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ジーパン屋行路 〜尾道にジーパンを買いに行く旅 下編


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上編(1〜4)はこちら


5.創業天保三年、老舗の寿司屋で蒸し寿司を食べる

デニム屋でしばらく話し込んだあと、時計はお昼を過ぎていたので事前に予約しておいた老舗寿司屋に移動する事にする。

そこの寿司屋は温い寿司…蒸籠で蒸した蒸し寿司が名物らしい。

商店街から少し歩いて新開地区の方へ。
遊郭跡の雰囲気の残る建物を横目に進んで行くと、古い書体で描かれた薄紫色の暖簾がかかっていた。

暖簾をくぐり入り口を入る。

仲居さんに予約してある事を伝えると、入り口近くのテーブル席に通された。老舗ではあるが店内は明るく活気があり仲居さんも丁寧に接客してくれる。

事前にInternetで蒸し寿司を予約しておいたので席に着くとすぐに出してくれた。蒸し寿司は蒸すのに時間がかかるので、やはり事前に予約して行くほうが良いだろう。まわりも予約客が多いように思う。僕らは蒸し寿司と一緒に、麦酒と赤だしも付けてもらった。

まずはよく冷えた麦酒を小瓶に注ぎ、乾杯をしてから一気にゴクリ、ゴクリと飲み干した。暑い中歩き疲れた体に麦酒が染み渡る。

次にここ宮徳の名物、蒸し寿司だ。

地元の人は温かいお寿司という事で、温(ぬく)寿司と言うらしい。使われている漆器も目を見張るものだった。

その独特の形をした漆器は江戸時代から使われていて、半年に一度越前塗りの里・福井県鯖江で塗替えしては今まで長く使われているらしい。

個人的に食事は五感で楽しむものだと思っているので、店の雰囲気や歴史、器、香り、味、感触全てに深みを感じる店はやはり良い店だと思う。

そして1人で食べ物と真摯に向かい合いうか、誰と食べるかも食を楽しむ大切な要素である。

勿論大衆的な店も嫌いではない。というより普段は稼ぎの都合で大衆的な店しか利用できない現状ではある。

しかし旅の時位はケチケチせずに楽しみたいし、安さばかりに目が行くような生活だと、どうしても心が貧しくなる。

貧乏はしょうがないが、心が貧しくなるのは嫌だ。

なのでたまにはめかし込んで奮発して良い店に行きたいと思う。

要は楽しむ幅があればある程、人生は豊かに感じる事が多いのである。

若い人は若い時に少し背伸びして、それなりの格のお店に行って沢山恥をかいておけば年をとって何かとスマートにこなす事ができる。時にはエスコートしたり、されたりする事で自分の役回りを覚えるし、普段とは違う環境に身を置けば色んな人間がいるのが見えてくるのでおすすめである。

漆器の蒸籠の蓋をとるとフワッと湯気とほのかな酢や食材の香りが香ってきた。上には黄色い錦糸卵と綺麗なピンク色をした小海老のそぼろが乗せてあった。
その光景は朝日に照らされた瀬戸内の海がキラキラ、ピカピカと輝いているようにも見えた。

箸でその美味しそうな蒸籠の中身をすくってみると、錦糸卵と小海老のそぼろの下には焼き穴子と椎茸がたっぷりと乗り、さらにその下に刻み込んだ干瓢を混ぜたすし飯が隠されていた。気分はまさに瀬戸内海に眠る財宝を探すトレジャーハンターかゴールドラッシュ時代の採掘者である。

普段は中々、蒸し寿司という物を食べる機会はないが中々どうして美味い。酢飯も程よい加減でキツすぎる事も無く食材の美味しさを引き出していて、なる程これは老舗の味だと思わせてくれる。

また一緒に付けて貰った赤だしも具は鯛が入っており、それはそれは大変美味しかった。

お昼は予約客で沢山の客が訪れていたのも頷ける。

6.クラフト麦酒とラムネ、そして海

美味い麦酒と蒸し寿司でお腹が満たされ、さてもう少し尾道の山手側を散策しようと思ったが、なんだか体がフワフワするような気がする。

最初はアルコールのせいかな?なんて思ったがそういう感じでもない。

次に熱射病かとも思ったが特にそういった気分の悪さもなく、しばし考えて思い当たる節が。

これは寝台列車で10時間近く揺られてせいだな?という思いに至る。どうやら軽い下船病になっていたようだ。

そういえば電車を降りた時からフワフワする感じがあったような気もするが、尾道に降り立った高揚感でそういう感覚も鈍くなっていたようだ。

まあ無理しなければ体調を崩す事もなかろうと、もう少しだけ尾道の街を歩く事にした。

とは言え坂が多くて暑い山手側を歩き回るのは、体の負担が大きいだろうと判断して山手側に行くのは今日はよしておいた。

旅行の基本だが無理して体調を崩すのが一番つまらぬ。

予定は予定であり、何かあればすっぱりと諦めて余裕をもって楽しむのが一番である。

友人も同意してくれ、ぶらぶらと新開地区を散策しながら歩いた。

新開地区は元々は遊郭が存在し、空襲の被害が無かった尾道は今でもその遊郭の雰囲気を残している。遊郭で使われていた古い建物も割と残っているようだ。

今では風俗というよりはスナックやパブが多く存在しているようで、夜になると至るところの路地でピンク色や紫色のネオンが灯り出すのである。

遊郭といえば神社だが、遊女がお参りしたであろう小さな稲荷神社もちゃんとあった。

「商店街に通じるこういった路地がいくつもある」
「立ちション防止の為か路地に貼られた鳥居のマーク」

僕らは至るところにある狭い、狭い路地を抜け、商店街を横切り2号線に出て気になっていた古本屋に立ち寄ってみた。

一軒入りづらそうだが入ってしまいさえすれば
割と気軽に見て回れる店内になっていた。

そこは平日は夜に店が開く古本屋で、元は病院だった建物を古本屋にしたらしく中々に味のある店である。土日は昼間から開いているらしく今回寄ることができた。

平日は一杯ひっかけてから深夜に立ち寄る人もいるらしく、中々文化的だなと思う(笑) 店主と色々と話をしてみるのも面白いかもしれない。

それからまた商店街の方に戻り少し気になっていた尾道産のクラフト麦酒屋にやってきた。場所は先程のデニム屋の隣である。

商店街に面したところに店の看板が出ていて一見、表のお洒落なカフェー風の店構えと大体の人が勘違いするが、表の店はレモネードと珈琲を出しているカフェーでクラフト麦酒屋に行くには同じ建物の右手のドアを開けて奥へ奥へと進まねばならない。

本当に尾道は迷路のような街である。

僕らは建物の右のドアを開け、その倉庫のような細い通路を進んで左手に曲がりまた進んだ。突き当りにクラフト麦酒屋があった。

基本その店は昼営業のようで、すでに何人かの客で賑わっていた。

僕らが入ってくると気を使ったのか、奥で立ち飲みをしていた観光客風の3人組の若者が「じゃあそろそろお会計を」と言った。

丁度入り口ですれ違う形になったので、気を使わせたのなら申し訳ないと思い彼らに軽く会釈した。向こうも会釈を返してくる。

僕らは彼らが出ていった後の席に入り込むと、気の良さそうな店の夫妻が挨拶をして壁にあるメニューを指して色々と説明してくれた。

尾道のクラフト麦酒は初めてだったので3種の味を呑み比べできる1,000円の呑み比べセットを頼んでみた。

その日の3種の麦酒は…

1番 尾道エール:尾道産のイエローレモンを入れたペールエール。
2番 尾道エール:尾道産のみかんが入った麦芽を感じる黄金色の麦酒。
3番 アスパラガスエール:アスパラガスを使った麦酒。
であった。

呑み比べと言う割に量はそこそこあるので十分3種類の味が楽しめる。

正直僕はそんなに酒飲みでもないし、麦酒の細かな違いはわからない。

1番も2番も柑橘系を感じる美味い麦酒、という身も蓋もない感想である。

ただ3番は僕のような物でも、ほのかに青い香りと実際に飲めば嫌でも後からアスパラガスの香りが鼻に香ってきた。

案外アスパラガスも麦酒としてちゃんと成立するんだなと関心してしまった。

僕は酒の味はわからないと言ったが酒の席は嫌いではない。正し強い酒や量を飲むと疲れたり頭痛がすぐにするので酒に対する耐性は無いのだろう。

だから量は飲まないし、強い酒を飲む時は一緒に水もよく飲む。

とは言え元々生まれは九州の福岡なので、居酒屋で子供が飯を食べる文化の中で育った事もあり居酒屋飯は好きだ。

こちらのクラフト麦酒屋は店内に入ってしまえば明るくお洒落な店内で飲める。クラフト麦酒のラベルにも拘りを感じるのでボトルを見てるだけでも楽しい。店内は地元の人らしい方も利用して色々と世間話をしていた。

勿論一見して観光客とわかる僕らにも、店の夫婦は気を遣ってくれていた。

地元の人と店主の話の流れで、実は3番のアスパラガスの麦酒はローカルTV番組の企画で最近作られたという事がわかった。

少し関心をしめすと僕らの方にも話を振ってくれた。まだ放送前だったので良いタイミングで呑めたものだと思った。(その放送は翌日偶然ホテルでTVを付けたら放送していたので興味深く見た。)

その他にも近隣で採れるトマトやライム、実山桜桃梅(ユスラウメ)などを使ったクラフト麦酒もあり、とても興味を惹かれるものであったので麦酒好きの方は訪れてみて欲しいものである。

その日は夜も呑む予定だったので長居はせずに僕らは店を出た。時間は15時近くになっていたので、そろそろ海に行ってみるかと歩き出した。

尾道市内中心部側にはその歴史から現在浜辺はほぼ無い。
埋め立てられたその土地は大体が雁木(がんぎ)と呼ばれる階段状になっていて昔から船着場として船荷を積み下ろししていた。

その名前の由来は鳥の雁が斜めに並んで飛ぶ様子が階段の形に見えるため、このように呼んだと言われている。

尾道水道は狭く海水浴ができるような浜も無いので、ここいら地元の子供や家族連れは海水浴といえば向島の四国側のいくつかある海水浴場に行っているのだろう。

自分が住んでいたところも海は近くにあったが、海水浴場とは別物で牡蠣養殖や瀬戸内の小魚漁に使う船と磯臭い小さな港や消波ブロックばかりで、小さな小さな浜で腰くらいまで浸かって遊ぶか消波ブロックの上を飛び回ったり(これは非常に危険なのでやめたほうがよい)。海水浴場なんてものは宮島に渡って行くしかなかった。

話は逸れるが同じ「雁木」でも地域が変わればまったく物が変わってくる事はよくある話で、新潟県などに行くと同じ雁木と呼ばれる物でも雪よけの為に町家の庇などを長く張り出して作られた昔のアーケードの様な物を指して言われるらしい。

そういえば国語の教科書に掲載されていた「わらぐつの中の神様/杉みき子 著」の風景で印象的に描かれていたのを思い出す。

さらに話は逸れるが「 あの坂をのぼれば、海が見える。」というとても心に刺さるフレーズが使われている「あの坂をのぼれば」も作者が杉みき子氏である。こちらも国語の教科書に載っていた。まさに日本を代表する児童文学作家だと改めて思う。勉強嫌いだった僕でさえ未だに心に響くフレーズや物語を残しているのだから。僕は勉強は苦手だったが国語の教科書を読むのは好きだった。

数ある文芸作品から教科書の教育要項に沿って作品を選び教科書を作るのはとても大変な作業だと思う。大人が頭を悩ませて選ばれた作品はやはり面白い、素晴らしいというのが大人にって改めて思う。

閑話休題

僕は老舗旅館と料亭のある方へと向かった。
ここの小さな雁木が好きだった。

その料亭旅館は1902年(明治35年)から洋食屋として創業し今は料亭としてやっている。

客室の窓のすぐ外が海になっていて、この時は雁木と客室の間の縁に腰掛けて旅館の人だろうか?のどかに釣り竿を垂らしていた。尾道らしい光景だ。

邪魔をするのは悪いとその雁木は諦め、もう一つの老舗旅館がある雁木の方へと向かった。こちらも海に面した客室がある。

そしてその旅館の横には小さな雁木があり、少しここで休ませてもらう事にした。

小さな小さな雁木から眺める瀬戸内と向島の眺めは、両隣を古い旅館と石垣に囲まれてる事もあって写真のフレームのように切り取られ、物語の中に入り込むような錯覚を覚える事がある。

僕は靴を脱いでサンダルに履き替え、買ったばかりのジーパンを履いたまま雁木を海水が来てるところまで降りて海に足を漬けてみた。

今日はとても暑い日だったので海の水が本当に心地よく感じた。そのまま雁木に腰を下ろして腰まで浸かり、ジーパンを海水に浸しながら穏やかな尾道水道の流れを眺める事にした。友人と妻は阿呆な事をしているなと呆れていた。

その間に何度かフェリーや漁船が通った。すると穏やかだった水面がその船が過ぎ去った後にざぶんざぶんと雁木の方に押し寄せた。

対岸の向島には造船所が見える

僕の履いたジーパンは尾道の太陽と海水と風を染み込ませていった。

しばらくして僕は海から腰を上げた。陽の光で火照った体も少しは涼しくなっていた。

もう少し海風を浴びていたかったのと何か飲みたくなった僕は対岸の向島に老舗ラムネ屋があるのを思い出して「ラムネを飲みに行こう!」と連れの二人に言った。

向島と尾道との距離は海を挟み、直線距離にして200m〜300mである。尾道水道を初めて見る人によってはこれは海なのか川なのか判断がつかない人もいるだろう。

僕らは雁木を眺めながら海沿いを歩いて土堂の「兼吉渡し」にやってきた。

向島に渡る渡船のり場はいくつかあるが、ラムネ屋に行くにはここの渡船のり場が一番近いだろう。

大人片道100円、時間にして5分のショートトリップである。お金は乗り込んだ後、係のおじさんに手渡した。

僕ら以外は多分地元の人達で女学生は自転車を押して乗り込み、おじさん達は軽トラで係員の指示に従って乗り込んでいた。

僕らは多少浮かれているが、地元の人達にとってはこれが日常である。

渡船を降りて映画に使われたロケセットなどを横目に道なりに500m程進むと老舗ラムネはあった。昭和の古い倉庫のような作りで実際古いのだろう。

中も古いラムネの木箱やケースが並べられており、色々な種類のラムネやこの店のオリジナルの雑貨まで販売していた。

看板のラムネは何種類かあり、ここでしか飲めない「マルゴサイダー」というものがある。

サイダーが入れてある瓶も今では生産されていないものなので、その場で飲んで瓶は返却して帰らなければならない。

「古いラムネの瓶は要返却」

その他、生口島のレモン果汁を使ったレモンサイダー「怪獣サイダー」なんてものもある。

どちらも夏の疲れた体を癒やして喉を潤すには最適だった。

サイダー以外にもレトロな瓶やラベルを眺めているだけでも楽しくなるミルクセーキやクリームソーダやコーヒーなども売ってあった。

店の雰囲気が面白いので観光がてら寄った人にはお土産用の雑貨を売ってるのは嬉しいんじゃないかと思う。

雑貨やお土産品は沢山売ってるが、どれもラムネや飲料に関連したセンスの良い品だし、かといって店の人が無理に勧めてくるような事はないのでここでのんびりラムネを飲んでカップルや若いグループ、家族連れがワイワイ楽しんでいる姿を見ていると僕はお祭りのような雰囲気を感じた。

夏とラムネってそういう気分にさせる飲み物なんだな…と改めて感じていたのである。

昔は色々な地域にご当地清涼飲料水店はあったが時代とともに大手でないと中々たち行かなくなり姿を消していった。

勿論必要が無くなれば消えていくのは世の中の通りであるから寂しさはあれど納得する部分も多い。

ただこういう店が残ってるという事実はやはり地元やここを訪れる人が必要としているからである。

蒸し寿司の時にも書いたが、自分は楽しみは可能な限り五感で楽しみたいと思っている。

世の中安易に安さやコスパに走りがちだが、そういったところにばかり目を向けていると絶対に世界は広がらないし、いつの間にか心が貧しくなる罠や怖さがある。

なので自分は自分なりではあるが、気に入った店や商品は商品だけのコスパではあまり評価したくない。

洋服でもそうだが洋服を売るのにはその過程に作る人もいれば、売る人もいて、何かトラブルがあった時のサポートや店の雰囲気作り…そういった多くの人が関わっている。そういう事全てにコストはかかる。

なので洋服一つを良いものに仕上げる為にコストを全部そこにかけて他のコストはカットして誰かを泣かせているような店はブランドとして育たないし、身につけていても自分の気持が上がらないので自分としてはそんなにコスパが良いと思えないのである。

食事も同じで、いくら美味くて使ってる食材の割に安くても、例えば便所の臭いのする横で食べたり、店の空気が悪かったり、虫が這ってるような汚い場所で食べれば美味しくないと思うように、食事を美味いと感じる要素はメシそのもの以外に沢山あって、そういうところも大事にしたい。そういうところを大事にして歴史を重ねてきた店はブランドとしてこれからも長く続いて欲しいのである。

このサイダー屋もそういった長く愛される場所として続いていって欲しいものである。

「尾道デニムショップに職業欄「ラムネ屋」のユーズドジーンズありましたね。」

僕らは喉を潤し、再び渡船を使って尾道市内に帰ってきた。

時間があればいつか向島も四国側に出て浜辺に行ったり、パン屋やドーナツ屋など面白そうなお店を回ったり、更に足を伸ばして他の島々に渡ったりもしてみたいものだ。

僕らは駅前に比較的最近できたビジネスホテルにチェックインした。尾道の宿泊施設は他の地域に比べると高めの傾向だ。

尾道観光は1日だけで、福山の鞆の浦や岡山の倉敷も観光したいという人は福山駅周辺のビジネスホテルに宿をとった方が安上がりになる場合もあるだろう。

勿論その人の旅行スタイルにもよるが、お金に余裕があるならお洒落なデザイナーズホテルがチラホラあるのでそこに泊まれたら最高だろう。

若くてお金に余裕のない人ならゲストハウスや民宿でも良いだろう。こういった施設も他の地域よりは若干高めの傾向ではあるが、尾道という環境を考えると人気もあるし高くなるのはしょうがない。中々他には無い面白そうなゲストハウスも多い印象である。

7.ジーンズについて

僕はホテルにチェックインした後、荷物を広げてシャワーを浴びる準備をした。

デニム屋で買ったジーパンは海に入って思いっきり塩水を吸っていたが、その後に海沿いを歩いたり渡船に乗ったり1時間位ぶらぶらしていたら太ももあたりの部分は乾いてきていた。

僕はジーンズを脱いでシャワーを浴びたあと、ホテルの洗濯場に行ってジーパンを洗い乾燥機にかける事にした。

この尾道デニムのジーンズはメーカーやデザイナーの意図としては、勿論ファッション要素は取り込んでいるのだけれども作業着の延長で作られていると思う。

なので基本的にはガンガンに洗って履き込んでこそ味の出るタイプのジーンズなのだ。

自分好みにジーンズを色落ちさせたり、皺を付ける事を「ジーンズを育てる」なんて言い方もする。

自分は購入後すぐに海に入ってしまったので今回すぐに洗濯機に入れて洗濯する。

一般的には糊付けされていない(既にメーカーで一度洗って糊を落としてある状態)ジーンズの場合は大体購入後、1〜2週間、長くて1ヶ月程履いて自分の履いた皺のアタリや癖がジーンズに出てきたら洗濯機に裏返して洗ってやるといい。

洗わないと臭うし汚れで生地が傷んで破れやすくもなる。

面白いのはここからでジーンズは元々は作業着として生まれたものが時代と共にファッションアイテムとなった。

90年代には日本でアメカジや古着ブームがあり、そこからヴィンテージジーンズが価値のあるものとされるようになっていった。

亜米利加(アメリカ)大手のジーンズメーカーのジーンズは本来は作業着でありファッションアイテムとなった今でも既製品、大量生産品である事には変わりないのでコスパを追求するのは当然の流れであろう。だから時代と共に製造方法や質が変化していくのもあたりまで、良くも悪くもヴィンテージジーンズと現在のジーンズでは全体の雰囲気や細部が異なっていて、味のあるヴィンテージ品と比べるとファッションアイティムとしては物足りなく感じる人が多くなったのである。
勿論気兼ねなく履けるジーンズとしてはそういった「亜米利加(アメリカ)の普通のジーンズ」の方が価格も含めて需要があるからこそ、そちらが本流なのだけれども。

そんな折に日本で起きたアメカジと古着ブームで多くのバイヤーが海を渡り高値で海外のヴィンテージジーンズを買い漁った事で本国亜米利加(アメリカ)や欧州にもヴィンテージジーンズブームが飛び火した。

その日本からの影響を受け海外にも多くのジーンズマニアが生まれたのである。
(勿論それ以前にも海外にもマニアはいたのはいた。)

亜米利加(アメリカ)のジーンズメーカーの年代物のジーンズはマニアにより高値で買い取られた。多くの人の間で良い色落ちや経年変化、細部の違いなど語り合う事もジーンズを所有する事の楽しみの一つとなった。

年代物の倉庫から誰も履いていないデッドストック品が出てくるとマニアやそれを買い漁っていたデニムハンターは喜んだ。

一度も洗っていなければそれはかなりのお宝品だ。
(一度でも洗えば半額位の値になってしまうという。)

まだそれでも一般人が手を出せる金額の頃はジーンズ好き、お洒落好きがそれを買いあさり自分で履いて自分好みの皺を付けたり色落ちをさせて楽しんだ。

またデッドストックとは違い亜米利加(アメリカ)のゴールドラッシュ時代の鉱山や田舎の倉庫に眠っていたユーズドジーンズもその時代を語る貴重な骨董品として高値がついた。それらは観賞用やコレクターアイティムとしての価値も持ちその時代特有の色落ちや経年変化からマニアを喜ばせた。

しかしデッドストック品がいつか底を着くのは当たり前で、そうすると次はレプリカジーンズなる物が出てき始めた。

古き良き時代の頃のヴィンテージジーンズを分解し、繊維レベルで解析して昔のジーンズを再現したレプリカジーンズが日本で売られるようになっていった。

今ではそのレプリカジーンズは世界で高い評価を得ている。
行き過ぎた日本のレプリカジーンズメーカーの模倣で本国亜米利加(アメリカ)の大手ジーンズメーカーから訴えられて訴訟問題に発展した事もあったが。

僕らが学生時代を過ごして90年代はそういったアメカジと古着ブーム、スニーカーブームが加熱していく真っ只中だった。

その頃はInternetなんてものも普及して無く、主に情報源は雑誌とお店だけである。

学生だった僕らはファッションの知識なんて殆どなく田舎で手探りの状態であれやこれやと仲間内で語りあうばかり。

赤耳の付いたジーパンを履いている友達のジーンズを見てカッコいいな!なんて他愛もない事で盛り上がっていた。

しかしろくにジーンズの知識なんてあるはずがなく「ジーパンは洗わない」なんて色々端折り過ぎた知識だけが独り歩きしていたりもした。

実際はなぜ「ジーパンを洗わない」なんて言われ始めたのかというとジーパンに使われている染料、インディゴ染料は頻繁に洗ってしまうと色落ちがとてもしやすい。そして色落ちすると立体感の無いのっぺりした表情のジーンズになってしまうのだ。

それを嫌う人が言う「ジーパンを洗わない」という部分だけ切り取られて独り歩きしてしまった状態である。

なので本来は汚れたり臭ってきたら洗う方が良いのである。当たり前だがそれが長持ちさせるお手入れ方法なのである。

それはさておき、ひとえにジーンズを育てるにしてもどう育てるか?を最初にイメージする必要があると思う。

勿論ジーンズを育てるなんて酔狂な趣味は他人にあまり理解もされないような事なので極論他人に迷惑をかけなければ好きにすれば良いとは思う。

しかし折角育てるならそのジーンにある背景やルーツを知ってから育てた方がそのジーンズにより合った育ち方をするだろう。

レプリカジーンズでもそのレプリカの元ネタが何か?を知っていると自ずとどういう育て方をすれば良いかわかるだろう。

ゴールドラッシュ時代に使われた物ならオーバーパンツとして使われていて1度も洗わずに履けなくなったら坑道に捨てられていたなんてものが多い。日にも当たらないから色落ちのメリハリが強く立体感のあるジーンズになる。

こういう色落ちを目指す人は臭いや汚れに気をつけながらではあるけれど自分で糊付けしたジーンズを1年以上洗わずに履き込むなんて人もいる。

世界大戦中もジーンはそんなに毎回洗うなんて人もいないので色落ちのメリハリはあっただろう。
しかしゴールドラッシュの頃と比べると水や洗剤でたまには洗うし細部の色落ちの仕方も変わってくるだろう。

ファッションアイテムとして幅広く使われるようになった頃のジーンズなら汚れたら洗ってやって、ある程度色落ちさせてやった方がジャケットやキレイ目な洋服と合わせやすいな…とか。

そういう事をイメージして育てて行くのがジーンズの酔狂な楽しみ方なのである。

なのでメーカーがどういった意図でそれを作っているかを一度調べたり、お店の人に聞いてみる事をおすすめする。

本当に変な人は土に埋めたり、ジーンズを履いて海水に浸かり始めたりする。またシーウォッシュ(海と浜辺でジーンズを洗い色落ちさせる事)と言ってそれを推奨するメーカーなんてのもあったりする。

ここまで行くとまあ常人には理解し難いであろう。

逆に先程も話したように亜米利加(アメリカ)本国の大手ジーンズメーカーの現行モデルはファッションアイテムではあるけれど良くも悪くも大量生産の既製品なので、あまりマニアが喜ぶような手間暇のかかるニッチな物は作りたがらない。

そんなニッチな商売をするメーカーが日本に多数あるのは元々オタク気質で細部にまで拘ってしまう日本人気質が根底にあるからだろう。

あれこれと語ってみたが僕もジーンズについて詳しいわけでは無いのでジーンズに対する解釈違いや記憶違いがあるかもしれない。

だから興味を持った方は色んな書籍もあれば、今の時代Internetで調べると色々な情報も出てくるので調べて見て欲しい。

沼はすぐそこにある。

8.夜の尾道

僕らは夕飯を食べるため、18時ちょっと前に駅前のホテルを出て再び新開地区の方へ向かった。

「古い銀行だった建物の前でポーズをとる、ふらり猫」

まだ外は明るく明治、大正時代から金融機関の集まっていたという米場町通りを古い建物を眺めながら歩き、路地裏を曲がって一軒の海鮮居酒屋に入った。

その店は比較的地元の人が利用している感じの店だった。

狭い路地にあり一見さんが入りやすいとは言えない入り口をしている。しかし中に入れば店内は明るく思いの外、居心地も良さそうで安心した。

案内してくれた店の女将も明るく、大将のいる奥のカウンターの席か手前の座敷をどちらかが良いかと尋ねてきた。

僕らはゆっくりしたかったので今回は座敷にしてもらったが、大将や地元の人と会話を求めるならカウンターの方が楽しそうでもある。カウンターの方では地元の方であろう人々が楽しそうにしていた。

僕らは最初に飲み物を頼んだ。友人と妻は麦酒を頼んだが僕はまだ少し下船病の気があり体がフワフワしていたし、昼間に麦酒を呑んだのでノンアルコール麦酒を頼んだ。

女将はすぐにお通しとお酒を出してくれた。当たり前だけどやはりすぐに飲み物を出してくれる店は良い。

お通しも個人的には店の味を計れるので嫌いではないし、実際にこの店のお通しは一杯目の飲み物をやるには丁度いい、味わいのあるお通しだった。

ツマミを頼むべく壁に掲げられたメニューに目をやるのだが、ここのメニューは頓智の効いた書き方がされていた。

「ひひ〜ん」や「こけこっこ〜」までは、まあ分かるのだが「朝から3P 4P」や「マル秘ラーメン あきことさゆり」となると何がなんだか分からない(苦笑)

品のない冗談も混じっている感じではあるが、この店の名誉の為に言っておくと対応してくれた女将は全然下品ではないし勧めてくれた料理はどれも大変美味しかった。

僕らはまず、刺し身の盛り合わせを頼んだ。盛り合わせには醤油の他に、ニンニクの入ったポン酢タレがおすすめとの事でそれも一緒に出してくれた。

また瀬戸内の魚を他にも食べたいがデベラはどうだろう?と聞いたところ、女将から「今は旬ではないので旬の魚だとねぶとが良いですよ」との事でそれを唐揚げで頼んだ。

「味付けは甘酢か塩がありますがお好みは?」
と女将が聞いてきたので僕は「この地で一般的な食べ方はどちらでしょう?」と聞くと女将は「それなら甘酢ですね」と愛想良く答えた。

またもう一品酒のつまみとして「やまうにどーふ(山うに豆腐)」も頼んだ。

まだ時間が早く客が少ないせいもあるだろうが料理もそこまで待たずにやってきた。

刺し身の盛り合わせも中々、品のある盛り付け方である。確かに醤油と山葵で食べるのも良いがニンニクの入ったポン酢タレも淡白な白身魚には合った。

またお勧めされた「ねぶと」も1匹が3〜5cmほどの白身の小魚で瀬戸内海でとれるらしい。その中でもここ備後地区を代表する魚であるようだ。旬は5月から9月でまさに今食べるべき魚であろう。頭を切り落として片栗粉を付け、唐揚げで食べるのが地元の食べ方らしい。

「ねぶとの唐揚げ」

今回は甘酢で頼んだがそのタレも漬け込む感じでは無くさっとかけてあって、しつこい甘さもなく食感もカラッとしたままでとても味が良かった。

尾道はお酢の歴史も深い事から酢の使い方も上手いのであろう。

ちなみに後から入ってきた地元の人は塩で頼んでいたようである。塩だと更に酒のツマミとしてスナック感覚でいくらでも行けそうで、そちらも良さそうだと思った次第である。

一緒に頼んだ「山うにとうふ」(豆腐の味噌漬け)も酒のつまみには大変合って友人との学生の頃の昔話にも花が咲いた。10代で出会い今では45歳だ。思えば遠くに来たもんだ。しかしこういう夜があるから年を重ねるのは悪くない。

次に居酒屋っぽく「二👄(くち)ギョーザ」とホルモン炒めを頼んだ。餃子は確かに一口では食べるのにちょっと苦労する2口サイズであった。味は悪くない。ホルモン炒めも居酒屋らしい一品で自分好みだった。

僕らはひとしきり酒や飲み物を飲んだあと〆に「マル秘ラーメン あきことさゆり」を頼んだ。

考えていてもマル秘ラーメンの「あきこ」と「さゆり」が何なのかさっぱりわからないのでこれは女将に聞くしかないのである。

そうすると女将からちゃんと答えは帰ってくる。
「でも今あきこさんはお休み頂いていて、さゆりさんしかいませんのよ」そう女将は笑いながら言った。

「ではさゆりさんを僕に下さい」そう言って僕は笑った。

こんな変なメニュー名にもちゃんと理由があるのだろう。常連じゃない客でもそこの大将や女将と必然的に会話がしやすいような仕掛けになっているのだ。話好きな尾道らしいお店である。ヘンテコメニュー名が何なのか気になる方は実際にお店に行って女将や大将に聞いてみて欲しい。

マル秘ラーメンは昔の醤油ベースの尾道ラーメン風で具に葱と豚バラと固めの味付け玉子の半身、それに甘辛く味付けされた油揚げが入っていた。それが良いアクセントになっていて皆で美味しく頂いた。

良い気分になって海鮮居酒屋を出たあと、本当は他にも夜営業している珈琲屋やBAR、きっちゃ屋の女主人に教えて貰った隠れ家的な店など行きたかったけれど、昼間の疲れと軽い下船病があったのでお開きにする事にした。

旅では無理はしない。これが信条だ。

日の落ちた新開地区を少し歩いて宿まで帰る。
昔は遊郭だった建物に手をいれて宿とアートスポットとしてやっている場所もある。

僕らはふらふらと歩き、駅まで続く長い商店街のアーケードの中に入った。

しばらくすると僕らが学生だった頃には既に古かった酒屋のウイスキーの看板、2〜3mはあるジョニーウォーカーが見えてきて懐かしく思った。

この大きな看板を見ると村上春樹の長編小説に出てきたジョニーウォーカーを思い出す。逆にあの小説を読んだ時、尾道のこの看板を思い出した。

あまり小説の内容は覚えていないけれど確か猫もジョニーウォーカーも出てきたので、猫も多くジョニーウォーカーも海もある尾道と僕の中で紐付いてしまうのだ。

まあ、あの小説の舞台が確か四国、高松市周辺というのもあるから同じ瀬戸内でイメージを寄せてしまう部分はあるだろう。

もしかしたら夜な夜なこのジョニーウォーカーも壁から抜け出して猫を追い回しているのかもしれない。

「やれやれ」僕はそうつぶやいた。

またしばらく歩くと昔よく遊園地やスーパーにあった硬貨を入れると揺れて動くパンダが置いあった。

そこは尾道でも割と有名なゲストハウスで尾道空き家再生プロジェクトの再生物件のひとつだ。90年代までは寂れていく一方だった尾道だが2000年代に入りこういった再生プロジェクトが生まれ確実に商店街に活気は戻って来ている。

僕らはここの細い細い「あのごのねどこ」の様な敷地を通らせて貰って奥に進んだ。

ここはゲストハウスの他にカフェーも併設してある。僕らはぐんぐん進んで行った。

居間らしいところではそこで寝泊まりしているであろう若い人達がくつろぐ姿が見えた。

細い細い敷地を進んで突き当たると小さい庭のようなところに出る。時間的に今回は閉まっていたが小さな本屋があるのだ。本当に本屋があるのか?と思う場所である。

本屋は閉まっていたものの、金属の板で作られた木の周りで遊ぶ獣が僕らを出迎えてくれた。

現在の尾道の商店街は昼間は活気があるが、夜に店が閉まった後歩くと古くからあるお店や建物もちょこちょこ残っておりレトロで静かな僕らが歩いていた90年代の商店街に帰ったような気もしてくる。

おもちゃ屋の古いウルトラマンのオブジェ。昔の銭湯「大和湯」の建物。僕らの若い頃からレトロだ、レトロだと面白がられていた。

そう僕らは「時をかける中年」なのだ。

どこからかラベンダーの香りがした気がした。

僕らはホテルに帰り友人と別れた。
こういった旅を旧友とする機会はこれからもあまりないだろう。だから僕にとってとても良い旅になった。

9.帰京

疲れもあり昨日は割と眠れ、疲れも体の揺れもとれていたように思う。

その宿のチェックアウトは11時だったし、朝食も付けていなかったのでのんびりと身支度をしてから宿を後にした。

朝飯とも昼飯とも言いづらい時間になったので近場で尾道ラーメンを食べる事にした。

もっと滞在していたならお好み焼きや尾道ラーメンも気になるところはあったが、今回は帰りの列車が福山駅から14時過ぎの新幹線を取っていたので、地元の人も利用するような駅横の尾道ラーメン屋に行って手早く済ませた。

尾道ラーメンは昔の朱華園などの醤油ベースに背脂などを加えた所謂中華そばのところと、珍味屋がそれを元に瀬戸内の小魚出汁を加えたスープと2通りの流れがあるので1店や2店で尾道ラーメンを評価するのは難しいし。

まあラーメンは嗜好品なので味の好みはそれぞれである。

こちらの店は現在の主流の小魚の出汁が入った尾道ラーメンで、特に特筆する物はないが背脂も多すぎず実に食べやすいラーメンである。唐揚げやチャーハンは濃い目の味付けなので若い人はそういった物を頼めば満足度は高いだろう。
派手さはないが、近所に当たり前のようにずっと存在すると嬉しい系のお店である。店内のカウンターもU字型でそれなりの広さはあるので食べやすい。

僕と妻は折角なので山手側の尾道文学公園の方へ向かう事にした。

2号線の道路を歩いて小さな高架下をくぐり、活版屋の店の前の坂道を歩いて行くのである。階段状になっている道は傾斜もついていて妻が文句を言っていた。

そう言えばこの日は活版屋は店を開けていた。
活版印刷体験ができる雑貨店である。時間があればここも立ち寄ってみたかったがまたの機会に。

どうでもいい話だが活版屋の名前に「カムパネルラ」と入っている。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」から来ているのだろう。

しかしそれなら何故「ジョバンニ」ではないのか?

そう思った僕は踵を返してその道を戻り、店の扉を開けそこの主人に問いただしてみたくなった。

勿論そんな事はしない。

それにこんな事も考えてみた。
ジョバンニが大人になって店を持ち、銀河鉄道に乗って一緒に旅した1人の勇敢な友人の名前を自分の店の名前に付けたのかもしれないと。

坂の下で鉄道が走り抜けた。

「らっこの上着が来るよ。」

「らっこの上着が来るよ。」

どこかの路地からザネリ達の声がした気がした。

「らっこの上着が来るよ。」

皆、銀河鉄道に乗って行ってしまったのだろうか?僕もいつかは銀河鉄道に乗る。その時は穏やかな旅路であれば良いなと少し思う。
勿論その時は少しの勇敢さも持ち合わせていれば良いとも思うのだけれども…。

気を取り直して尾道文学公園の方へ向かう。

ここに来た目的は文学というより酢瓶で作られた壁を見る為であった。

その壁はそこまで文化的な意味合いはないのかもしれないが、古くから酢の醸造が行われた尾道の歴史を感じるのに見てみたいと思ったからだ。

酢の歴史は1590年ころに豊臣秀吉が酢をつくる工人を朝鮮半島から招き、今の大阪で醸造を始め、尾道の商人がこの工人を誘い入れ尾道で酢の醸造が始められたらしい。

尾道にはその後北前船が寄港するようになり、秋田の美味い米が運ばれ酢造に使用されたという。

まさに瀬戸内海の交通の要衝、尾道らしい。昔から人や物や文化が入ってきては出ていった港街である。

そして今でも400年以上の歴史を誇るお酢の会社が尾道にある。

僕らは坂になった路地をあるいて中腹で左手に曲がった。すると尾道文学公園の手前に酢の瓶で作られた壁があった。

30個以上の酢瓶で作られていて中々に面白い光景である。手前は少し崩れかけている感じもある。

叩く物ではないだろうが思わず軽くコンコンと酢瓶を叩いてみる。

中は空洞があるのかポンポンと響いた感じで音が返ってきた。

その酢瓶の一つに底に穴が空いた酢瓶があって覗きこんでみた。

中を覗くと真っ暗であったが、じーっと覗いていると誰かが向こうからも覗いている様な気がしてハッとしてしまった。

「酢瓶を覗く時、酢瓶もまたこちらをのぞいているのだ」

僕は深い深い酢瓶の世界から戻ると尾道文学公園に足を向けた。

そこには小さな広場と階段がありその上には志賀直哉旧居と志賀直哉が書いた「暗夜行路」の記念碑が建っていた。

「志賀直哉 旧居からの眺め。眼下には尾道水道が見える」

その古びてはいるが綺麗に掃除が行き届いた平屋の一軒家は雨戸が閉められ扉も開く様子がなく、中の様子は伺えなかった。

何故なら志賀直哉旧居は2020年3月、流行病の影響もあってか訪れる人が少なくなり閉館。内部の見学は出来なくなっていた。

それでも縁側に座り尾道水道を眺めれば志賀直哉と多少同じ気分になれるのではないか?と思わせてくれる。

まあ、実際の志賀直哉といえば拠点を割と移しており、この尾道も実際は1年も住んでいない。

一応自身の長編小説「暗夜行路」の構想を練ったとされるが実際は都会の灯りが忘れられなかったのか軽い耳の病気を理由に東京に帰っている。

元々志賀直哉は宮城県石巻の裕福な家庭に生まれ、その後家族とともに東京に出てきた。

子供の頃母親を亡くし、その後結婚の反対や意見の食い違いがあり父親と不和になっていく。
大学を中退した後作家になる。

家から金を持ち出し尾道に移り住んで来たのは志賀直哉が29歳の時。

本人は持ち出した金を大した金だとあまり思っていない節もあるが庶民からしたら中々の大金を持ち出したらしい。

「金は食っていけさえすればいい程度にとり、喜びを自分の仕事の中に求めるようにすべきだ。」
なんて名言を残していたりするが、傍から見ると全然金に困った生活をした事が無いのが滑稽でもあり金の余裕は心の余裕に繋がるのが真理だと思ってみたり。

尾道に縁のある文豪でも金の執着や心の余裕が当然と言えば当然であるが、林芙美子と志賀直哉では全く違って興味深い。

こういう文豪の人物像や背景を知ってから作品や名言を読むのも面白い。大体の場合とんでもないエピソードの一つや二つ持っている。

志賀直哉が尾道移住を決めたのは誰だかに「列車から見た尾道の海が素晴らしかった」との事でなんとなく決めたらしい。
まあ軽いノリである。

しかし移り住んでみたはいいが、東京でも遊郭やお座敷で遊び歩いていた様な人間が尾道の狭くて退屈な刺激の少ない街で満足できるはずがないのはよく分かる。

勿論尾道でも遊郭には通っていたようではあるし、その遊郭通いの経験が「暗夜行路」でも多く描かれており作品に色香を与えているのは間違いない。

ちなみに30歳の時には既に東京に戻るがこの年に山手線にはねられて重症を負っている。その時には性病も患っていたらしい。

志賀直哉の作品「暗夜行路」でも主人公は尾道にやってきて、同じ様な感じで東京に戻っている。その時の主人公の精神的な物により、あまり尾道時代は良いものでは無かったという事を主人公が物語内で語っていたのが少し面白かった。

そう言えば夏目漱石も松山の事をボロクソに書いていたりするので志賀直哉はまだ良いほうだし、昔の文豪なんてやはりネジの1本や2本外れている。だからこそ面白い本が書けるとも言える。

とは言え志賀直哉は隣の老夫婦とは仲良くやっていたみたいだし、尾道を拠点に安芸の宮島や四国の方にも旅行してそこそこ楽しい事もあったのだろう。都会の喧騒や人間関係のゴタゴタから離れた尾道での暮らしはメンタルケアにも役立ってはいたのだろう。ちなみにその隣の老夫婦の孫が土堂の商店街で老舗練り物屋をやっていたりもする。

僕も志賀直哉の「暗夜行路」はこの旅から帰ってから初めて読んだ。中々読みやすく割と楽しく読めた。

尾道の事はそこまで描かれていないが、それでもこの旅で見た情景が小説の情景と重なる部分もあり楽しかった。

僕のように旅先に関連ある作品を帰ってから読むのも良し、行く前に読むのも良し。好きな作家や作品に縁のある地にその残り香を求めて行ってみたり、逆に縁だと思って作品に触れてみるのは楽しいものだ。

自分も学は無いが、そういう「知」があると旅はより深く楽しい物になる。

帰ってきてからも旅は続くのだ。

僕は志賀直哉旧居の隣にあったカフェーに目をやった。こちらは流行り病の前から確か閉店していたようだ。草木に覆われているものの可愛らしい花が扉に飾られていて今でも童話に出てきそう風景がそこにあったのが印象的であった。

こういう時が止まった風景もまた尾道らしい。

僕らはそこから坂道を下り、来た道とは違う路地に入った。

古い家の民家からは臭突が伸びている。尾道はその土地の環境から下水道の整備が難しく、また古い建物が多いのでトイレは未だに汲み取り式というところも少なくない。

この臭突が壊れてしまうと排泄物の悪臭が家の中に籠もる事になる。勿論汲取式なので蝿も沢山湧いてくる。本来生きるという事は臭く汚い物である。

山や田舎に住むという事は常に虫との戦いではあるが、旅行者であっても尾道の山手側の路地の散策時にはこの季節、蚊には気をつけたいところ。猫を追って路地を巡るのも良いが思いの外後で蚊に喰われている…なんて事も少なくないのだ。

僕らは狭い路地を下って行くと小さな墓地に出た。僕は「あい、スミマセン、あい、スミマセン」とつぶやきながら通らせて貰った。田舎に住んでると墓地は別に怖いとか不気味な存在でもない。

人間の運命は決まっていて必ず墓に入るのだ。でも終わりが決まっていても、どういう道を辿るかで心の豊かさが変わる。

心持ち一つでも今生きている瞬間の幸福度が変わるし、死ぬ間際の満足度が変わる。

そう思って自分の小さな世界でも、楽しい瞬間を増やしていきたいものである。

最後に僕らは海沿いに行き、折角なので尾道区役所に足を運んだ。この区役所は2020年に新しくなり、屋上には展望デッキがある。

その展望デッキは平日、土日も夜21時まで無料で入れるようになっていて、山手側も海側も綺麗な景色が眺められるようになっていた。

「ココロノミチ オノミチ」

新しい市役所のフロアは綺麗で1Fには土産物屋と珈琲スタンドも併設されていた。ちょっと尾道の景色を楽しみたい時に実に良い穴場スポットである。

そこでしばし休憩してから、商店街を通って駅まで向かった。

商店街の一角、昔は古い薬局があったところを通ると薬局ではもうなくなっていたが、学生の頃、レトロだレトロだとはしゃいでたオバケのQ太郎の硬貨を入れて遊ぶ遊具が未だに置いてあった。

久しぶりの再会に思わず笑顔になった。
そんな浮かれた気分で駅につき、そこで忘れていた地方の洗礼を受ける。

13時に尾道駅について福山駅まで電車で20分弱。14時過ぎの新幹線まで時間はたっぷりある…そう思っていた。

尾道駅に着いたのが13時5分過ぎ。そう福山方面の電車が丁度行ってしまった後であった。

しかし感覚がまだ地方の感覚に慣れてなかったので、次の電車の時刻表を見て驚いた。次の福山方面の電車は40分近く待たなければいけなかったのである。

一瞬焦ったが次の電車に乗っても14時には福山駅について、乗り換えまでは7〜8分はあるはずだから新幹線に乗れないという事はないはずである。

でもちょっと電車が止まったりしたらアウトだな…なんて悪い事も考えてみたり。

そう…田舎の電車は特に土日だと本当に来ない。

そういう感覚が鈍っていると痛い目に合う場合もある。

僕らは尾道駅横の土産物屋で土産物を買って過ごす事にした。

流行り病もあったので、何度か呑みの誘いを断っていた昔お世話になったバイト先の先輩に尾道ラーメンを土産に持って行こうと籠にいれた。

お世話になっている東京と北海道を行き来している姉(あね)さんにも何か買っていこうとも思ったが、いつ北の国から帰るのかわからなかったので尾道お土産はよして帰ったら高円寺にある伊太利亜(イタリア)料理の美味いラザニアを土産に持っていこう。

その土産物屋の奥にはジューススタンドが併設されたレモンケーキ屋もあった。

尾道には色々なお店でレモンケーキが売っている。本当は色んな店のレモンケーキを食べ比べもしてみたかった。

ここのレモンケーキはチョコレートコーティングがされていないので夏の時期のお土産には最適だと思った。何個か買って新幹線の中で食べたけど中々美味しかった。

ジューススタンドにはまるごとレモンが入ったレモネードが売っていて目を引いたのでそれも買って飲んだ。

正直レモンを潰すのが良いのか飲み方がイマイチわからなかったが、夏の日差しに火照った体に染み渡って美味しかった。

駅前の林芙美子像は相変わらず座り込んでいた。こうも暑かったら確かに目眩もするだろう。

僕らはやってきた福山駅行きの鈍行列車に乗って尾道を後にした。

やけに緑のパンツを履いた女の子が多いな…と思ったら子連れのお母さん以外は女学生のようで、履いていたのは学校指定のジャージーであった。

こういう時、洋服が被ると大人の女性は少し気恥ずかしく思うのかしら?なんて事をぼんやりと電車の中で考えていた。

車窓からは尾道水道が見えた。

向島の日立造船が見えた。この橋の袂を過ぎれば魔法は解ける。

僕らは今度、いつこの土地に来れるだろうか?

別府や函館にもまた行きたいな。

流行り病が収束するといいな。

5億円欲しいな…。

そんな事を思いながら僕は帰京した。

10.おわりに

最初は一言日記みたいなノリで書き始めたのが気付けば3万文字以上になったのは笑った。それだけ尾道の思いの詰まった作品です。

尾道はざっと歩いただけでは見えこない風景が沢山あるので、旅行で行かれる方は折角なら丸一日尾道散策に時間をとっておきたいところ。文学やアート、雑貨、カフェ、パンなど好きならなおさら、もっと時間が欲しい。

坂や路地徘徊、近隣の島まで含めるとそれこそいくら時間があっても足りません。
尾道という場所柄、せかせかと有名スポットだけを目指して時間に追われる旅より、着の身着のまま歩き回り自分のお気に入りの場所を探す旅をして欲しい。

稚拙な文章ですがイラストと共に楽しんで、尾道行ってみたいな、旅行行ってみたいな、旧友や友達、妻や恋人と旅行いってみたいな、ジーパン買いたいな、文学作品を読んでみたいな、美味しいもの食べたいな、生きたいな…と少しでも心に楽しみの種が届いたら嬉しいです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

aishi

ジーパン屋行路〜その後

最後に投げ銭スタイルのおまけとして、今回足を運んだお店のリストを乗せておきます。またおまけイラストも2枚載せておくので気になる方は投げ銭をして頂けると幸いです。

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