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5.やさぐれ男と弥右衛門(後編)

ピンポーン

拓也は人差し指をインターホンのボタンに押し込んだ。聞こえるエコーのかかった呼び出し音。

すぐさまインターホンのスピーカーから「はい」と返事がした。

「先ほどお電話した、もえぎ薬局の渡部です」

拓也がインターホンに向かって声かけると、ものの30秒程で田中の爺ちゃんが出てきた。

「不足のお薬です。御迷惑をおかけしました」

拓也が腕に抱えている薬の入った薬袋を彼に渡す。
田中の爺ちゃんは両手で薬袋を受けとった。

「こんな足場が悪くて危険なのに、すまなかった」

電話ではそこまで分からなかったが、拓也のことを心から心配していたのであろう。眉間にシワを寄せた爺ちゃんの顔から不安の色が窺えた。

「いえ、今日飲んでいただく分のお薬が無事にお渡し出来て良かったです」
 
薬局で業務があるので、では。と頭を下げる。
拓也はクルッと爺ちゃんに背を向け車の方に向かう。

自身の背中に爺ちゃんの視線が張り付いているのが分かる。察した数秒後にそれは後方から聞こえた。

「ありがとうな……!」

爺ちゃんの振り絞るような声。
拓也は後ろを振り返る。
爺ちゃんは拓也が振り返ってこちらを見たのを確認すると右手を大きく振った。

爺ちゃんの顔を見てもう一回会釈する。
拓也は車に乗り込んで、エンジンをかけた。
彼の家を後にする。

車のルームミラーに爺ちゃんが道路に出て車を見送ってくれる姿が見えた。

拓也はハンドルをギュッと強く握った。

良かった。薬が渡せて本当に良かったーーー
これが仮にもし、彼との最後のやり取りになったとしても。
僕はきっと後悔しないーーー

「只今。留守番ありがとうね」

無事に薬局に戻った拓也は溝口と医療事務スタッフにお礼を伝えた。

「いえ、こちらは空いてましたから全然大丈夫でした。……田中さん、どうでした?」

少し聞きづらそうに溝口は聞いてきた。拓也は、視線を下に落として目を瞑る。

「この間のことに関しては一切触れてない。不足の薬を渡して終わったけれど険悪な雰囲気ではなかった。今後うちの薬局に来てくれるかは分からないけれどね」

拓也の口から、これ以上の言葉が出てこない。
そうなんですね…と溝口。

「今後、薬局に来て頂けるかは分からなくても、田中さんのことしっかり俺に引き継ぎしてもらえませんか?俺、渡部先輩ほどデキる薬剤師ではないかもしれませんが、田中さんがうちの薬局を今後も信頼して利用して頂けるなら、その質は維持していきたいです」

拓也は驚いた。
溝口にはもともと拓也の後任を継いで管理者になる予定ではあったが、彼が薬局の患者個人のことをここまで気にしているのは初めて見た。

「溝口くん、そこまで気にしてくれてありがとう。田中さんだけじゃなくて、この薬局の患者さんのこと…ちゃんと引き継ぎするから…」

よろしくお願いします、と溝口は少し照れ臭そうにしながら軽く頭を下げた。


ーーーーーーーーーーー

拓也の退職まで残り2週間となった。
この日はSNSで仲の良い友人と喜多方に行く約束をしていた日だった。

喜多方まで車で3時間くらいだ。
酒屋や酒蔵に行ったらそりゃ酒は飲みたいけれど、友人と会った帰りに会津若松でお世話になった上司に挨拶に顔を出しに行く為、拓也は飲酒が出来ない。

また交通機関のアクセスが拓也の地域からだと喜多方市はあまり良くない為、電車だと遠回りになってしまう。

「酒買って家で飲めればいいもんな」

酒用の買い物袋を車に放り込んで現地に向かう。
相手は関東から電車で来るので、11時に喜多方駅に集合。

彼と会うのはそんな久しぶりでもなかった。
3ヶ月前に関東で一緒に日本酒を飲んでいるし、オンライン飲みもちょくちょくやっている。

約束の時間の5分前に拓也は喜多方駅に着いた。
まだ着いていないのか彼の姿は見えず、グルッとロータリーを回り駐車場に車を停める。

連絡をとろうとスマートフォンに手をかけた瞬間、助手席側の窓を握りこぶしでコツコツ、としてきた者がいた。
拓也が窓を開ける。

「待たせちゃった?ごめんね」

拓也の車を見つけて待たせてしまったと思っていたのだろう。急いで小走りできたのか、息が少しあがっている。

「そんな待ってないよ。まあ、助手席乗って」

彼、望月颯は車のドアを開けて拓也の隣に座った。


ーーーーーーー

拓也と颯、2人で目的地の酒屋・谷芯へ向かう。
拓也が喜多方市内を車で走らせる中、酒屋の話題になった。

「酒屋・谷芯、行ってみたかったんだよね。差出人不明でお酒を発送している酒屋さん。たくやんのところにもお酒届いたの?」

颯の質問に拓也は顔を歪めた。

「届いたよ。ハヤテちゃんはさ、もしかして差出人の正体分かってないの?」

え?!と声をあげて颯は困惑する。

「たくやんは誰か分かってるの?!日本酒好きな友人なんて沢山いすぎて俺は全然心当たりないよ」

あー…と何かを思い出しながら拓也は答える。

「恐らくだけどSNSの薬剤師界隈で日本酒好きな夫婦がいるんだが、その人達かな。1回だけ東京の恵比寿で一緒に飲んだことがあって日本酒には詳しい。前にやり取りしたから住所はお互い知ってるし」

そういえば…と颯も考えこんで何かを思い出したようだ。

「その夫婦の奥さんの方かな…一回だけ日本酒が好きって共通点で絡んだことがあって日本酒送り合ったことがあった」

ただ正体はその夫婦だったとしても酒屋・谷芯との繋がりや酒を送ってきた意図は不明だ。

「まぁ、それで今日その謎も解明する為に酒屋・谷芯に突撃するんでしょ。ハヤテちゃん、その前に僕が行きたい大和川酒造の直売場、北方風土館に付き合って?」

ラーメン屋が2軒並ぶ細く狭い道を徐行して通り抜けて一本、木が見えた。その周りに駐車場なのか縁石が並んでいる。
木の後ろに蔵のような建物が建っている。

大和川酒造は現在違う場所で工場を構えていて、昔の蔵を直売場として利用している。それが北方風土館だ。
昔の酒造りについてガイドもやっていて大正蔵と呼ばれる蔵は温度が季節に変動を受けることなく一定で酒の保管に向いてる為、造られた多くの酒が貯蔵されている。
直売場では有料で試飲することも可能だ。

「蔵にしてはなんだか少し大きくないか?」

車から降りた颯が目の前の建物をジロジロと見ている。

「ハヤテちゃんの目の前にある建物は昭和蔵って言って当時タンクが入っていた場所で音響の響きが良いから演奏会とか講演会のホール代わりに使われているんだって。現在は」
拓也が質問に即答する。

「たくやん…何か詳しくない?」
怪訝な顔をして颯はチラッと拓也を見た。

「僕は何事も事前に調べてから取っ付きにいきたいタイプなの」
ふふん、と拓也は鼻を鳴らした。

2人は北方風土館で大和川酒造のお酒を購入した後、酒蔵のスタッフに酒屋・谷芯の行き方を聞いた。

どうやら北方風土館から徒歩で行ける距離らしい。

「Google Mapで見ると本当にここからすぐそこみたいな場所にあるみたいなんだけれど…」

拓也が立ち止まってスマートフォンを注視する。

「え?もしかして…あれじゃないよね?この地図と照らし合わせるとあそこっぽいけれど」

颯が指差す先に見えたのは路上沿いに白菜やらキャベツやら大根やらプラスチックの籠に入れられて八百屋みたいに販売されている。

それら野菜を出しているであろう建物には「登録有形文化財」と書かれた青緑の銅板の証明書。

奥の入り口の真横にはコカ・コーラの赤いベンチが置かれていて、その反対側サイドにも木製のベンチ。よく分からない牛の人形が腰かけている。

「これって何屋……?」

颯と拓也、2人の声がハモった。
ふと颯の目に止まったものがあった。

吊るされた杉玉の真横に並ぶいくつかの木の立て札。
酒造の名前が書かれている。
その中の1つ【小原酒造】と書かれたものがあった。

「たくやん、やっぱりここだ。有料試飲コーナーの看板あるし、よく見ると窓越しに日本酒めっちゃ並んでるわ」

暗くてよく見えなかったが、目をこらしてよく見ると窓越しにおびただしい数の日本酒が棚なり棚下なりズラリと並んでいる。

店主だろうか。暗闇の店内に男性の姿が見えた。

「とりあえず、入ってみる?」

拓也が店の引戸をガラガラと横に引いた。
奥にいる男性の「いらっしゃいませ」という声が狭い店内に響き渡る。

「良かったら試飲、していきますか?」

店主は気さくな人なのであろう。
ニコニコしながら2人に声をかけてきた。

「試飲したいけれど、今日は出来なくて買い物だけで…あの、小原酒造のアマデウスってお酒が欲しいのですが」

颯の注文に小原酒造のアマデウスね、と店主。
店の入り口付近の棚下からお酒を1本持ってくる。

拓也がその間を縫って店主に問いかけた。

「僕ら、この店からお酒送って頂いていて…いつも差出人が不明なのですが、こちらの谷芯さんと何か関係がある方なのでしょうか」

店主は隠す様子もなく、あぁ。と分かっているような素振りをした。

「君ら、もしかしてSNSやってる?雪中百姫の酒配便ってアカウントにフォローされてるんじゃないか?」

雪中百姫?酒配便?

颯も拓也も聞いたことないアカウントだったらしい。
その場でスマートフォンを出してSNSを開く。

2人は驚愕した。
フォローされたという通知さえなかった。
いつの間にフォローされていたのだろうか。

【雪中百姫の酒配便】
福島のお酒、貴方の心に届けます

プロフィールにはその一言のみ。
日の丸の中に鶴が描かれたアイコンだ。

「そのアカウント主にお願いされて僕はやってるだけよ。お金も頂いてるしね。依頼がきたらそのタイミングで指示された商品を送る。それだけ」

さっき話していた夫婦のアカウントは個々で存在していて共通点はないようだ。

「店主さんもお金をもらっているとは言えど雪中百姫のアカウント主の要望をなんで受け入れようと思ったのですか?手紙まで添付して…それなりに大変な作業だし」

拓也の質問に店主はフフッと笑った。
そうだねぇ…と言いながら続ける。

「僕はこうやってお客さんの顔を見ているから、お客さんだって僕みたいな人が売ってるって分かるでしょ。でもお酒はその商品から造っている人の顔なんて見れないじゃない?どんな気持ちで、どんな背景でそのお酒を造っているかって知ってもらえたらいいなって。雪中百姫のアカウント主はそこにとても共感してくれた」

店主はふぅと一息ついて、空を見つめる。

「飲み手に手紙を添付するっていうのは主の案なんだ。失恋した時に失恋ソングを聞いて立ち直ったり、気晴らしに読んだ小説に元気をもらったりすることってあるでしょ。それ程には及ばないけれどお酒を造っている人達の志や背景を飲み手の心に届けられたら、きっとお酒はより美味しく感じれるだろうし、飲み手の人生も豊かにしてくれる」

颯は心当たりがあったのだろうか。
店主が左手に握っている蔵粋アマデウスの瓶をジッと視線をズラすことなく見つめていた。

「僕はここの隣にある酒蔵、大和川酒造さんのお酒がこちらから送られてきたんです。それで興味がわいて今日ここに来ました」

それは有り難う、と店主は拓也に礼を言う。

「大和川酒造さんってこれと言って目立つ商品ないでしょ。弥右衛門っていうお酒がメインだよね。喜多方特化のお酒って感じでさ。定番の中に秘められた「大和川酒造らしさ」が良いのよね」

確かに拓也に送られてきた酒、Littlemelodyは喜多方の地元のDJとコラボし地域特化していた商品だった。

「東日本大震災の時に福島県の原発問題あったよね。あの事故がきっかけで大和川酒造はソーラーパネルを中心としたエネルギー事業を始めているんだ。大和川酒造の9代目が会津電力株式会社を立ち上げエネルギーの完全自給を目指している。いずれは会津の人口分の電力を自分達で作り出せるようにと奮闘しているよ。自立しながら人を助けるって凄いことだよな」

(自立しながら…人を助ける…)

店主の最後の言葉が、拓也に引っ掛かった。
人を助けるにはまず自分が余裕を持って自立しなければならない。助ける側に余裕がなければ結局お互いが潰れてしまう。

自分に今一番必要なのは経験を得た自立。
そしてこの薬剤師という職業である以上、薬を通じてきちんと人を助ける能力が必要だ。

「店主さんのおかげで、なんで自分に大和川酒造のお酒が送られてきたのか分かりました」

拓也は店主を真っ直ぐ見てから頭を下げた。

「おう。良かったな。きっと雪中百姫のアカウント主がやりたかったことは、こういうことだったんだろうな。僕は酒蔵と酒の事情しか細かく知らないからよ。飲み手の諸事情は容易く知れるものでもないしな」

颯も言っていた。
何かむしゃくしゃしていて悩んでいるタイミングで送られてくる差出人不明の酒。

酒の造り手にも気持ちや背景があって、悩んでいる飲み手をそこに引き合わせる。強引ではあるかもしれないが、結局は「人」が関わっているものだ。
通ずるものはあると雪中百姫のアカウント主は分かってやっていたのだろうか。

そして大和川酒造は田中の爺ちゃんが好きな酒蔵だ。
それも知っていて送ってきたのだろうか。

拓也の中で疑問はいくつかあるものの、酒屋・谷芯へ訪問したことで大和川酒造の真髄を知れたことには変わらない。

店主に最後、もう一度お礼を伝え颯と一緒に店を後にした。

「お酒を送ってきたアカウントは分かったけれど、結局は誰かまでは分からなかったね」

来た道を歩いて戻りながら颯は呟く。

「まあ、これだけは言えるよ。酒を送ってきたアカウント主は僕らのことを心配してるお節介な酒好きってことかな」

グッと背伸びをしながら歩いてる拓也が言った。

「そうだな。あ、そうだ。近くのラーメン屋で飯食った後、どうする?」

颯の質問に車のドアを開けてエンジンをつけながら拓也は返答する。

「ハヤテちゃん、小原酒造行きたいんでしょう。会津若松にいる上司と会うまで少し時間あるから付き合ってあげるよ。蔵でしか買えないお酒もあるもんね」

ニヤニヤする拓也に颯は礼を言う。

「え?!ありがとう。実は妻の早苗に蔵限定の酒買ってきてくれって言われていたんだ…さっき谷芯でアマデウス見つけて蔵には行く時間ないかもしれないって思ってたから買っちゃったんだけどさ」

申し訳なさそうに颯がしてるのを見て「もうっ、ハヤテちゃんのそういうとこ好きっ」と拓也がふざけて茶々を入れた。

喜多方ラーメンを食べて小原酒造に向かう。 
小原酒造はこじんまりした蔵で歴代の杉玉が並んでいるのは圧巻で少しだけ酒蔵の見学もさせてもらえた。

地元限定なのか「國光」というお酒を颯は購入していた。

上司との約束の時間が近づいて颯を乗せて会津若松駅に向かう。喜多方から会津若松まで30分かかるのは意外だ。会津若松駅に着いて颯を車から下ろした。

「ごめんな、こっちまで送ってもらっちゃって」

数本の酒瓶をぶら下げて颯は拓也の車を振り返った。

「上司との待ち合わせついでだったし良いよ!また遊ぼうね。ハヤテちゃん」

車の窓を開けて拓也は颯に左手でバイバイする。
颯とはまた近いうちにどこかで会うことにはなるだろう。
今度は酒好きな奥さんも一緒かもしれない。

颯と別れた後、さて、とハンドルを切り駅のロータリーを回り駅前の道に出る。
残り2週間で退職するこの会社でお世話になった上司への手土産は勿論、大和川酒造のお酒だ。

待ち合わせ場所へ拓也は車を走らせていった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

喜多方訪問から2週間が経過しようとしている。
この日は拓也の薬局勤務最終日だった。

土曜日の午前はそれなりに混むものの、昼間から午後はポツポツと患者が来る程度で空いてる方だ。

そろそろお昼ご飯に入ろうかな…と拓也が思っていたその時だった。

薬局の窓越しに見たことがある人影が拓也の目に映った。

「田中の…爺ちゃん…?」

その人影は迷いなく薬局のドア前へ動いてそれと同時にドアが開いた。やっぱり田中の爺ちゃんだ。右手に細長い箱状の荷物を抱えている。

「田中さん、どうしたんですか…?」

拓也は目を見開いて、彼のそばに駆け寄る。

「お前に散々世話になったのに、あんな最後は嫌だなって思って色々考えてな。今日挨拶しにきたんだ」

ほれ、と彼は拓也に細長い箱を渡す。
ベージュがかかった箱に可愛らしい桃の絵が描いてある。
空けてもいいですか?と爺ちゃんに許可をとり、拓也は箱を開けた。

【桃の涙】

大和川酒造の日本酒リキュール。
福島県の桃の果汁を使ったお酒だ。

「甘いのが嫌いだったら、すまん。若いのは甘い方が好きだと思って」

表情を崩さない爺ちゃんに対して拓也は首を横に振った。

「ありがとうございます。甘いのは全然大丈夫です。でもなんで、これを僕に…?」

拓也の問いに爺ちゃんは口を開いた。

「大和川酒造が俺の好きな蔵だということは、前に話したかもしれない。この【桃の涙】は東日本大震災の時、原発事故の風評被害を受けて売れなくなってしまった果実農家の桃を大和川酒造が全て買い取ったんだ。その桃をリキュールにしたのがこのお酒の始まり。農家の無念の涙、酒蔵の何か出来ないかという悔し涙、復興と再出発の嬉し涙。色んな涙が詰まってるんだ」

箱の裏に書いてある説明文を指差しながら爺ちゃんは続けた。

「俺も農家だから、この果実農家の気持ちが分かる。病気も薬もよく分からない、薬が不足して手に入らない、災害で薬が飲めないかもしれない、いつも諦めていた俺の窮地にお前が諦めないで全力で付き合ってくれたんだ。お陰で今、体調も良いんだ。俺にとってお前は大和川酒造そのものなんだよ」

本当にありがとう、と爺ちゃんは拓也に頭を下げた。

田中の爺ちゃんと話せるのは、あの時でもう最後だと思っていた。

自分が居なくなる薬局で爺ちゃんのことをちゃんとサポート出来るのか。
他の薬局でフォローしてくれる薬剤師に出会えるのか。

拓也もあの時、自信がなかったからハッキリ言えなかった。でも今なら言える。

「こちらこそ大変お世話になりました。田中さん、ちょっと待っていてもらえますか?」

拓也は調剤室に戻って中に声かけ、後輩の溝口を爺ちゃんの前に連れてきた。

「僕の後輩の溝口くんです。田中さんのことは僕から話していて、よーく知っています。この間、僕が田中さんのところにお薬届けに行った時も薬局で留守番頑張ってくれてたんですよ。良い子でしょ?」

ちょっと、先輩っ…と溝口は照れ臭そうに拓也を腕で小突く。

「君がワタベの後輩か。俺が薬待っている時に中の仕事しながらあと何分で出来ますよって時折声かけに来てくれているよな。やっぱり今後もここの薬局で薬貰いたいな…」

溝口が一歩前に出て爺ちゃんに挨拶する。

「渡部先輩ほど凄い薬剤師ではないですが、田中さんのお薬渡すの担当させてください。よろしくお願いします」

不器用ながら頭を下げる溝口に爺ちゃんは「よろしくな」と軽く会釈した。

「あと、僕の名字はワタベじゃなくてワ・タ・ナ・ベです。田中さん、絶対分かっていて言ってますよね」

爺ちゃんは顔をしかめている拓也の顔を見て、クスッと笑った。

「分かってるさ。あっちに行っても元気でな…」

寂しそうに名残惜しそうに、それでも笑顔で振り返りながら田中の爺ちゃんは帰っていった。
爺ちゃんからもらった桃の涙を抱えて拓也はその姿を見送る。

この東北の地で田中の爺ちゃんと過ごした日々はどこに行こうと絶対忘れないーーー


ーーーーーエピローグーーーーーー


退職して有休消化中の期間。
拓也は東北から東海へ引っ越しを終え自身も東海に車で移動している最中だった。

さっきLINEで入ってきた溝口の連絡によると田中の爺ちゃんは薬局を変えずに通ってくれていて体調もすこぶる良いらしい。ただ季節的に処方せんが増える時期なので店が忙しそうな雰囲気は読み取れた。

拓也の次の仕事は年始からだ。
自分の足で立って歩いていく為に、薬剤師もやりながらラウンダーもやる。それまでにしっかり勉強をしなくてはならない。

周りの景色に雪が少なくなってきたのを確認すると、東北を離れているのだなぁと実感する。

薬局を離れた後で患者が「あの薬剤師さんはどこへ行ったの?」と薬局に聞いてくるのと同様に、あの薬局の患者さんはどうしているだろうか、と薬剤師側でも気になるものだ。

「田中の爺ちゃん僕があそこにいて担当してあげるべきだったかな。俺、信頼されていたもん」

運転していて、拓也の口からポソッと1人言が出た。
自分はやれば何でも効率良くこなせるって分かっているし、それは一見、驕りに見えるかもしれない。

でも、爺ちゃんとの信頼関係が成り立っていたのは事実だったし、それは拓也自身が患者に寄り添い努力をしていたからだ。

自分を認めてそのまま放置すれば「驕り」になるし頑張れば「成長」になる。

自分には甘くしない。
かつ自分に余裕を持ち、人を助ける余裕をつくる。
目指すところは大和川酒造と同じだ。

周りの景色を流し見しながら拓也は心の中で呟いた。

爺ちゃん、ごめん。
最後まで、かかりつけ薬剤師担当出来なくて。

でも僕、今以上に経験積んだ薬剤師になって、爺ちゃんみたいな患者さん沢山助けるから。

また会える時まで、バイバイーーー


ーやさぐれ男と弥右衛門(後編) 完ー

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