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療育にまつわる「からだ」へのまなざしvol.23

私の中で、意識して、あえてしないようにしていること、というのがいくつかある。その中の一つが、「あえて言語化しない」という態度だ。それは、「整理しない」ということに等しい。もちろん、すべての事象について、そうするわけでなく、おどりについての大切な部分や、今だと、「療育現場」の「からだへのまなざし」を探る際に、そこで起きていることへ対してだ。そこで何をしているかというと、あえていうなら「観察している」。「感じている」。こんなことを書くのも、療育にまつわる周辺が、あまりに「言語化」されることに忙しい印象を受けるからだ。だから、見過ごされていく。整理できないものが・・

以下は、そういうことに対する「ヒント」があります。

<雑感>(文責:花沙)
 例えば、ずっと周囲の人を叩いてばかりの子がいるとする。気持ちが高ぶってしまい、脳は興奮状態、周囲の声や指示は耳に届かない。こういった場合は、いったんクールダウンさせるために、静かな場所に移動させる。そして落ち着いたら、その子の気持ちを聞く・・・。などの支援方法がある。実際そんなスムーズにいくものでもない。それでも、落ち着いて、クールダウンしなければ、何も始まらないのだ。
 バオバブカフェの大きなキーワード「カラダ」はヒントになるのではないか。エメさんのお話の中で、たくさん遊んだ後は、ゆっくりとカラダを休ませて、自分のカラダの感覚や呼吸に耳を澄ますワークのお話が出てくる。すぐにスムーズにできなくたって、繰り返し、根気よく続けると、「なんだか気持ちがいいな、穏やかだな、落ち着くな」という気づきを得ることができる。カラダに意識をフォーカスすると、カラダが気持ちを“安心”のほうに、持って行ってくれる。そんなカラダを誰もが持っていて、カラダに備わった力を信じてみる・・というお話。感覚を鎮めて、穏やかな時間を経験することは、日常の中でほとんと忘れられている。
 発達障害の子には、結局、心のケア(心理療法)が一番大切なのだろうか。そんな素朴な疑問を話し合う。もちろん、それは大切だろうし、何より怖いのが二次障害(鬱など)なのだ。二次障害を防ぐために、心理療法的アプローチは必須だろう。しかし、もっとそれ以前での共通理解があれば、二次障害へと進む前に、本人も周囲も心地よく生きていける方法があるかもしれない。
 ふと、熊谷高幸「自閉症と感覚過敏」(新曜社2017)という本を思い出す。よく、発達障害(自閉症、ADHD、LD等)・・と一口にいっても、出てくる症状は人それぞれ多様だし、それって誰にでもあることもあるし、本人の勘違いとかワガママとかかもしれないし、とにかく多様すぎて、どう対応していいかわからないよ、という声はよく聞かれる。熊谷氏は、人それぞれの多様な症状にフォーカスするのではなく、「感覚過敏」という視点から考えれば、全ての多様な症状に説明がついてくる、と述べている。つまり、「カラダ(脳含む)」からの視点の発想といえる。自閉症の人々は、過敏な感覚世界で生きていて、刺激への耐性がつきにくかったり、逆にとても鈍感な部分も発生したり、アンバランスである。

「感覚過敏があると、外界の捉え方が通常と異なり、行動の仕方も通常と異なってくる可能性がある。すると、人々と共に生活することや学ぶことがむずかしくなってくる可能性がある」(前掲書、はじめにⅵ)

この感覚過敏には、失敗を極度に恐れたり、否定的な他者からの声かけに敏感に反応してしまうなども含まれるだろう。通常は、それは心の問題と言われるが、感覚過敏という視点を持っておく必要はある。支援者は、なるべく肯定的な言葉で、示唆することが求められる。例えば、「これはダメ!」ではなく、「こうすると、マルだよ」というのも、繊細な感覚過敏の子どもに必要な支援だ。「ワガママ」といわれがちな癇癪も、失敗してしまったことに極端に反応して、苦しくて大暴れしているのかもしれない。テンションが上がりきって、大人の指示が聞けないのも、感覚的に鈍感になって、本当に聞こえてこないのかもしれない。癇癪が起こる前の支援、テンションが上がりきる前の支援の大切さの意味も見えてくる。
 また本人にとっても、感覚過敏という視点によって、極端な自己否定を避けることができる。周囲の人に理解を求め、具体的な対応について自分から発することができるかもしれない。

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