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妥協っていけないことですか

「妥協」という言葉は、たぶんネガティブな意味で使われることが多い。
例えば彼氏とか、志望校とか、今日のおかずに使う野菜とか。
ホントはこれがよかったけど、希望のものがなかったから仕方なく……。それが「妥協」。
(ちなみに辞書によると、対立する意見が折り合わない場合にどちらかが主張を取り下げるか、双方が一部取り下げる形で決着すること、とある。)

仕事の場面でも「妥協」はよく出てくる。
多くは「妥協したくない」、それが正しい「仕事観」なのだという文脈で。
仕事で妥協するということは、成果物の品質を諦めるということに直結すると思うのだけど、やっぱりそれはどうしても苦しい決断になるんだと思う。
自分の実力は本当はこの程度ではないのに、これで納品しなければならないとか、
時間さえあれば…というのもよくあることかもしれない。
「すみません、これ妥協しました」なんて、仕事を依頼してくれるクライアントには口が裂けてもいえないと思う。それは、「手を抜いた」と同義になりかねないのだから。

私だって、妥協はしたくないし嫌いだ。
といいたいところだけれど、必要だと感じる場面はたくさんある。
「妥協してくれないかな」と思うこともたくさんある。

クオリティにこだわって時間をかけ、いいものを作り上げることは本当に尊い仕事だと思う。
でも、それは自分に許された範囲でのことだとも思う。

ライティングをしていて、または編集をしていて、本当にくやしいことだけどごくまれに「ドツボ」にハマるときがある。
もう何を直しても、どう練り直しても、これ以上はよくならないと思うときがある。いっそ違う人がやってくれればいい、と投げ出したくもなる。
それでも締め切りは待ってはくれないし、モノは出さなければならない。

SNSを見ていると、「仕事楽しい!」というつぶやきと肩を並べる多さで「自分が最高だと思うモノをつくりたい!」という高尚な言葉を見る。
それはアートなら許されるかもしれない。
あるいは、あらかじめ用意された「あなたが作業するための期間」でなら。
でも、そこからはみ出た瞬間にその「こだわり」は、誰かのための時間を食いつぶし始める。それを忘れないでいたい。
そして何よりも残酷なことに、「こだわり」は相手による評価の対象にならないことも多い。気づかれないことのほうが多い。これも覚えていたい。

たとえば、いいモノは“みんなで”作れるかもしれない。
おのおのが自分の役割をしっかりと果たすことは理想的だけど、もしかしたら「こうしたらもっとよくなるかも!」と、他の誰かが気づくかもしれない。
時間制限がきて「これが最高の成果物です!」と胸を張って言えないものしかできなかったなら、素直に「気になるところがあったら言ってください」と伝える勇気も必要なんじゃないだろうか。

妥協しない姿勢は美しい。
でも、それが時に人をいらだたせることもある。

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