祖母は96歳で亡くなった。 「私の葬式は暑くも寒くもない時期が良い。参列する人が気の毒だから」そんな生前の宣言どおり、ゴールデンウィークの最終日のさわやかな快晴の日に葬儀は行われた。最後まで自分で食事をとり、意識をなくしてから3日後に旅立った。誰がどう見ても、立派な死。大往生だ。 祖母の名は、世間に全く知られていない。 名古屋の片隅で、大正から昭和、平成を生きた。貧しい幼少期を過ごし、戦争を経験した。戦争から帰還した夫と小さな家を構え、つつましく仕事し、3人の子を生み育
ウイちゃんには深く傷ついた過去がある。 それは家族に関すること。 幼いウイちゃんは、大人のはなし声(それはウイちゃんの知らない親の声だった)を聞きながら、不安で、眠れなくて、電気を消した部屋でパジャマ姿でひざを抱えて、必死で祈った。 でも願いは届かなかった。 その傷を、 その時の大きないたみを、忘れないように抱えて生きることが、誠実さだとウイちゃんは思っている。 いや、思っていることにも気づかないほど、ウイちゃんにとって自然な考え方。 傷ついた時にフォーカスを当てて生
ウイちゃんが、おかあさんのお腹の中にいることが分かったとき、おかあさんもおとうさんも、おじいちゃんも親戚もみんな、とっても喜びました。 どんな子かな 元気に生まれてくれたらそれだけで良い 早く会いたいね おかあさんのおなかから出て、ウイちゃんが見たのは、みんなの笑顔です。 普段は怖いおじいちゃんも、目が、ほほがとろけています。 ウイちゃんが寝ていても、泣いていても、 ウイちゃんの存在、そのものがみんなを喜ばせています。 かわいいね ずっと見ていたい ーーーーー そ
自分の頭で考えず、 自分の言葉で話さず、 自分の気持ちを抑え込んだ。 あの頃の私は、一体”誰”だったのか。 割と最近まで、私は自分の気持ちが分からなかった。 理由は色々あるのだけれど、最も大きな原因は閉鎖的な小学校時代にある。 小学校入学後すぐに仲良くなったお友達が、支配的なタイプだった。 その子と同じでないと、「変(へん)!」の一言で切り捨てられ、仲間外れにされた。 小学生にとって、小学校は良くも悪くも社会の全てである。 仲間外れになりたくなければ、従うほかない。
私には、毎月1日のルーティンがある。 その一つは、近所の神社に行くこと、だ。 はじめに断っておくと、私には特定の信仰はない。 お正月は神社に初詣に行き、お盆には墓参りに行く。クリスマスにはケーキを食べる。 後に、離婚することになったが、結婚式では白いドレスも着物も着た。 色々な習慣が混ざったごく普通の日本的な生活を送っている、と自分では思っている。 仕事でアメリカに派遣されたことがあった。 現地で親しくなった友人は熱心なプロテスタントで、教会にも連れて行ってく
それは、友人にメッセージを送ろうと、LINEを立ち上げた時だった。 最近使った絵文字が一覧表示される便利な履歴機能。 いつもと何も変わらないはずだった。 その日は違った。 よく見る絵文字が、やけに印象的に目に飛び込んできた。 「こんなことになってたの?」 汗のマーク、頭を下げている人、目をぎゅっとつぶっている顔、走っている人、泣いている顔 そこには、謝ることに関するものばかりが並んでいた。 私は遅刻魔だった。 寝坊する。準備が遅い。 時間の見積もりが甘い。
3歳のころの話だ。 保育園の運動会は、ハレの舞台。 遠足だって特別だけど、お母さんたちが見に来る運動会はもっと特別。 私たちのお遊戯は、結婚式がモチーフだった。 女の子は、あたまにティアラをつけて一列に並ぶ。 男の子たちは、蝶ネクタイをして反対側に一列に並んでいる。男の子の前には手押し車。 スタートの合図があったら、男の子は手押し車を押して、女の子のいる場所まで一直線に走る。ペアの女の子を手押し車に乗せたら、元の場所まで走って、ゴール。 今ならツッコミどころ満
うん十年前に名古屋市で生まれました。 小学校教師の両親と4才上の兄のもとに生まれ、生後8か月から保育園に入りました。そのおかげなのか、人見知りしない性格です。 私の通った保育園は色んな遊具で遊べるように、スカートが禁止されていました。兄のおさがりの短パンをはき、ショートヘアで活発に過ごしていたので、男の子に間違われることばかり。 ただ当時から、庇護の対象になるようなステレオタイプな女子像に違和感を持っていたように思います。かわいい女性だけじゃなく、かっこいい女性がいてもいい