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【インタビュー】わたしの海外移住チャレンジ🇳🇿

結婚を前に、夢だった海外生活を諦めかけていたShokoさん。

ふとしたきっかけで、3ヶ月間だけオーストラリアを訪ねます。

それから、目の前のチャンスに挑戦し続け、数年後にはニュージーランド移住を果たします。

彼女のあっけらかんとした素直な明るさと日本人らしい勤勉さで、たくさんのチャレンジに取り組んだ話を伺いました。

【インタビュー】わたしの海外移住チャレンジ

「コロナが終わったらワーホリに行きたい」
「コロナがなかったら、いまごろ海外生活をチャレンジしてたのに」

そんな夢や悔しい思いを抱え、いつか訪れる未来を待つ人も多いでしょう。
「もう大きなチャレンジなんて、わたしにできるだろうか」と、自信を失う人もいるのではないでしょうか。
そんな方々へ向けて、海外移住を体験した先輩に話を伺います。
Shokoさんは、小さなきっかけから20代半ばで短い留学生活を経験し、それから10年近く海外生活をしました。
彼女の明るく溌剌とした声に魅きこまれながら、話を伺いました。
アラフォー女子のトークをお楽しみください。

突然現れたチャンス。ピアニストとオーストラリアのパースへ

 
ー Shokoさんは横浜の高校を卒業した後、ホテルの専門学校を出て、北海道のホテルへ就職したよね。そこからなぜ海外へ行こうと思ったの?
24歳のころ、仕事仲間のオーストラリア人ピアニストに、海外生活の憧れを話したことがきっかけだった。
わたしは、勤めていた北海道のホテル(世界のVIPが訪れる超高級ホテル)を退職して、結婚する予定だったんだ。
高校のころから、漠然と海外生活への憧れはあったけど、わたしには現実的じゃないってトライできない理由を並べて、ずっと諦めてた。
でも憧れは消えなくて、いざ結婚が決まると海外生活への想いが強まったの。結婚したら、もうできないから。
「挑戦してみたかった」って、ピアニストのカルロさんに何気なく話したら、「やらずに後悔したら、もったいない!3ヶ月だけだったら平気でしょ?いまだったら、できるよ!」って、カルロさんが言ってくれたの。
カルロさんもホテルとの契約が終わるころで、退職時期がわたしと同じだった。
「妻とオーストラリアへ帰る予定だから、一緒に行こう。君のビザの手配もするよ」と言ってくれて、わたしも最初は驚きながら話を聞いてたんだけど、だんだん「それなら安心だ」と思えてきたし、何よりカルロさんの言葉が強く心に響いたの。
「そうだ。行かなかったら後悔するし、いまなら挑戦できる」と思って3ヶ月間だけ、行こうと決めたんだ。
カルロさんがいなかったら、挑戦できなかった。
 
ー 突然の決意に、周囲の人や婚約者さんはびっくりしたんじゃない?芸術家として生きるカルロさんの言葉だから、重みもあったよね。オーストラリアのどこに行ったの?
パース!日本人も少ないし、比較的安全で住みやすい街だって、カルロさんから聞いたから。
パースは、ずっと憧れだった「ザ・海外」だけど、都会ではなく、ちょっと田舎。わたしは、横浜の田舎育ちだから、パースの田舎っぽさがすごぐ気にいったんだ。
パースは、街やデパートもあるけど、自然も海もある。高台に登ると、真っ青な海や赤土の大草原が見渡せて、本当に綺麗だった。北海道の自然も素晴らしいけど、海外特有の自然に、一気に惹きこまれた。
人もフレンドリーで、友達もたくさん出来た。何もかも新鮮ですごく楽しかったの。
 
ー そのときは、どういう身分だったの?語学留学生?
観光ビザだったから、短期の語学学校に通ったよ。でも日本人留学生が多い学校だったから、日本人とばかり話して語学は身につかなかった(笑)
海外で日本人と出会うと、不思議とすぐに仲良くなれる。正直、日本で出会ったら友達になれたかな?って相手でも。
お互い挨拶をした瞬間から、仲間意識が芽ばえる感じだった。

パースは小さな街で、あっという間にたくさんの友達ができた。日本では味わえない交流が面白くて、ワーホリでまた来ようって決めたんだ。
 
ー 海外生活ならではの魅力を、体感したんだね。婚約者さんはワーホリにたいして、どんな反応だったの?
あ、そのころはもう冷えきってた。新しい世界が楽しすぎて(笑)
 

ワーホリ1回目。再びパースへ

 
ー いったん日本に戻って、ワーホリで再び渡航したんだね。
うん。パースに着いて最初の1ヶ月間は、また語学学校に通ったよ。今度こそ語学の勉強をしようと、前回とは別の日本人留学生の少ない学校を選んだの。私も真面目に勉強したから、苦労した(笑)
といっても、ベーシックな英語を学んだだけ。
日常生活で困らないレベルが身についたのは、バイトのおかげだった。
 
ー パースでどうやってバイトを見つけたの?
アナログなんだけど、履歴書を何枚も作って、あちこち配り歩いたの。ホテルの経験があるから、少しでもその経験を生かせそうな職場を選んだよ。そうしたら、あるホテルのレストランが「日本人なら来て」って呼んでくれたの。
そこは、日本の商社マンがよく使うお店だった。
スタッフは外国人だけだったけど、わたしが英語を分からないときは、身振り手振りで教えてくれた。
ホテルの経験から業務内容も覚えやすかったし、レストランに貢献しようと頑張っていれば、周りは支えてくれる。
そこで少しずつ、本当に少しずつ英語を学んでいった。

 
ー 自分から役立とうとする姿勢は、非言語なコミュニケーションでも伝わるものね。それにShokoさんっていつもオープンマインドだから、周囲の人にも気に入られたんじゃないかな。ワーホリ中も友だちはできたの?
友だちは結構できた。外国人のフラットメイトと出かけて、誘いがあればなるべく乗った。オーナーさんのお茶会にもね。何いってるか、ぜんぜん分からなかったけど(笑)
現地の日本人とのつながりも強く作ったよ。向こうに行ったらなるべく外国人と話したいけど、いざとなったら助けてくれるのは日本人。
日本人ならではの目線で「こういうときはこうした方がいいよ」って教えてくれるから。

 
ー 海外生活の心得が分かると、できることも少しずつ広がっていくね。最初のパース滞在時とはかなり違う印象だな。
ワーホリが終わったときは「わたしにも海外生活ができたんだ」って自信がついた。
でも帰国してからは進路に迷って、次にやりたいことが決まらなかったの。就職に有利な資格を取るとか、わたしなりに色々行動したけどね。
気がつくと、30歳が目前。ワーホリの年齢制限は30歳だから、海外生活をする最後のチャンスだった。
パースで自信がついたから、もう一度自分を試したくて、ワーホリを申請したんだ。
 

ワーホリ2回目。ニュージーランドのクライストチャーチへ

 
ー それでニュージーランド(以下、「NZ」と略)に行ったんだね。NZのどこに行ったの?
クライストチャーチ。理由は、以前祖母と旅行で訪れて、もう一度行きたいと思っていた街だったから。
クライストチャーチは、ヨーロッパ文化とオセアニアの自然が融合された、運河に囲まれた街。地震(※)で、ヨーロッパ風の建物が全部崩れちゃったから、いまはかなりモダンだけど。
(※)2011年のカンタベリー地震のこと
 
ー そのころは、もう語学学校には通わなかったんだよね。知り合いもいない外国で、どうやって友達を作ったの?
渡航前に現地の日本人コミュニティを調べたの。知り合いもいないし、NZ英語が全然分からない不安もあったから。
そこで見つけたのが、日本人が経営しているバックパッカーの宿泊所。長期滞在者が多い宿で、家賃も安かったから安心だと思って申しこんだ。
実際、オーナーだけでなく宿泊客にも日本人がいたよ。生活をすれば、宿泊客同士、共有ダイニングやキッチンで毎日顔を合わせるようになる。それで、友だちも増えていった。
日本人のコミュニティを先に探したことは、正解だったよ。何かあったら助けてくれるし、孤独にならずに済む。
 
ー またバイトをしたの?
ううん。NZに着いて初めの3、4ヶ月は、ぼーっとしてた(笑)。
3ヶ月後に叔母が1ヶ月間遊びに来る予定があって、それに付きそってNZを案内する約束だったから、それまで仕事しなくていいやって、毎日遊んで公園で本を読んだり、街をうろついたり、新しい友だちと旅行にいったりしたよ。
NZの自然を、全身で吸収して過ごしたの。
 
ー 4ヶ月も遊びつづけるって(笑)。「いま一番やりたいことを選べる強さ」が、Shokoさんの行動力を支えているんだね。前回のワーホリ経験もあるし、のんびりを実行できる余裕もあったのかも。
それにしても、仕事や学校に行かなくても外国に滞在できるんだ。

ワーホリは、働かなくてもいいの。本当に自由なビザなんだよね。
知らない街で生活するときは、最初にうろつくのがいい。私も街を自分の足で覚えたことは、結果的に役立った。土地勘がないと、生活しづらいから。
 
ー 旅行案内のあとは、バイトを始めたの?
カジノのレストランでバイトを始めたよ。それもオーストラリアと同じやり方で、履歴書を作って、色んなところに配り歩いて見つけたの。
カジノは、全く知らない世界だったけど、華やかで面白い仕事だった。
近所のおじいちゃんが来ることもあったし、大金入りの紙袋を持った謎の外国人が来たこともあった。
アットホームとスリルが混在して、多彩な接客ができた。
バイトを続けているうちに、マネージャーから「正社員にならない?」って声がかかったの。正社員になれたら、カジノが就労ビザの手配をしてくれる。
海外生活はこのワーホリで最後だと、ずっと思っていたから移住できるなんて夢みたいだった。

 

そのまま移住。そしてカジノディーラーに

 
ー じゃあ具体的に移住の計画があったわけではなく、行った先の出会いで新しい道が開けていったんだ。
すごく運がよかったんだよね。出会った人がみんないい人たちだったから。
 
ー 出会いに恵まれたのは、Shokoさんの人柄だよね。正社員に起用されたことも、努力の結果だと思う。
努力っていうか、もちろんそれもしてるけど、日本人の常識で働いたことが大きかったと思う。
NZ人の仕事観って、日本人とは全然違う。
現地の人は、よく遅刻するし、急に休むし、あまり真面目じゃない。
勤勉さは日本人がダントツ。日本人の常識で働いているだけで、評価してくれる。
そのころのマネージャーはドイツ人で、きっちりしている人だったから、よけい私は気に入られたの。
そのころは、英語以外のコミュニケーションやルールも理解できるようになった。
例えば、困ったときは「わたし、困ってるの!」って直接アピールするとか(笑)。
外国人は日本人特有の察する能力がないから、黙っていても誰も助けてくれない。
そんな海外の常識が分かれば、わたしも必要以上に肩ひじはらずに済む。自然体で努力していたから、職場にも溶けこめたんじゃないかな。
 
ー 日本人の勤勉さと謙虚さ、さらに器用さは、世界に誇れる財産なんだね。Shokoさんは、その3つを持っていたわけだ。カジノでは移民のスタッフが多かった?
NZは移民の国だから、多かったよ。色んな国の人と働けて楽しかった。
 
ー レストラン担当から、カジノディーラーに転職したよね。きっかけは?
レストランからVIPルーム担当に移って、カジノゲームを目の前で見るようになったら、ディーラーに興味が湧いたの。
ディーラーは、ルーレットを回したり、買ったお客さんに配当額を配ったり、ゲームを仕きって盛り上げるエンターテイナー。
難しい仕事だけど、やりがいはあるなって思った。
ディーラーは、ゲームごとに資格が必要で、資格が増えるたびに収入が上がる。
給与面も、魅力だった。
それで、休み時間にディーラーたちと話して、情報収集をしたの。
VIPルームマネージャーも「挑戦してディーラーが性に合わなかったら、いまのポジションに戻ればいい」って、後押ししてくれたんだ。
 
ー なんだかカルロさんと話したときの光景みたい(笑)。カルロさんのころと比べて、チャンスがどんどん大きくなっているね。
まず初めに、2つのゲームライセンスをとって、ディーラーデビューをしたよ。
そのあと、他のゲームライセンスも増やして、最終的に全てのライセンスを取った。
しかも1年以内で。3年かかった人もいたから、レアだと思う。
 
ー それで収入が増えて、自宅を購入したんだ。
NZに住んで4年目だね。NZで出会った彼氏と、かなり広い家を買ったよ。
移民のまま家を持つ人は珍しくないけど、私はそのタイミングで永住権を申請をしたんだ。
申請は通って、面接や資産の問題など全てクリアして、あとは結果を待つだけだった。
 

移民排除政策で、帰国

 
ー 着々と永住に向けて準備をしていたんだね。それが突然、ナショナリズムのNZファースト党が政権を取って、何もかも一変してしまったね。
政権なんて交代するわけないと、ずっと思ってた。
企業もカジノも移民ばかりだから、NZは、ずっと移民の国であり続けると思ってた。

NZファースト党は政権をとった途端、公約どおり移民を排除するために、移民の税率をすぐに上げた。わたしもまだ永住権を持っていなかったから、その対象だった。
NZファースト党政権はすごくスピーディーで「移民の税金を上げます」って宣言したら、次の月には実行したの。
だから「外国人の永住権取得を難しくする」、「移民の不動産売買を禁止する」って言い始めたときは「これはすぐ売らないと」てなって、売ったんだ。
本当に怒りを感じたけど、時間がないからすぐに決断して行動しなきゃいけなかった。
他の移民も、仕事をやめてどんどん国に帰っていった。
それで、わたしも「撤退!!」って、出て行ったの。
 
ー 永住権まであと一歩だったのにね。せめて、もう少し遅く政権が変わっていたら……。それから日本を拠点にしているけど、永住権を取得しやすい国は他にもあるし、また海外生活はしたい?
まあね。コロナが落ち着いたら、考えようと思ってる。
海外生活は大変だけど、楽しい。
挑戦しなかったら後悔してたよ。

憧れも夢も、行動しなければこころから消えないから。
ー Shokoさんだったら新しい海外生活も、叶うはず。
 

海外生活をして1番よかったこと

 
ー 海外生活に挑戦して、1番良かったことは?
価値観の違う人たちと出会って、一緒に働いたこと。
海外に出なければ、日本では当たり前の常識が、ただの固定観念だったと分かる。

例えば、仕事。
日本人は仕事に対して、真面目な人が多いしわたしもそう。
NZ人ももちろん仕事が大事だけど、プライベートと比べたら2の次だった。
家族の誕生日を一緒に祝うために休む人も多かったし、みんなよく休む。
でもそれに文句を言う人はいなかった。
休んだ人の穴埋めを、誰もできないときでもね。
そんな光景は、少なくともわたしが日本にいたころは見なかったから衝撃だったな。
他の外国人の価値観が変わる瞬間も目にしたよ。例えば、インド人のカーストが高い男性は、男尊女卑が当たり前。そんな彼の女性に対する態度に、NZ人の女性は凄く怒ったの。
男性はびっくりして、ひどくしょげちゃった(笑)。
はたから見て面白かったけど、わたしはNZ人の女性ほど、彼に対して怒らなかったから「日本人女性は、性差別に疎いのかな」って逆に自分の常識について考えさせられた。
海外にいなければ、そんな経験はできなかった。
ー 今日はどうもありがとう。
いかがでしたでしょうか。
彼女が北海道にいたころは、将来NZで仕事を持ち、自宅を購入しているとは思ってもいなかったでしょう。
目の前に現れたチャレンジに挑み続けることで、気がついたときには想像もしていなかった大きな挑戦を成し遂げられたのです。
考えるほど不安になってしまう。かつてのShokoさんもそうでした。
でも、小さなきっかけから、彼女は大きく羽ばたきます。
「自分の心を突き動かすものがあれば、それに向かって進めばいい」と、現在のShokoさんは教えてくれます。
たとえコロナ禍で思うように動けなくても、いまできるチャレンジに挑み、少しずつ自分のすそ野を広げていけば、数年後には思わぬチャンスにめぐり逢えるはずです。
このインタビューが、コロナ禍でも夢を持ちつづける女性たちの励みになれば幸いです。