消えていった。


 小学校に息子を迎えに行ったところ、すでに息子は夫とともに帰ったと聞かされ、胸騒ぎがした。空には大地を覆うような厚い雲が流れていた。
 家に着くと、異様な静けさと不穏な暗闇が玄関窓から覗いていた。眞島の心臓はこれまでとは異なる冷たいリズムを刻んでいた。鍵を開けて家の中に入ると、誰もおらず、テーブルの上には夫の乱暴な文字で書かれた置き手紙があった。『弁護士に相談済み。春人と実家へ。』
 眞島は自暴自棄になり、メイクを落とさずにソファに倒れ込み、「喜多山さん…」と呟きながら泣いた。やがて疲れ果てて眠りに落ちた。

 翌日、約束の時間が過ぎても喜多山は現れなかった。


 -そう、眞島は全てを失っていた。

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