ジーパン屋行路 〜尾道にジーパンを買いに行く旅 上編
1.はじめに
ふとジーパンが欲しくなった。それはパンはパンでも食べられないパンだ。
そこまでお洒落の事に詳しくない自分が語るような事はないが、ジーンズ(ジーパン)とはそもそも何かというと、デニム生地で作られたズボンである。
仏蘭西(フランス)で生まれたデニム生地を作業着の素材に使い、それがいつしか伊太利亜(イタリア)のジェノバの船員たちに愛用される事になったらしい。
そのズボンはジェノバ製を意味するGenesやGenoeseと呼ばれ、やがて海を渡りゴールドラッシュ時代の亜米利加(アメリカ)で鉱夫の為の作業着として形を変え今のJeans(ジーンズ)となった。
しかしなぜジーンズを買うのに尾道なのか?
これは多少説明しておくべきだろう。
そもそも日本においての最大のデニムとジーンズの生産地は岡山から広島にかけての「備前・備中・備後」の三備(さんび)地区である。この地区は古くから繊維産地として名高く、ジーンズ作りにおいても紡績や糸染め、織布、縫製、洗いなどすべて高い技術でその地域で作られる。
今では世界有数のジーンズ生産地であり、世界でも日本製のジーンズファンはかなり多い。
その三備地区でもなぜ僕が尾道を目指したか?
それは尾道が好きな土地だからだ。
とてもシンプルな理由である。
元々僕は学生時代を広島で過ごした。
とは言っても自分が住んでいたのは広島の西だったので、高校を卒業して専門学生になり、車の免許を取るまでは尾道とはほぼ接点が無かった。
専門学生になると行動範囲も広がるようになり、尾道に行く機会ができるようになった。初めて尾道付近を通った時には街がセピア色に見えた。悪く言えば時が止まったような古臭い感じを受けた。90年代の中頃である。
尾道を良いなと感じたのは96年だっただろうか?専門学生を卒業したばかりの年、専門学生の学友とある尾道の寺に泊まることになった。そこでその箱庭のような街の尾道を着の身着の儘に探索する事ができ一遍に好きになった。
その頃の尾道はまだ駅前の再開発もされていなく駅も古臭く、お洒落なカフェーも殆ど無かった。駅前から伸びる商店街もシャッターを閉めた店も多く少し位印象も受ける街であった。
それでも坂の上から見る尾道水道は心を穏やかにしてくれたし、路地に入れば歴史や文化を感じさせる発見が多かった。
また図らずしもレトロになってしまった暗い商店街の探索も面白かったし、路地を入れば船着作業場の雁木と海が見えてくるのも大変気持ちよかった。
そこから僕が東京に出るまで幾度か尾道にドライブがてら足を運んだ。いつ行くか、誰と行くかでも感じ方は多少変わるが尾道はいつでも好きな場所だった。
今回僕がその尾道に十数年ぶりに行くことを決めたのは尾道のジーパンを買うという目的であり、その心の底にはやはり好きな尾道に理由を作って行きたいと思ったからだろう。
尾道に呼ばれたのかもしれない。
二十歳を少し過ぎた頃、僕は東京に出た。里帰りに広島に帰る事はあったが尾道に行けたのは2度ばかりであった。同じ広島と言えど備後と安芸ではやはり距離があり限られた時間では中々足を運ぶことは無かった。
そうこうしているうちに2019年の3月に尾道駅がリニューアルされ駅前や海沿いも再開発が進んでいた。
また2000年代に入り移住者の促進もあり、商店街も少し活気づきお洒落なカフェーや工房、本屋など増えているという事を聞くようになった。
人によっては再開発が悪としか思わない人がいるが、やはり変わらない、変われないという事はゆるやかな死があるだけに思う。
その点、尾道は「変わらない為に変わる事を知っている街」であるように見える。
そしてある時、変わりつつある商店街の中に「ONOMICHI DENIM SHOP」(尾道 デニム ショプ)というお店があるという事をInternet(インターネット/世界電気通信網)の記事か何かで読んだ。2014年の3月に開店したそうだ。尾道で働く人々にお店がジーパンを提供し履き込んでもらってユーズド(古着)ジーンズを作って販売するという企画のお店であるという。
中々面白そうな事をやっているなぁ…とその時は思った程度ですぐに忘れてしまった。
今回尾道にジーパンを買いに行きたいと思ったのは、近頃またジーパン熱が個人的に上がって来た事と、この店の事を不意に思い出したからでもある。
2022年現在10年経った今でもしっかりとお店は健在で、コンセプトもブレる事なく発展しているようで尾道デニムプロジェクトにとても好感をもった。
お店の目玉はもちろん尾道の人が履いたユーズドジーンズではあるが、尾道デニムプロジェクトが企画した新品のジーパンも購入する事ができる。これは行くしかない。
そうと決まればすぐに列車の切符を手配する事にした。
旅立つのは梅雨のさなかであろう7月の頭である。東京から尾道までは距離にして750km程。夜行列車(サンライズ)に飛び乗れば10時間程の時間で着く距離である。
(新幹線なら福山乗り換えで4時間強程)
列車の切符と宿を手配してからは久々の尾道ということで気もそぞろになってしまった。
また近頃の流行り病でここ数年、旅に出る事がなかったのもそうなってしまった要因ではあった。
元々自分は人付き合いや普段の性格の悪さは置いておくとして性格的に旅行となるとその土地の文化や歴史、名物、を事前に調べ予定を組むのは好きな方である。
なので友人と旅行に行くと大変重宝される事がある。
旅を楽しむ時、何も知らず勢いで行くのも時には良いとは思うが、大体の場合は多少の知識や行ってみたい場所を電子帳面にでもつけておいて多少の知識を頭に入れて足を運べばより楽しめることの方が多いのである。
今回も自分が行ってみたい場所を電子帳面に書き出す事からはじめた。
Internetと高性能携帯電話(スマートフォン)の普及により情報の収集は実に楽になった。
僕らが学生の頃は旅に出る時の最大の情報源は紙の地図と情報雑誌だった。
調べていくと以前には無かった洒落た喫茶店や興味深い本屋や雑貨店、体験型の講座や物作りを楽しめるお店などが増えていた。
NPO法人が主導して尾道の古い町屋を再生し空き家バンクとして移住者と大家を繋ぎアンテナ感度の高い移住者が増え、そういう人々がやっている店も多いようだった。
僕の目的はジーンズを買うこと。それだけ…それだけではあるがやはり尾道の坂や寺、飯、雑貨、海、人…。気になりだすと欲は止まらない。
しかし今回はかなり時間が限られており、夜行で金曜日の夜に東京を出発し翌朝尾道に到着。
そして1泊尾道でして翌昼には尾道を発ち福山から新幹線に乗り東京に帰らなければならない。
そこで電子帳面にまず必ず行く場所、行けたら行く場所を分けて書き出す事にした。
そして一応ではあるが電子地図を広げどうやったら効率よく回れるか線を引いてみた。
まあ、しかし旅というものは往々にして予定通りには進まないものである。なので一応予定は立ててみたが当日の天候や電車の遅れ、疲れなどを加味してあまり予定に囚われないようにという事を念頭に置きつつ予定を組んでみた。まあ最悪今回の旅はジーパンが買えれば良いのである。
また今回旅にでるにあたり友人、知人に尾道を一緒に周らないか?と声をかけてみた。旅先で友人と落ち合いその土地を周る。結構好きなのだ。
20代の若かった頃、東京で出会った人達が今は東京から地方に移って暮らしている事も多くなった。
そんな人達と別府や福岡なんかで再会して、美味しいご飯を一緒に食べたりその地域を周ったりする。より旅の思い出が深まるのである。
45歳というこの歳になるとなかなか一緒に旅をするという機会も無いものだし、これから歳をとれば更にそういう機会も少なくなっていくだろう。
あまり多くない友人に声をかけてみたが、今回は広島で同じ専門学校に通っていた同級生と尾道で落ち合い一緒に周る算段がついた。
この歳になるとそれぞれの事情があり気軽に旅をする事も中々難しい。
また最初は行く予定ではなかった妻も誘い出し尾道の旅に出る事となった。
さあ…旅にでよう。
2.旅のはじまり
この年は随分と全国的に梅雨明けが早かった。
7月の頭に旅行という事で雨の心配を幾分かしたがその心配は杞憂に終わった。
広島地方気象台は「2022年6月28日中国地方は、梅雨明けしたとみられます」と発表したからである。
僕らが乗る寝台列車、サンライズは東京と山陰・四国を結ぶ寝台特急で、途中岡山駅で「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」に分割して運転されている。
予定では東京駅を21時50分発に出発し翌朝6:27分に岡山駅につく。
そこで分割作業の為しばし停車のあと、僕らの乗る「サンライズ出雲」はそのまま出雲市を目指すことになる。
僕らはその列車で岡山駅の次、倉敷駅まで行きそこで鈍行列車に乗り換え尾道を目指すのである。
少し早めに東京駅に着いた僕らはひとまず麦酒とつまみを少しばかり買い込みサンライズが入線してくるのを待った。
ホームには鉄道マニアらしい人達が多く見受けられた。
今ではサンライズは日本で通常運行されている唯一の寝台列車で切符を手配するのも多少苦労する。
久々の寝台列車という事で鉄道マニアでは無い自分も旅の空気に当てられて気分が高揚しているのがわかる。寝台列車というものは特別な気分にしてくれる何かを持っている。
サンライズが入線して発車まで20分位はある。入線後僕らはすぐに列車に乗り込み、予約してある個室へ向かうと寝床を整えた。
僕らが取った席はシングルという1人用の1階の個室で、広くはないがドアに鍵もかかるし十分ゆっくりできる。
シングルの部屋は1階と2階の部屋があり、1階の部屋だと窓の日除けをおろしておかないとホームに居る人に部屋の中を覗かれる事になるので人によっては気まずかろう。
サンライズツインという2人用の個室もあるのだが、そちらは設定数も少なく土日はまず取れないと思っていてよい。
また若い男なら雑魚寝用のノビノビ座席という席が比較的料金も安く、わざわざ『みどりの窓口』に出向かなくともInternetを使って切符の予約ができるので便利であろう。
僕は自分の部屋に荷物を置いた後、妻の部屋に行き買ってきた麦酒やつまみを手の取りやすい窓際に出した。
あとは発車を待つばかりだ。部屋は同じシングルなので二人入ると中々狭い。
まあ、人一人寝るだけなので申し分ないのだが。
しばらくするとゴトンという音と揺れがして、列車が西に向けて走り始めた。
このあとサンライズは横浜・熱海・沼津・富士・静岡・浜松と停車しその後は姫路まで停車せずに走り続ける。
寝台列車の醍醐味は終電間際の通勤列車と並走したり、すれ違ったり、真夜中の駅を駆け抜けるところを眺める事だ。
日常と非日常が交差する一瞬…そのような瞬間に感情の高ぶりを覚える。
ぼやーんぼやーんと街の明かりやホームの明かりが窓から差し込んでは後ろの方へと流れて過ぎ去っていく。
車窓からの真夜中の景色を眺めながら、酒と肴を軽くやってから洗面台に行き歯を磨くなど寝る支度を整える。
そして自分の部屋に戻り必要十分であり、清潔な寝床に体を横たえ明日に備えて眠る事にした。
寝床は揺れる。夜はふける。やがて眠りに落ち…僕は地震の夢を見た。起き抜けに昨夜見た夢を思い返しながら我ながら実に単純な性格だな…と思った。
列車は相変わらずガタンゴトンと音を立て揺れながら西へ西へと進んでいた。しばらくすると姫路駅に到着するようだった。時計は5時を回っていた。
姫路駅に5時25分に到着すると車内も慌ただしくなってくる。
僕らは身支度をはじめる。
あと1時間もすればもう岡山駅である。
乗り過ごしたら面倒だ。
サンライズは割と揺れがあるので洗面台では体が振られる事も度々あった。
右に左に体を揺らしながら時に壁に体をぶつけなら歯を磨いた。
部屋に戻り服装を整え鞄に昨晩部屋に出したものを詰め込んだ。
僕は手際よく身支度を済ませ寝床に足をのばし、あとはゆっくりと車窓からの長めを楽しむ事にした。
外はよく晴れており気持ち良い田園風景が広がっていた。
景色を眺めながら「大きく遅れることなく岡山の手前まで来ているな」と思っていた時である。電車はゆっくりと瀬戸駅で止まり車内に車掌のアナウンスが流れた。
「瀬戸大橋線、備中箕島駅付近で列車がお客様と接触したため、次の寝台特急サンライズ瀬戸号・サンライズ出雲号に遅れがでています。」との事である。
まあサンライズは長い距離を走る寝台列車である。どうしても行く先々の列車の運行の影響により遅れが出でしまうのはしょうがない。
瀬戸駅のホームは中国地方の田舎の駅らしくガランとしていて、側の山には中国地方らしい羽状複葉が生い茂っている。
そういえば昔中学生の頃、授業で「シダ植物を採って持ってこい」という課題があった。
僕が中学生の頃住んでいた場所は広島の西の山を切り崩して作ったニュータウンであり、シダ植物はそれこそちょっと脇道にそれればいくらでも生えていた。まったくもって田舎らしい課題だな…と思い出した。
そのニュータウンは広島市から30分程西に山陽本線にゆられ駅から降りてから20~30分ほど坂道を歩いた場所にある。
そこは高度経済成長期以降、広島市内のベットタウンとして発展していった。
発展していったといっても僕の住む地域には90年代でも碌なコンビニエンスストア一つ無かった。駅前にも田んぼしかない。
山を切り崩して作った街だから高低差もあり、坂と階段が多かった。
電車も山陽本線と名乗る割に多い時で20分に1本くらいの有様だ。
また山を切り崩して家やアパートを作っていったものだから、家の中には蟻やムカデなどの虫が沢山出た。
食べ物をテーブルに数分置いておいただけで蟻がたかるのには閉口した。
僕が住んでいた家は大きなニュータウンから少し外れた小高い山の上にあった。
大きなニュータウンよりは少し前に出来た集落だったように思う。
僕は家族と共に小学生の頃福岡からそこに引っ越してきた。
そこから見える景色だけは割と気に入っていた。
家からはいつも宮島、厳島神社と瀬戸内の海が見えていた。
瀬戸内は台風でもこない限り殆ど荒れる事も無い。
家の小さな庭に出て芝生の上で昼寝をするには良い環境である。
しかし少年にとっては退屈なものである。
家から田舎特有のシダ植物の茂った坂道を下って、誰が付けたかプリン山と呼ばれる小山の道と言えないような道を入ってくと開けた場所があった。
そこには人が来てるのかわからないようなお墓があったり、70年代頃に使われていたであろう廃墟になった別荘があった。
今では植物が生い茂った庭にはブランコがあり、薄暗い森の中でゆっくりと揺れていた。その時が止まった空間にいると不思議な感覚に襲われた。
とはいえそんなに神秘的な場所でもない。
足元に目を向けるとエアーソフトガンの玉が落ちている。
当時の田舎の環境を考えると品の良くない輩が来ている証拠なのである。
そういう場所で幽霊やオバケなんかと出会うより、面倒な奴らと出会う方が田舎では危険なのだ。
少年時代をそういう環境で過ごすと、ニュータウン独自の閉塞感と瀬戸内の穏やかさが相まって退屈極まりないと感じる事が多々あった。
文化の香りもしない。
対岸には宮島があったのでそこまで渡れば色々文化的な物があったけれど。
僕らの様な田舎の地域で文化的な物と言えば公民館と小さな神社位しかないのである。あとは少年少女を対象にしたスポーツ少年団位だった。
とても狭い、狭い世界だ。
僕が子供だった80年代は勿論Internetなんてものも無い。
今はそれらを上手く使ってやれば幾らでも世界を広げられるし、表現活動もできる。良い時代だ。
中国地方みたいな海と山に囲まれた地域の人は、海側と山側を強く意識する。
僕らも方向を確認する時や住んでる場所の話をする時に、海側と山側を自然と意識するし会話でも出る事が多い。
そういえば以前神戸に住んでいた女性に会話の流れで、海側と山側どちらに住んでいたのか?という話を振ったらポカンとされて以外に思った。
神戸ではそういう感覚が薄いのか?と思ったけれど、他の神戸の人はやはり海側山側意識する人が多いと感じるので、その人個人の感覚が神戸に根ざしてなかったのかそもそもそういう方向感覚が希薄だったのか。
その両方か。
変な感覚だったので印象に残っている。
そしてこれから行く尾道も山と海を強く意識する土地である。しかもとても狭い箱庭のようなところに山と海と文化が凝集されたような場所。
心が躍るのである。
勿論80年代90年代の多感な時期をそこで過ごした人が、尾道は退屈だったという話を聞くこともある。
それもわかる気もする。
今でこそお洒落な店も増えてアンテナ感度が高い人も多いけれど、当時はそういうものも少なく尾道も時代に取り残されつつあったのであろう。
また街も狭いので意識して世界を広げようとしなと、狭い世界で物事が完結してしまう。ベッドタウン、ニュータウンとはまた違った退屈さを感じる事も多かったのであろう。
瀬戸内海、尾道水道の海と同じで、若者が過ごすには穏やか過ぎる部分がある。
そのような事をつらつらと思い出していたら、列車はゆっくりと動き出し1時間遅れで岡山駅へと着いた。
到着後、車両分割の為にしばしの間停車した。
岡山駅から山陰、出雲の方に向かわない人々はここで新幹線に乗り継ぎ、さらに西に向かう者も多い。
電車マニア達は列車の外に出て、この数分の間の列車分割作業を電子記録機器に収めたり眺めたり思い思いに楽しんでいるようだった。
サンライズ出雲は岡山駅を出て20分ほどで倉敷駅についた。
列車は出雲市に向けてまだまだ走り続けるが僕らの目的地は尾道であるので、ここで鈍行列車に乗り換える。
待っていると三原方面行きの黄色い山陽本線の列車が入ってきた。
その黄色い電車のイメージは「瀬戸内の太陽」との事らしいが電車マニアからは不評のようで、なんの面白みもない黄色一色の姿や古臭さやコストカットを揶揄して「末期色(まっきいろ)」などと呼ばれているようだ。
個人的には黄色で可愛らしいと思うがJR西日本の貧乏くさい列車ばかりなのは同意するところである。(実際、金が無いらしいが)
90年代でも通勤時間帯に走る車両でさえクーラーの無い電車もあった。
山陽本線は通勤通学、時期により修学旅行や観光でかなり込み合う癖にいまだにボックスシートをやめようとしなかったり、個人的にも通学ではイライラする事が多かった。
余談だが東京に出て来て思い知ったのが電車のドアの閉める力が違うのである。
駆け込み乗車をしたつもりは無かったが都内で電車のドアに挟まれた事がある。
それまで広島でも電車のドアに挟まれた事があったが東京で挟まれた時は広島の数倍強い力で、電車の「骨を砕いてもドアは閉める」という強い意志を感じた。広島は本数も少ないせいかかなりドアの閉める力が弱い。
なので怪我をしたくなければ東京では駆け込み乗車やドアに挟まれるような事はしない事だ。
電車の本数も比較にならない程多く数分待てば次の電車も来る。
3.朝の尾道
倉敷駅から鈍行で尾道駅には1時間程で着いた。
久しぶりの尾道駅はとても綺麗になっていた。
駅前も再開発が進み昔の寂れた感じも無くなっていた。しかし林芙美子の像は放浪疲れか今も駅前で座り込んでいた。
駅前で友人と落ち合う。久々の再会である。
挨拶もそこそこに、僕らは事前に目星をつけていた「きっちゃ屋」で朝食を食べる事にした。
尾道の北口にでて少し歩くと三軒家アパートメントというものがある。中心市街地の空洞化や生活スタイルの変化などの影響で時代に取り残され元は楽山荘という古いアパートを『三軒家アパートメント』として再生させ、今ではカフェーや古本屋、古物屋等が入っている。
その三軒家アパートメントの一角に入っている、きっちゃ屋に朝食を食べに行く事にしていたのだ。なにやら女主人が、がんもどきなど素朴で美味い和朝食を出しているらしい。
三軒家アパートメントへは古い商店かなにかの壁に「CAFE」と矢印が出てるのでそこから左手の路地に入る。狭い路地をぐんぐん進んでいくと右手に昭和の古いアパートが見える。そこが三軒家アパートメントである。
そこの1階にきっちゃ屋はあった。
本当なら8時にはそのきっちゃ屋へ行って朝食を摂りたかったのだが、電車の遅れで9時となり、店の前に行くと多くの若者がいた。
これは結構待つことになるかな?と思って中を覗くと、ちょうどその若者達は店を出たところであった。
古いアパートの引き戸の上にアナログ時計のかかった入り口をくぐると左手に、きっちゃ屋の扉があった。
扉を引いて中を覗くと広くは無いが清潔感のある店内の右手にキッチンがあり、愛嬌のある女主人が「いらっしゃい」と言った。
僕は「3人だが入れそうかな?朝食を頂きたいのだが?」と声をかけると少し困った顔をして女主人は言った。
「スミマセン。今日はついさっき大学のサークルの団体さんが来られて。朝食はすっかり無くなってしまいました」
僕はやれやれ、旅とは予定通りいかないものである…と1人苦笑した。
しかし折角入った居心地の良さそうなきっちゃ屋である。僕は女主人に言った。
「では飲み物だけでも頂けますか?」
「勿論でございます」
女主人は明るい表情で言った。
僕らはキッチン横の良く手入れのされた木製のテーブル席に腰掛けた。
そして僕はアイスチャイを、友人と妻は自家製ジンジャーエールを頼んだ。
僕はそんなに話が得意な方ではないが、ここの女主人はふんわりとした雰囲気で自然と話しがしたくなるような女性(ひと)であった。
「前からこちらに伺いたかったのですよ。」
僕は言った。
「あらそれはそれは。どちらからいらっしゃったのですか?」
「僕達は東京からこちらの友人は広島市内からです」
「尾道にようこそ」
簡単な挨拶や会話をしていると手際よく
テーブルにはアイスチャイと自家製ジンジャーエールが運ばれてきた。
「朝食を食べられなかったのは残念だが、それはまた次の楽しみとします」僕が言うと女主人は「明日また来てくださっても大丈夫ですのよ?」と少し悪戯に言った。
僕はアイスチャイで喉を潤しながら聞いてみた。
「朝食は食べられなかったけれど、Internetで見た豚の箸置きが気になってまして。もしよろしければ豚の箸置きを見せてはくれませんか?」
女主人は快く豚の箸置きを出してくれた。聞くとどちらかの作家さんの手作りとの事だ。見ると割と細かい作りがしてあって実に愛嬌があった。
僕はテーブルにその豚の箸置きを置いて、眺めながら言った。
「尾道は久しぶりに来たけれども色々変わりましたね。でも変わったけれど実に良い方向に変わっていると感じました。新しい移住者も増えてるみたいだし、そういった方はアンテナ感度も高いですね」
続けて女主人に聞いてみた。
「失礼ですが貴女のご出身は?」
「私は出身は九州ですのよ」女主人は言った。
「ああ、それはいい。僕も生まれは九州です。」
こんな事でぐっと親近感を感じてしまうのは僕の単純なところだ。
「僕はね別府も好きなんですが、尾道も似たところがあると思っとるんです。別府は昔から温泉地で湯治目的で色んなところからよそ者が別府にやってきていたから、よそ者に対して受け入れ体制が出来ている。尾道も昔から菅原道真が寄ったり北前船が寄港したりと多くの人が来ては去っていった。そういう土地柄の雰囲気が割に気に入っているんです。」
そういった話をしたら女主人がこのような事を言った。
「尾道の名前の由来、むかしむかし街を追われたり、逃げてきた人がたどり着く港町…尾っぽの先の道、この土地がそうだったんですって。だから尾道。…色んな説があるらしんですけれどこの説があたしが一番好きな由来なんです」
そういって少しはにかみながら笑った。
尾道の名前の由来は諸説あり、その説の中でも少し面白おかしく語られている説ではあると思うが、なんとなく言いたい事はわかった。
尾道の土地は疲れた人や独り身、迷い人にも優しい…と感じる。
僕も、あまり上手くいっていなかった97年に何度か尾道に訪れたけれど、狭い路地を歩き回ったり穏やかな瀬戸内の海を眺めていると、もう少し人生を楽しもうという気にもなった。
移住者促進の活動など、色々な地域の動きもあるが元々の尾道の土地柄、懐の深さが多くの移住者を惹きつける根本的な理由だろう。
またここ数年、風の噂ではここ尾道には移住者、旅芸人、逃亡者のみならず狐や魔女も人間に化けて住み着き商売をやっているとかいないとか…。
女主人は尾道の年寄りは若い人がやる事に割と肯定的な人が多いなんて話もしていた。
心地よい会話と飲み物を頂き終え、僕らは尾道の街にくり出す事にした。
きっちゃ屋から出る時女主人は気持ちの良い笑顔で「いってらっしゃい」と僕らに手を振った。
僕も「いってきます」と手を振った。
その日はとても暑かった。雨の気配などない。本来ならこういう日は山側には行かずに商店街に入ってしまうのが手だろう。
だが坂の街を堪能したかった僕らはそのまま山手側の道を歩いて、二階井戸を見に行く為に持光寺(じこうじ)の方へ向かった。
持光寺は「あじさい寺」として知られ、また粘土を握って自分の仏像を作る「にぎり仏作り体験」なんてものもやっているようだ。
僕らは土堂公民館の手前の脇道に「二階井戸」「持光寺」の
看板が掲げられているのを見つけ、その路地に入ろうとした時だった。
突然婆さんが現れ僕らに言った。
「どこ行きたいんかのう?」
「二階井戸を見たいと思って」僕は答えた。
「今はこの道は作業しとってな。ようけ道具が置いてあって通るのに難儀する。
足元を見んさい。足元のタイルをたどれば持光寺。そこから右手に曲がれば二階井戸じゃけ。」
そう言って老婆は家へと引っ込んだ。
今僕らが入ろうとした、老婆が来た路地を覗き込んでみたが通れるには通れそうだったので老婆が親切心から言ったのかどうかは計りかねた。
よくよく見るとその路地はかなり住宅に隣接する道であった。
僕は「旅の恥はかき捨て」などというものは嫌いだ。旅先では行儀よくすべきだとも思う。なのでここは素直に老婆の言うことに従った。
それに尾道散策の場合、目的地に向かい最短を行くことが正解ではない。
僕らは土堂公民館をぐるっと周るように道を進んだ。
土堂公民館は公民館と言っているが自分がイメージする公民館よりもずいぶん大きくて2階だか3階には大きな体育館があり、バスケだかバレーだかを子供達がやっている音が聞こえた。
その道を行くと持光寺へと出た。そこから石の門をくぐり階段を少し降りると二階井戸はあった。
尾道を歩いてくると目的地に行く道は一つでは無いという事を改めて実感する。目的地に向かっているはずなのに、路地を見つければあっちに行ったりこっちに行ったり、あっちに出たりこっちに出たり。
登ったり、降りたり、疲れて休憩したり。そして色々な出会いがあり、学びがあり、結果目的地に着いたり着かなかったり。
浅慮だと言われるかもしれないが人の生き方と重ねてしまう自分もいる。
ちなみに二階井戸とは1階からでも2階からでも水を汲めるようになっている井戸の事である。
江戸時代の頃、尾道の発展と共に海側だけでなく山手側にも人が多く住むようになった。そうなってくると水の確保も大変で、井戸水を山の斜面に住む多くの人が利用できるように「二階井戸」として工夫され使われてきたものである。
上水道が発達した現在では二階井戸は使われてないようで、井戸を覗くと下の階の井戸は板で覆われていた。桶や鎖も錆びついていたが小さい櫓は残っていて当時の生活の様子を伺う事はできる。
しかし二階井戸の説明の為の立て札はあったが保存の為にちゃんと保全されているかというと疑問に感じもしたので、もしかするとこのまま朽ち果てていくのかもしれない。
僕らはそのまま二階井戸脇の階段を降り、踏切を渡って2号線へと出た。2号線は日を遮るような物が無く、また線路沿いなのでとにかく暑い。
そして昔よく嗅いだ線路が熱せられたあの独特の匂いが鼻をつく。
「尾道の夏は鉄の匂いがする」
それにしても尾道は寺の手前や参道の途中に踏切がある事が多い。
神様も落ち着かないんじゃないか?とも思うし、尾道の神様は出来た神様だからそういうものも気にしないんだろうとも思ってみたりする。
少し歩くと今度は大林宣彦監督の「転校生」等でロケ地になっていた通称「とろとろ坂」へさしかかった。
ここの大きな陸橋は昔、国鉄が主導して作ったか何かでよくよく見ると使わなくなったレールを使って骨組みの部分が作られている。そういう部分に目を向けてみるとこの無骨だが面白い作りの陸橋がより可愛く見えてくる。
僕らはそのとろとろ坂をのぼって線路を渡り、こんなところに店があるのか?という路地へと入って行く。
細い、細い線路脇の道を行くとこだわりの珈琲屋があるらしいのだ。
まあ時間帯的にまだやってそうにないかな?とは思っていたが一応店の場所を確認したいが為にとりあえず店の前まで行ってみた。
店は案の定閉まっていた。ここに何があるか知らないと何屋かわからないであろう。いつかここで美味い珈琲を飲ませてもらいたいと思いながら店を後にした。
またその近くに床屋と帽子屋と雑貨屋を合わせたようなお店がある。
こちらも気になっていたので寄ってみたが、どうやらこの日はお休みだったらしい。こちらもいつかまた機会があったら行ってみようと思う。
さてさて、この暑さの中、急ではないとは言え上り下りを繰り返しているとやはり段々とバテてくるものである。
それでも気になるお店は沢山あって悩ましい。
とろとろ坂からさらに2号線を東に向かい、山手の活版カムパネルラも覗いてみた。こちらは雑貨の販売は勿論、活版体験も行えるらしい。
この時は営業時刻の10時を回っていたがお店は閉まったままだった。
土曜日だがこの日は暑さのせいかみんなのやる気が無いのか…それとも化け猫にでも化かされているのか…。
少し首を捻りつつも、そろそろこちらも暑さにやられてきたので次の気になるカッフェーへと移動する事にした。
2号線から小さな高架下をくぐり山手側に少し登ると蜂蜜屋、カフェー、ステンドグラス屋と気になる店が軒を連ねている。
僕らはカフェーに入り体を休める事にした。
店に入り注文を済ませてから外を眺められるカウンターの席に座った。
外には今のカフェーになる以前のオーナーがやっていた店名の入った鉄道の行き先表示板風の看板が飾られている。
しばらくしてアイスカフェラテが運ばれてきた。
凍らせた濡れ紙の手拭きも着いてきて、その心遣いが嬉しい。
店内もお洒落な雰囲気で沢山のグッドガール、グッドボーイがお店に足を運んでいるのだろう。
しばし休んで店を出て、右隣のステンドグラス工房にも入ってみた。
中には沢山の可愛らしいステンドグラスを使った髪留めやイヤリング、キーホルダーなどの雑貨が置いてあり、店の奥では自分でもステンドグラスを使った小物を作れる体験講座もやっていた。
時間があれば僕もやってみたいと思っていたが、今回は中々難しそうである。
そこでは妻が髪留めを一つ購入していた。
時計を見ると11時になろうとしていた。
今回の一番の旅の目的、商店街のデニム屋が開く時間である。
4.商店街のデニム屋にて
僕らは山手側から商店街の方へと向かった。
商店街は屋根があるので幾分快適に歩く事ができ、少し進むとその店はあった。
「ONOMICHI DENIM SHOP MADE IN BINGO」と書いた看板が置かれている。
引き戸を開けて店内に入ると尾道の人によって履き込まれたユーズドジーンズが並べられていた。
店内は奥行きのある縦に長い感じで、お洒落なギャラリーのような感じでもある。
勿論履き込まれる前の新品のジーンズも取り扱っているので、並べられたユーズドジーンズをを見るのもそこそこに、僕はデニム屋の女主人に声をかけジーンズを一つ見繕って貰いたいと頼んだ。
「僕は今日この為に尾道に来たんですよ」と言いながら意気揚々と尾道デニムプロジェクトのジーンズの中でも一番標準的な「PJ001」というモデルを頼んだ。
この「PJ001」というモデルのジーンズは特に備後地域に拘って作られたジーンズでボタンには「ONOMICHI DENIM PROJECT」と入っている。
補強用のリベットには「BINGO」の文字が刻印されていて、ウエスト部分のタグにも「ONOMICHI DENIM PROJECT MADE IN BINGO」と入っていた。少し厚手の革パッチは因島の革工房で作られているとの事。
僕がこのジーパンの気に入った部分の一つがスレーキ(ポケットの袋布)の手触りと素材感。瀬戸内の穏やかな海をイメージした波柄ヘリンボーンの独自のスレーキらしい。
またクラシックなジーンズ好きが選ぶことの多いselvedge(セルビッジ/通称:耳/布の端がほつれないように厚く織られた幅の狭い白い耳のこと)も付いていて細部に拘りを感じる。
デニム屋の女主人は僕に言う。
「普段サイズはどれくらいでしょう?」
「36インチでレングス(裾の長さ)は一番短いのを頼もう」
このデニム屋のジーパンはレングスの長さも選べるものが置いてあり、自分の体型に合ったジーンズを選べる。
残念ながら私の足は短い。
とても朗らかで背丈の高い、接客の好きそうなデニム屋の女主人からジーパンを受け取り試着室で試着してみた。
ウエストは問題ないのだが予想よりふくらはぎ部分が窮屈だった。
太ももから膝へかけての形は地元の働く人の意見を取り入れ、作業しやすいように若干太めの形に作られているらしいので太もものきつさは感じなかった。しかしふくらはぎは裾がまとわりつかない程度に絞ってあるとのことで、自分には少々きつく感じる。
これは素直にワンサイズ上げた方が良さそうだと思い上のサイズをお願いした。
この上は38になりレングスもさらに長くはなってしまうのだけれどしょうがない。
この「PJ001」は防縮加工がされており洗ってもあまり縮みが出ないだろう。
本当は乾燥機にでも入れてウエストが締まってくれれば良いのだが、それは期待できなさそうだ。
しかしウエストとレングス以外は38インチで問題なさそうなのでウエストとレングスは東京に帰ってから、高円寺か芝のジーンズのお直し屋にでも出向いて詰めるとして、これを購入する事に決めた。
またこの尾道のデニム屋に来る前から決めていた事があった。
「この店でジーパンを買ったらそのまま履いて帰り、ついでに瀬戸内の海に入って尾道まみれのジーパンにしてやろう」と思っていたのだ。
そういう事を女主人に話してやったら女主人は「何を言っているのか?この阿呆は?」という感じで顔は笑っているが目は笑っていない表情でこちらを見ていた。(勿論被害妄想だろう。)
「ジーパン好きにはそういう酔狂な事をする奴もいる」
そう弁解気味に言ってはみたが、女主人の目は相変わらず笑っていなかった。
ふと、ここの店内は空調が効き過ぎではないのか?と思ったが気のせいかもしれない。
これ以上阿呆に見られるのも腹ただしいので、話を変えてジーンズの他に小物も見せてもらう事にした。
このデニム屋にはジーンズの他にTシャツや靴下、デニム洗濯用の洗剤なんかも置いてある。
僕は靴下を手にとった。
この靴下も店に来る前の下調べから気になっていた商品で、尾道市の市章をイメージした見た目クラシカルなラインソックスである。
このラインは上が向島、下が尾道、その間の部分が尾道水道をそれぞれシンボル化したものだという。
旧式の編立機を使って織り上げているとの事で、一見厚手にも見えるが網目は少し大きめになっているのでサンダルなんかに合わせても涼しげにも見えそうである。
素材はデニムを生産した際に出た「残糸」と呼ばれる余った織布の糸を使用して作っているとの事。
色は現在3色あって
■NOON/正午 (green×blue) :島の緑と青々と光る海をイメージ
■SUNSET/日没 (orange):尾道水道から眺める美しい夕日をイメージ。
■NIGHT/晩(Navy × Yellow): 街灯に照らされた尾道水道をイメージ。
なかなかどれも良い色だなと思った。
また少し前には限定で…
■GREEN LEMON/レモンカラー :瀬戸内の穏やかな気候に恵まれ、国産レモンの生産量日本一を誇る尾道をイメージ。
なんてのもあったが、すでに完売していてそちらは手に入らなかった。
「2足買うとお買い得なんですよ。」
「今被ってらっしゃるお帽子にこの緑の靴下なんてお似合いですわね」
…なんてデニム屋の女主人の言葉に乗せられて靴下も二足購入する事にした。
会計を済ませ、折角なのでお願いしてスレーキの部分に今日の日付を入れてもらう事にした。
そう言えばジーンズ、デニム好きなら聞いたことがあるであろう「RESOLUTE」(リゾルト)の林芳亨氏という方がいるが林氏はこの尾道デニムプロジェクトにも監修として参加されていると聞いたことがあった。
その林氏が何かの動画で「ジーンズのスレーキにサインを入れる時は青いペンや!!」と言ってるのを聞いたことがあって、それにはとても同意する。
まあ林氏がジーンズへのサインに黒ペンを使っているのも見るので、その時の状況やノリや冗談もあるとは思うが僕も青が好きなのでスレーキに入れる日付のスタンプのインクは青にしてもらった。
なお本来の尾道デニムプロジェクトは先にも説明したとおり、尾道の人に尾道デニムプロジェクトのジーンズやリゾルトのジーンズを1年間履いてもらってユーズドジーンズを作り、それを履いた人の物語と一緒に再値付けして古着として販売するというものである。
この尾道デニムプロジェクトは尾道以外の方でもジーンズ購入時に尾道デニムプロジェクト参加権(¥1,100※2022年現在)を払えば参加できる。
このプロジェクトに参加した場合はスレーキに尾道デニムプロジェクトのロットナンバーを押して貰える。
僕の場合は特にこのジーンズを手放す事は考えていないので、日付のみをお店の好意で入れてもらった。
一緒に来ていた友人も面白く思ったのか色々と試着して結局今年の秋に発売される「ODP003」の見本品を気に入り予約したようだ。
こちらは11オンスの比較的薄手で作られており中々履きやすそうだ。腰回りにシンチバックなども付いており拘った作りになっていた。
僕らがジーパンを購入した後、店内のユーズドジーンズを見させてもらった。
綺麗に並べられたジーンズには整理番号とサイズと値段、そして職業履歴という物が書いた札が付いている。
この職業とそれぞれ異なる色落ちしたジーンズから色々な想像が広がって行くのがジーンズの面白いところだ。
「漁師」「ラムネ屋」「小学校の先生」「住職」…こうやって職業が入っているだけで物語が生まれてくる。
中には「歯磨き粉」なんて職業の付け方がしてあるジーンズもあった。
「生活用品メーカーと書かずに「歯磨き粉」なんて書くのが洒落が効いてて面白いし、思わずお店の人に色々聞いてみたくなりますね」
僕はデニム屋の女主人に言った。
「でしょう?狙ってるんですよ。釣られましたね」そう言って悪戯に笑った。
お店自体は若者に受けそうなお洒落な店内だが、プロジェクト自体は多くの年寄や中年も参加するプロジェクトだ。
世代の分断なんてどこ吹く風。
地元の人々や移住者がそれぞれアイディアを出し合って面白い事をやっているし、年寄りも比較的協力的で面白がって参加したり協力してくれるらしい。
朝に行ったきっちゃ屋でも同じような話になったが、このデニム屋の女主人も同じような事を言っていた。
やはり尾道にはそういう土壌が少なからずあるのだろう。
勿論狭い土地、狭い地域なので良く言えば世話焼き、話し好き、悪く言えばお節介好きな人も多くそういうのが面倒に感じる事もなくは無いだろうが、悪い意味での詮索や新しい事に対する拒絶反応は少なく思うので移住者やよそ者にも住みやすい土地ではあると思う。
あとがき
この文は東京で細々とイラストレーターをやっているaishiが2022年7月に尾道にジーパンを買いに行った旅行をまとめたものです。最初は一言日記位の気持ちで書き始めたのですが、思いの他尾道が好きという情熱が予想以上に燃え盛り、結局上編と下篇に分ける程の分量になりました。
基本的には行った場所や、やった事は大体事実ですが、話し方等は実在の人物とは異なる言い回しになっています。自分が面白く文章を書きたかったので「古い言い回し」に感じる言葉遣いが多様してあったり、ジーンズとジーパン等の名称が混在しています。読みにくい、不快と感じる人が多いと思いますがご容赦下さい。
誤字脱字も校正は自分以外していないのでもし見つけたらコメントやtwitter等で教えて下さい。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
よろしければ感想等お寄せ下さい。
下編をupする活力になります。
aishi
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