私には悪口の才能がない【エッセイ】

 悪口ほど才能が要るものはないと思う。

 悪口は言っても聞いても後味が悪い。
 しかしら後味の悪さを面白さが越えれば、エンターテイメントとして成立する。芸人さんが言う悪口ってすごいなと思う。聞くと笑ってしまったりスカッとしたりする。彼らは話術やバランス感覚に優れている達人だからである。

 一般人のなかにも悪口の技術に優れた人がいる。そんな人が集まりにいると人気者になる。本日の主役になる。少し羨ましく感じる。
 しかし、そういう人たちがたまたま調子が悪かったり調子に乗りすぎてしまったりしてセンスのない悪口を炸裂してしまう日もある。そうなってしまったら評価は一変する。あの人って悪口ばっかりで嫌だね、と。

 「あの人」の言う悪口をエンタメとして消費していたならみんな同罪だ。なのに「あの人」を生贄にすることで共犯関係を離脱しようとする。


 私は場の空気に乗せられて悪口を言ってしまう人間だ。嫌な知人の悪口を言えば、連帯感が生まれる。普段大人しい人でも、活発な人でも、どんな人でもみんな同じ熱量で盛り上がることができる。盛り上がると、ついつい楽しくなって余計な悪口をたくさん言ってしまうしまう。言いすぎてしまう。

 そして後日罪悪感に胃を痛めて後悔する。もう人の悪口は言わないようにしようと心に誓い、正しき行いをする日々を送る。人間というのは愚かな生き物なので時間が経てばかつての大後悔を忘れていく。また愚行を繰り返す。

 私の言う悪口のタイプは「ガヤ型」だ。主役格(悪口上級者)の人々が件の人物の悪行エピソードを話している間に「そうそう。」や「わかるわー。」などの相槌を打つ。私の担当はそれがメインだ。
 決してこれは主義なのではなく、適性による結果である。メインを張る才能がないのだ。
 自分に悪口の才能がないと思う具体的な理由には、「頭の回転が遅いので適切なエピソードを適切なタイミングで思い出すことができない」、「エピソードを思い出したとしてもわかりやすく且つ面白く話せない」、「件の人物の心情を画定して語ることができない(解釈の余地が多数あると選択肢を残したくなる性格なので)」、「そもそも自分が話題の中心になるのが苦手」等が挙げられる。才能がある人々は私ができないことをさらりとやってのける。

 悪口の才能がないことの根っこの理由としては、幼い頃から自分の中に常識の判断軸を持たずに大人になってしまったのが大きいと思う。
 今でも自分のしている行動が正解か不正解かの判断が難しい。だから、変わった行動をしている人たちの行動が不適切かどうかを判断することができない。
 この前、図書館で大きな声で問い合わせしている人がいたのだが、訳の分からない事を叫んでいるのではなく問い合わせをしているだけだしどちらかといえばセーフかなと思ったが何となく不快な気もしたので、一緒にいた友人に「あの人の発声舞台向きだね。」と打診してみたところ、「頭がおかしいね。完全にイっちゃってるよ。」との回答をもらったので、あーアウトだったのかと判断できた。

 社会に出たことによって少しずつ自分の中の判断軸が育ってきたので、もう少し修行を積めば悪口の技術が向上するだろう。
 でも悪口はなるべく言いたくないので、できれば悪口以外の才能を伸ばしたい。

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