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咲かざる者たちよ(第二十四話)


 深夜の静かな洗面台で、眞島は足の傷から靴下に滲み出た血の跡を、静かに洗い流していた。洗い終えるとそれを洗濯機へと入れた。洗面台の電気を消そうとした時、ふと鏡に映る自分の姿を見た。少し髪を手櫛で整えながら、眞島の心はあの青年の面影に寄り添っていた。 
「(あの人の澄んだ目-。)」
 そう思うと眞島はふと眼鏡のことを思い出した。眞島は青年との繋がりを欲するあまりに踏み切った行動の軽率さを悔いた。
 しかしすぐに、
「(あれでよかったの。)」そう自らを励まし、眞島は美容液やクリームで潤った顔を両手で軽くぴしゃりと叩き、暗闇に包まれた寝室へと足を進めた。


 翌日、眞島は花屋へ続く横断歩道を早足で通り過ぎ、石段へと急いだ。自分の目線の先にある石段に、傘をさしながら、祈るようにそっと近づいた。
 するとそこに眼鏡はもうなかった。少し周辺を探したが見つからず、花屋へと向かおうとしたその時、近くにある木の壁に何かが挟まっているのを見た。それを手に取るとそこにはこう書かれていた。

『眼鏡拾いました。雨が上がったらまたここに置いておきます。』

 眞島の鼓動は速くなった。その振動が耳から胸へと駆け抜け、胸前で垂れる髪が拍動に合わせて揺れた。眞島は手紙を握りしめ、抑えきれない喜びの笑みを浮かべながら、花屋へと足を進めた。
 雨は数日降り続いた。


 家事を終えた眞島は、夫と息子が静かに眠る深夜、リビングで橙色の便箋を広げていた。そして、あの青年の筆跡が見て取れる手紙を、便箋の隣に並べて置いた。
『ありがとうございます。そこへ置いておいてください。』と書いた。眞島が顔を上げたとき、目の前に、クリーニング済みでビニールに包まれた夫のジャケットが目に留まった。ふと眞島の脳裏にラメがキラキラ光るジャケットの襟がよぎった。すると、手紙の文字をゆっくり消して、
『良ければ木曜日の夕方にそこでお待ちになってくださいませんか?』と書き直した。


 止んだばかりの雨と共に涼しさを運んできた秋の気配が、周囲に静かに広がっていた。眞島は駅から石段へと早歩きで一直線に向かった。そこには確かに眼鏡が置かれていた。それを眼鏡ケースにしまうと、昨晩書いた手紙を、また同じ木の壁に挟み込み、逃げるように花屋へと向かった。
 その日も眞島は窓の外ばかりを見ていた。窓越しに石段を見つめる間、青年を待つことが眞島の心に長い間眠っていた情熱を呼び覚ました。青年と出会ってから眞島の日常は煌めいた。ショーケースの中で静かに佇む花々、まだ乾かぬ地面の水溜り、流れる厚い雲たちは、周囲を黄金色に染め上げるかのように輝いて見えた。
 やがて青年が現れた。彼が石段に近づき眼鏡がないことを確認するや否や、すぐに彼の視線は木の壁へと移った。眞島の鼓動は再び素直な律動を失い、鳴り響いた。青年は手紙を手に取ると石段に腰掛けてそれをじっくりと読んでいた。その瞬間、眞島は大きく息を吸い込み「…よし…。」と呟いた。

 青年が石段から立ち去るのを見計らい、眞島はさっとエプロンを脱ぎ、看板を『準備中』にひっくり返して、急いで横断歩道を渡った。道を渡り切ると、眞島はさりげなく歩みを進め、青年の後をこっそりと追った。青年は商店街へと向かうとそのままスーパーへ入っていった。眞島は商品棚の陰に隠れるように彼を見続けた。
 その後青年が再び石段に座るのを見届けると、真島は足を転じて店に戻った。眞島はエプロンを着直して窓から青年を見るとため息をひとつついて仕事に戻った。すでに眞島の心にとって、石段、商店街、スーパーは、まるで二人だけの秘密の場所となっていた。
 眞島の心の奥で、青年への情熱が以前にも増して激しく燃え上がっていた。


 翌朝五時すぎ。眞島は洗面台に立ち、いつもより念入りに顔を洗い、数種類の化粧品を塗った後、鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。その顔は、あの青年の目に映っていた純粋な表情をしていた。目尻には、夫からの心無い言葉や、最近言うことを聞かなくなった息子へのストレスが、ひとつひとつ皺となって刻まれていた。
 青年と、店員と客という関係を超えて、店の外で会い話すのは今日の夕方が初めてになるだろう。キッチンに立ち、食材を並べていると、無意識に鼻歌を歌っていることに気づいた。眞島は年甲斐もなく浮き足立つ自分を恥じた。静寂の中に響くまな板を叩く包丁の音は、まるで踊っているかのようだった。


 眞島が店へ向かう途中、石段に落ち着かない様子で座る青年が目に入った。眞島はわざと彼に気付かないふりをして、その場を通り過ぎた。
「(もし今日が約束の日でなければ、わたしは、きっと偶然を装って話しかけていたかもしれない。でも今日は、夕方、ここで会う運命にあるのよ。だから、それまでは…。)」と眞島は心で思い、横断歩道を渡り店に到着した。
 その日も眞島は窓から青年を見つめ続け、仕事に集中できなかった。


 日が落ち、時計の十八時を告げるチャイムが店内で響き渡った。眞島は鏡の前で化粧をさらに整え、淡い色の口紅を唇にそっと滑らせた。窓越しに石段を見下ろすと、青年は依然として手帳を眺めながら待ち続けていた。
「(ずっと、ずっとそうして待っているのね…。もうすぐそちらに行くから、待っていて…。)」と心の中で青年に呼びかけると、眞島はそっと指輪を外してポケットにしまった。

 店の鍵を閉じた後、眞島は胸の中で激しく鳴り響く鼓動を鎮めるため、深く息を吸い込んだ。ゆっくりと横断歩道を渡り、石段へと足を進めた。青年を目の前にして「(まだ引き返せる-。)」と一瞬の迷いが生じた。しかしそよ風が二人の髪を優しく撫で、青年が顔を上げようとしたので、すかさず眞島は声をかけた。
「あの、眼鏡、ありがとうございました。」
 そう眞島が言うと、青年は平常心を失って戸惑った様子を見せた。眞島の言葉は青年の心に深く刺さり、感情を揺さぶった。
 昨晩何度も書き直した手紙を青年に手渡した後、二人は近くの喫茶店へと歩き出した。その道すがら、眞島の心は期待で一層熱くなっていた。
 眞島は、まるで、これまで自分の血液が石のように凝固していたかのように、身体中の血液が強く脈動しながら巡るのを感じた。
「(もう、戻れない…。)」
そう思うと、何かがぷつりと切れる音が眞島の心に鳴り響いた。すると自分でも驚くほどに、するすると言葉が出て、表情に力が抜け自然な笑顔でいられた。
「き、喜多山、です。」
 眞島が名前を尋ねると顔を赤ながらその青年は言った。「喜多山」という名前が何度も何度も眞島の中でこだまし、彼女の心の炎は一層大きく燃え上がった。

 ふと時計を見ると、終わりの時間を知らせていた。眞島は引き戻される現実を恐れた。目に焼き付けるように喜多山の姿を見つめた。喜多山も、眞島を見つめていた。喫茶店でのたった二十分。眞島には町の喧騒も、高鳴る鼓動も包み込む喜多山に対する心の炎により、全てが無音と化した。

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