ヤマシタトモコ

祖父が亡くなったのは小学校の3年生の頃とかだったと思う、わたしは、小学校低学年のころに親戚が立て続けになくなっていて、たぶん、ほかの「子ども」より、死が近かった。

今でもたまに、思い出す。
母方の親戚には子どもが私以外いなかったから、死後の手続きが終わるまで、わたしの相手をするひとはいなかった   
みんなすごく忙しそうで 子どものわたしは、子どもであることで足手まといになっているような気がしていた
2月の初旬、雪が溶けて凍った道路を、ひとりで遊んだこと。大人が占領するコタツを避けて、台所の小さいテレビでひとり、それまで見たことなかった志村けんのバカ殿を見たこと。わたしは、そのとき、その空間で「必要なかった」と感じていたこと。
生前の祖父に最後に会ったとき、理不尽に祖父に怒鳴られてわたしはまだへそを曲げているうちに祖父が亡くなったから、素直に悲しいと思えなかったこと。でも泣かないのは「祖父が亡くなった孫」としておかしい振る舞いなのではないかと思って、泣いたこと。
こっちにもどってきてから、「おじいちゃんが死んだせいで、スキーに行けなかったね」と母に行って泣かれたこと。あとから、わたしは、人として何か欠けているのではないかと、思ったこと。

ほんとうは、守ってほしかった。
悲しみから、寂しさから、子どもという異分子であるという自意識から、
「大丈夫だよ」と言ってほしかった、母と分かち合えない祖父を亡くした苦しみを許してほしかった、わたしはいまでも、
子どもだったわたしは、母の足枷だったのではないかと思っている
私の子供時代は、私の幸せは、母の犠牲の上で成り立っているのではないかと、そしてその母が苦しんでいるのに寄り添ってあげられないのは、私が冷たいからではないかと、他者から同じ話を告げられてもきっと責めないのに、いまでも、私は、子どもだった子ども時代の自分を許せないでいる。

さんかく窓の外側は夜、違国日記を読んで、赦されたような気がして、ウイスキーで酔っぱらいながらこれを書いている

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